小坂 誠(こさか まこと、1973年7月2日 - )は、宮城県亘理郡出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。現在は北海道日本ハムファイターズの二軍内野守備コーチを務める。少年野球時代はチームの後輩に小野淳一。山元町立山下中学校卒業。宮城県柴田高等学校では甲子園出場はなく、高校卒業後は社会人野球のJR東日本東北硬式野球部に在籍。その後、1996年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズからドラフト5位指名を受けて入団。背番号は00。プロ1年目の1997年、ルーキーながら開幕からショートのレギュラーを獲得。3.4月の月間MVPを獲得し、シーズン全試合出場を果たすなど活躍を見せて新人王に選ばれる。盗塁王のタイトルは松井稼頭央に譲るも、この年に記録した56盗塁はそれまでの新人最多記録である佐藤孝夫の45盗塁を遥かに凌ぐ記録であり、現在も破られていない。1998年から背番号を1に変更。松井稼頭央と並んで43盗塁で盗塁王に輝く(故意のボーク疑惑による盗塁阻止問題も発生。詳しくはそちらの項を参照)。1999年は31盗塁を記録したが、松井稼頭央に1個及ばず盗塁王を逃した。同年は打率.280、出塁率.358を記録してゴールデングラブ賞も初受賞し、以後2001年まで受賞し続ける。1998年に続き2年連続でリーグ最多犠打も記録し、プロ野球史上初の「40盗塁・40犠打」を達成した。2000年に33盗塁を残して自身2度目となる盗塁王を獲得したが、打撃面では振るわなかった。2001年にはプロ野球史上2人目の入団から5年連続30盗塁を記録し、打撃では打率.262、出塁率.350と復調した。2002年は開幕早々に右足を骨折し長期離脱(後述)。入団から連続30盗塁と連続100安打の記録が5年で止まるが、通算4度目となるリーグ最多三塁打を記録した。2003年には通算50三塁打を達成する。2年ぶりに100安打以上をマークした。2004年は腰痛などの故障が長く続き、出場試合数が大幅に減少した。この年からボビー・バレンタイン新監督の統計スタッフの分析により「ゴロヒットよりフライヒットが多い」との指摘を受け、転がす打撃から外野へ飛ばす打撃にスタイルを変える。シーズン途中から眼鏡を使い始め、2007年からコンタクトレンズを試みた時期もあったが、その後、眼鏡とチューインガムがトレードマークとして定着した。2005年1月1日に入籍。4月22日、通算1000試合出場(401人目)を地元宮城県のフルキャストスタジアム宮城で達成。6月5日、通算250盗塁を達成。以後、西岡剛、堀幸一らと共に二遊間を3人でローテーションするという独特のシステムの下(出場の試合は全て遊撃手)で活躍し、打率.283、出塁率.353、自己最高となる4本塁打を記録。チームの31年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献した。通算4度目となるゴールデングラブ賞も受賞した。12月21日に金銭トレードで読売ジャイアンツへ移籍。ロッテで付けていた背番号1が巨人では永久欠番になっていたこともあり、同年に引退した元木大介の2を引き継ぐことになった。2006年 監督に復帰した原辰徳の構想では三塁小久保裕紀、遊撃二岡智宏、二塁仁志敏久と内野のレギュラーが確定していたため、キャンプでは「内野守備・走塁のスペシャリスト」としてセカンド・サードの守備にとりくんでいたが、正二塁手仁志の極度の打撃不振もあり開幕2番セカンドのスタメンを勝ち取り、この年は二塁での起用が殆どとなった(二岡の守備固めでない、ショートでの先発は二岡欠場時の2試合のみとなった)。4月15日の対横浜ベイスターズ5回戦(横浜)で、通算1000本安打達成。5月24日の対北海道日本ハムファイターズ2回戦で、巨人に移籍後初めてのお立ち台に立った。ロッテ時代よりも小技などの進歩を見せるが、打率1割台と極度の不振となり、併用された仁志と共倒れとなってしまったことで後半は守備代走要員に回り、ルーキー脇谷亮太が優先起用された。チーム内にケガ人が続出するなかで李承燁や二岡と共にシーズンを通じて一軍に定着してチームを支え続けたが、シーズン終了後には大幅減俸を受け入れ、10月には若手と共にフェニックスリーグに参加した。10月27日 シーズン中に取得したFA権を行使せずに巨人に残留することを表明。2007年から背番号を6に変更。3月30日、セ・リーグ開幕戦の対横浜戦(横浜)で史上10人目の通算250犠打を達成。翌年初頭に、越年で契約更改。肩の故障の経過を見たうえでの契約となった。セ・リーグに合わせて打球を上げる打撃スタイルなどを修正し、シーズン当初は開幕スタメンショートで押し出し四球を記録するなど活躍したが、チームの貧打により二岡が1軍昇格するとスタメンは二岡で固定され、仁志が移籍したセカンドも木村拓也や脇谷亮太が起用されることが多かった。出場機会は二岡と交代での守備固め、もしくは代走に限られ、1シーズンを通したヒット数はわずか3安打となった。下半身に不安を抱える二岡のバックアップ要員としてチーム優勝に貢献したものの、肩を痛めて8月3日の出場を最後に1軍登録を抹消された。2008年は2007年まで一度しか守ったことがなかった三塁を守ることも多くなった。故障の後遺症もなく、その三塁でも堅実な守備を見せた。若いが荒削りな坂本勇人が遊撃手として台頭し、二岡の本格三塁コンバートが決定。ひきつづき守備と走塁のスペシャリストとしての役割が期待されていたが、若手と中堅選手の台頭や、打撃不振もあり出場試合数は自己最少。プロ入り後初めて一軍で無安打に終わった。11月、金銭トレードでの東北楽天ゴールデンイーグルス移籍を発表。背番号は32。巨人には二軍コーチを打診されていたが、現役にこだわりたいとの思いから自分で移籍を願い出たという。2009年、楽天初の地元(宮城県)出身選手として楽天入り。新たに作られた応援歌には「宮城の星」という節を含む。巨人時代と同じく代走や守備固めで起用されることがほとんどだったが、5月にレギュラーの2人が相次いで故障し、スタメンでも起用されるようになる。5月3日の対オリックス戦で代走として出場し、二塁ゴロでホームインし、決勝点となる。5月25日の対横浜戦でトム・マストニーから4年ぶりの本塁打を打つ。また、8月16日の対ロッテ戦の12回に、荻野忠寛からルーキーイヤー以来12年ぶりのサヨナラ安打を打つ。2010年は1月の自主トレ中に腰を痛め、全治3週間の椎間板ヘルニアと診断され春季キャンプ合流が大幅に遅れた。シーズンではほとんど出番がなく出場はわずか7試合で、全て代走と守備固めでのもので打席に立つことは一度もなかった。10月1日付で戦力外通告を受けたのを機に現役を引退。2011年、楽天育成コーチ(野手担当)に就任。2011年5月15日、二軍内野守備走塁コーチへと異動。2012年は育成コーチ(野手担当)に復帰予定だったが、後任の種田仁が1月に退団したため、引き続き二軍内野守備走塁コーチを務める。2013年11月5日、自ら球団に退団を申し入れる。2014年シーズンより、北海道日本ハムファイターズの二軍内野守備コーチを務める。その守備の超人ぶりから「平成の牛若丸」、「小坂ゾーン」などと称された。当時小坂と同一リーグに所属していた城島健司は「小坂さんがいると、毎試合ヒットを1本損する」と語っている。ゴールデングラブ賞は遊撃手として4度受賞している。千葉ロッテマリーンズに入団して以来、ロッテの1軍では2004年に一度だけ三塁手を守った(攻撃中にベンチ裏で味方選手の素振りしていたバットが、三塁を守っていた今江敏晃の頭部に当たるというアクシデントがあったため)以外は9年間遊撃手のレギュラーを守り続けた。2軍やオールスターでは二塁手なども経験しているが、移籍時に一部スポーツ紙で「2005年に二塁を守った」という記事が掲載されたのは誤りである。巨人に移籍後は、二塁・三塁守備を習得して「内野守備・走塁のスペシャリスト」(2006年前半は仁志の打撃不振から事実上の正二塁手として起用された)として期待され、3ポジションで持ち前の守備力を発揮したが、打撃不振や故障により実力を十分に発揮することができなかった。楽天では本職である遊撃手(主に相手の先発投手が右投げであった場合)の他にも、細かい怪我の多い高須洋介の守備負担を減らすために二塁手を務めることもあった。また、守備コーチとしての役割も期待されている。RCAAは100以上のマイナスを記録している一方、守備得点は200を超えており、合計ではプラスとなっている。守備Win Sharesではロッテの遊撃手としては歴代No.1の数値を記録(2010年終了時点)。レンジファクターは遊撃手として1997年から7年連続で両リーグ1位を記録しており、うち1998年から2003年までは6年連続で数値が5を超えている。
出典:wikipedia
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