上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。MLB・ボストン・レッドソックス所属。大阪府寝屋川市出身。実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始めた。寝屋川市立第十中学校では野球部が無かったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、陸上部に所属した。高校は自転車で通えて野球が強いという理由から東海大学付属仰星高等学校に進学した。1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれて外野手を務める一方で、練習では打撃投手を務めることも多かった。3年になって投手になるが建山義紀の控えでほとんど登板機会がなく、同校も夏の府大会で敗退したため全くの無名選手であった。その頃、建山がプロ球団などから勧誘される中、上原は体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが、結果は不合格であった。この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものだったが、浪人してもう一度受験することを決意。隣町の予備校(KEC近畿予備校)に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。またこの時期にノーラン・ライアン著の「ピッチャーズ・バイブル」を読んでトレーニングしていた。翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入った。1年半ぶりの投球は上原自身が驚くほど球威が増しており、監督の中野和彦が球速を測らせたところ146km/hを記録した。その年の阪神大学リーグでは主戦投手として優勝に貢献。大学選手権でも好投し、プロのスカウトから注目されるようになった。大学3年時の1997年、日米大学野球選手権大会では大会タイの14三振を奪って、メジャー球団の関心を惹いた。この大会で速球が通用したことでプロでやっていく自信が芽生えたという。日本代表に選ばれた同年8月の第13回インターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となり、この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。秋の大阪経済法科大学戦では1試合21奪三振を記録。これはリーグ記録として残っている(2010年現在)。4年時の姫路獨協大学戦ではノーヒットノーランを達成した。大学4年間で通算リーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。通算36勝と完封13はリーグ記録。1998年のドラフトでは横浜高校の松坂大輔と並ぶ目玉と目された。大学時代は地元の近鉄バファローズがマークしていたが、国際大会の活躍で注目度を上げたことで、メジャー4球団を含む複数球団が獲得に乗り出し、最終的にメジャーリーグベースボール(MLB)のアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツによる争奪戦となった。一時はエンゼルス入りに傾いたが、大学2年の時から熱心に勧誘し続け、他球団が松坂獲得を狙う中でも一貫して上原を熱望していた巨人が、巨人ファンだった上原の父親をまず説得。その後、本人が悩んでいるときに、父親から誘われ同行すると、その場にいたのが、当時巨人の監督を務めていた長嶋茂雄だった。本来、ルール上ではプロ監督とアマチュア選手の接触は禁止されてはいるが、「抜け道」の形で「偶然に顔を合わせ、同席した」。上原本人は喜ぶどころか逆に困惑し、父が巨人ファンであることを知っていただけに「巨人って、そこまでやるのか…」という気持ちが膨らんだ。上原は迷いながらも巨人を逆指名し、1位で入団した。入団会見では「メジャーでやるにはまだ自信がないから、日本を選んだ」と述べ、悔しさを滲ませた。また上原は背番号19を希望したが、この数字には、大学受験に失敗して浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。は毎週日曜日に登板するというローテーションが組まれていたため、「サンデー上原」と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、すでに中日ドラゴンズの優勝が決まった後の消化試合であったため、注目はタイトル争いとなり、各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争い、松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けた。ここで上原も、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチからの敬遠の指示に従いストレートの四球で渋々歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を思いっきり蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った。なお、この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取り、9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びた。また上原自身も当時中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっており、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。このシーズンは20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じての斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としてはの木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。また、新人王と沢村賞も受賞する。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。7月2日の広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。7月27日には川崎市内で自家用車を運転中にオートバイと接触事故を起こし、オートバイの男性が重傷を負った。この事故について球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受け、業務上過失傷害で書類送検され罰金30万円の略式命令を受けた。これによりアサヒ飲料「十六茶」のCM契約も打ち切られ、この事故や転倒なども重なって、シーズンは9勝7敗に終わった。同年の日本シリーズ(対福岡ダイエーホークス)では、第3戦に先発し、チームの1勝目と同時に自身のシリーズ初勝利を挙げ、その後のチームの4連勝で日本一を果たした。は、4月13日の横浜ベイスターズ戦で左太ももの肉離れを起こして一時離脱し、後半戦では右ひざの故障もあり、2年ぶりに二桁勝利を記録したが、防御率は自身最低となる4.02に終わった。は自身初の200イニング登板を達成し、17勝5敗の好成績で最多勝と沢村賞、ベストナインを獲得、西武ライオンズとの2002年の日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初での西武以来12年ぶりの4連勝ストレート勝ちでの日本一に貢献し、優秀選手賞を獲得。シーズン後に行われた日米野球にも選出され、バリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグのスカウトからの注目を集める。11月29日にはアフガニスタンの子どもたちへの支援金として200万円を当協会事務局長に手渡した。に7月20日から8月29日にかけて7試合連続完投勝利を挙げるなどして最多勝争いに加わり(最終的には20勝の井川慶)、2年連続で200イニング登板達成、16勝5敗だった。は、キャンプで右足を痛め、開幕には間に合ったが、最初の6試合で平均球数130球以上を記録、さらに5月に左足を怪我してローテーションを1回飛ばし、膝に負担がかからないようにコンパクトなフォームに変更した。同年シーズンでの登板数は22試合にとどまったが、リーグ3位の13勝を記録し、防御率はリーグ唯一の2点台となる2.60で2度目の最優秀防御率を受賞。9月14日には元モデルの山﨑美穂と結婚した。この年の契約更改で年俸が3億円に到達。入団6年目での3億円到達は史上最速だった。はポスティングシステムによるメジャー移籍志願を公言したために契約交渉がもつれ、キャンプ入りが遅れた。(後述)防御率リーグ3位、完投数リーグ3位、奪三振リーグ5位、投球回リーグ4位、WHIPリーグ1位など好成績を残したが、打線の援護に恵まれず、またリリーフ陣が打ち込まれたこともあって、勝敗は9勝12敗と自身初めてのシーズン負け越しを経験した。シーズンの開幕前に行われたWBCには日本代表のエースとして3戦2勝の好投で優勝に貢献。準決勝ではこの大会の対戦で2敗していた韓国を相手に7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込んだ。また大会最多の16奪三振を記録。レギュラーシーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成したものの、8勝9敗で2年連続一桁勝利で負け越した。2006年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始めた。6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し、病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。に、故障による出遅れと、抑えの豊田清の不調が重なり、この年は抑えとして起用された。5月2日の中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぎ史上2人目であった。中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。オフには初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。4月4日にFA権を取得。翌年のメジャーリーグ移籍を目指すことを7日に表明。巨人の球団代表清武英利からは「全力を上げて慰留する」と同時に「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られた。シーズンではかねてから希望していた先発ローテーション復帰を果たすも5試合に登板して4敗、防御率6.75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。故障以外ではプロ入り後初となる二軍落ちを経験した。二軍では小谷正勝コーチなどと調整・投球修正を続けていた。7月に北京オリンピック日本代表監督星野仙一からの代表招集要望で一軍に緊急復帰し、セットアッパーとして登板するも、本来の調子を取り戻すことはできなかった。しかしそれでも星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、代表に選出された。一軍でも尾花高夫投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で二死からの救援など、段階を上げながら失敗・成功を重ねた。前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投して3三振に抑え、この年の一軍初セーブを記録した。2007年に代謝異常の難病を患っていた斉木翔太と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。2008年8月28日の東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、斉木君はその試合で始球式を務める。この様子はその年の24時間テレビで放送された。この試合では約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。唯一の敗戦もソロ本塁打での1失点のみで防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。西武との日本シリーズでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。10月以降の敗戦は自身初であった。第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。しかしチームが逆転勝ちしたため敗戦は免れた。日本時代に2回の沢村賞を受賞したが、複数回の沢村賞を受賞したのは11人で、平成に入ってからは斎藤雅樹、上原、斉藤和巳、田中将大、前田健太の5人しかいない(2015年シーズン終了現在)。また、前年に73本塁打を放った全盛期のバリー・ボンズを日米野球で三打席連続三振に抑えたり、国際試合負け無し、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振をそれぞれ複数回獲得するなど、球界を代表する投手として活躍した。2008年11月14日、FA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明。SFX社のマーク・ピーパーを代理人とした。2009年1月6日にボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意。13日に2年1000万ドル+出来高600万ドルで正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。背番号は巨人時代と同じ「19」に決まった。は開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビューし初勝利を挙げた。しかし、同年5月23日のワシントン・ナショナルズ戦では脱水症状からくる左太もも裏の痛みを訴えて降板し、27日にも痛みが再発したためDL入りしたのに続き、6月23日のフロリダ・マーリンズ戦では右ひじに違和感を訴え途中降板し、28日に精密検査で右ひじ腱の部分断裂が判明し再び故障者リスト入り。監督のは復帰後はリリーフに転向させる意向を示唆していたが、約8週間リハビリを続けたものの回復にはさらに長くかかり、9月上旬にシーズン中の復帰を断念した。結局、MLBの1年目は前半戦に先発登板した12試合のみとなった。1月1日に株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得。スプリングトレーニング中に左太もも裏を痛め、DL入りして開幕を迎えた。5月からリリーフとして復帰するが、6試合の登板後に右ひじ痛が再発して再びDL入りした。約1か月後の6月29日に復帰した後は、17試合登板して防御率1.80、WHIP1.10と好投を続けた。敗戦処理を含む比較的楽な場面であったが、安定した投球を続けていたことが、新しく監督に就任してオリオールズの再建に着手したバック・ショーウォルターの目に留まって暫定クローザーとして起用されることになった。8月21日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑えメジャー初セーブを挙げた。7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。オフに250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)。は、ブルージェイズからケビン・グレッグがクローザー契約で加入したことにより、上原はセットアッパーを務めた。グレッグが精彩を欠いた反面、上原は、スプリングトレーニングで右ひじを痛めたが、その後は安定した投球を続け、7月まで43試合に登板し1勝1敗、防御率1.72、WHIP0.70(リーグの救援投手でトップ)という好成績を残した。また前年から続いていた連続無四球試合数は36試合にまで伸び、MLB歴代3位の記録となった。オリオールズでは上原が投げるときに「kojiコール」が起きるほど、ファンからも信頼されていた。2011年7月30日にトミー・ハンター、クリス・デービスとのトレードで、前年にワールドシリーズ進出を果たしたテキサス・レンジャーズに移籍し、高校時代に同級生であった建山義紀とチームメイトとなった。背番号は巨人、オリオールズ時代と同じ「19」。残りのレギュラーシーズン(2011年)では打者優位の球場(後述)に対応できず、8月前半の11試合は防御率6.52、WHIP1.24を喫し、被本塁打率は3.72と大きく打ち込まれた。しかしその後は持ち直し、8月31日には55試合登板を達成し翌年の契約オプションを更新。9月は10試合の登板で防御率1.23、WHIP0.23と復調し、チームのポストシーズン出場に貢献した。シーズン通算では65試合で防御率2.35、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.72、同5位の奪三振率11.77、同2位の与四球率1.25を記録した。自身初となったポストシーズンではタンパベイ・レイズとのディビジョンシリーズ第2戦で登板を果たすも、エバン・ロンゴリアから3点本塁打を浴びた。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦でもミゲル・カブレラに本塁打を打たれ、さらに第5戦でもライアン・レイバーンに本塁打を打たれてポストシーズン史上初となる3戦連続被本塁打を記録。チームはワールドシリーズ進出を決めたが、「レギュラーシーズンは良かったのに、この3試合で成績すべてが消えた感じになった。もう1回、チャンスがほしい」と語り復調を目指したが、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズではロースターから外れ、チームは第7戦で敗退した。1月23日にトロント・ブルージェイズとのトレードが成立したが、ブルージェイズを含む6球団に対してトレードの拒否権を持っていたため翌日に移籍を拒否し、トレードは破談となった(他の5球団は公開されていないが関係者によると「優勝の可能性が低く、家族の滞在を考慮した住環境が整いにくいところ」だという)。同年のシーズンは、20試合の登板で防御率2.11、WHIP0.70という成績を残していたが、右広背筋を痛めて6月14日にDL入り。その後マイナーでリハビリ登板を続けていたが、右広背筋に再び張りが出て復帰が遅れ、8月26日にDLから復帰。レギュラーシーズン最終戦まで14試合連続無失点を記録し、後半戦は17試合の登板で1セーブ、防御率1.23、WHIP0.54の成績を残したが、チームは地区優勝を逃す。ESPNの1900年からの統計によると、この年のK/BB14.33は、年間35イニング以上を投げた投手ではエカーズリーがとに記録した数値に次ぐメジャー歴代3位の記録だった。本人はこの年は『一発病』の克服をテーマとしていたが、イニング数の違いはあるものの、被本塁打数は前年11本から4本へと減少した。ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームの8回に登板しクリーンナップを3者連続三振の快投を見せるも、チームは敗退しディビジョンシリーズ進出を逃した。リリーフ転向後、2010年は43試合で防御率2.86、13セーブ、2011年は65試合で防御率2.35、2012年は37試合で防御率1.75と、安定した成績を残してきた上原は、特にK/BBの数値がずば抜けて優秀なこともあり、オフにはMLBの複数球団で争奪戦となった。12月6日、ボストン・レッドソックスと総額425万ドル+出来高の1年契約(2年目は55試合登板で自動更新される年俸425万ドルの球団オプション)で合意したことが報じられ、18日に契約した。本人は決め手を、自分を最も必要としてくれている球団だと感じたこと、そしてクラブハウスに温水洗浄便座があることも良かったと語った。一方で前年地区最下位のレッドソックスの側では、GMのベン・チェリントンはどうしても必要な補強では無いと当初考えていたが、セイバーメトリクスに精通したスタッフやアドバイザーのビル・ジェームズが強く進言したため、急遽獲得に動いたと言う。この契約は後に、「レッドソックスは奇跡を捕まえた」と称された。レギュラーシーズンに、2010年以来トレードマークとしていたもみあげをさっぱりと剃りあげたこの年の上原は、序盤は、4月21日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で失点するまでの8試合、前年から続く22試合連続無失点を記録。6月9日のエンゼルス戦で与死球を記録したが、これがメジャー移籍後、183試合目、打者920人目にして初めての与死球であった。シーズン当初にクローザーを務めたジョエル・ハンラハン、アンドリュー・ベイリー、田澤純一が不調となったため、6月21日に上原が(4人目の)クローザーに指名された。上原は6月26日に指名後初セーブを挙げ、6月27日のブルージェイズ戦では、NPB/MLB通算50セーブを記録した。前半戦は44試合の登板で2勝0敗8セーブ、防御率1.70、WHIP0.76の成績を残し、MLBオールスターゲーム最終投票の候補に選ばれるまでとなった。8月13日のブルージェイズ戦でシーズン55試合目の登板に到達、翌年の契約オプションを更新した。日本人投手歴代最長の26試合連続無失点を記録し、34人連続アウトの球団記録も更新。13日も3人で抑えて記録を更新したが、次の17日のオリオールズ戦でダニー・バレンシアに三塁打を打たれ、犠飛で失点してシーズン初の負け投手となり、記録はストップした。連続アウト37人はメジャー史上10位(救援投手では2位)また同時に連続無失点試合は27試合、連続無失点イニングは30回1/3連続無失点を達成した。9月20日のブルージェイズ戦で20セーブ目を挙げてチーム6年ぶりの地区優勝を決め、MLBにおける日本人2人目の胴上げ投手となった。9月27日のオリオールズ戦では、救援投手では球団史上初となるシーズン100奪三振に到達。救援投手でのメジャー記録となるWHIP0.57を記録した。なお、このシーズンは73試合に登板した。シーズン途中からの抑え転向だったことでセーブ数こそ21と伸びなかったものの、救援投手ながらサイヤング賞投票でも10ポイントの票が入っていた。ディビジョンシリーズでは、本人が嫌な相手と語るタンパベイ・レイズと対戦。第2戦から第4戦に出場し2セーブを挙げたものの、、第3戦では、同点の9回裏2死の場面で、途中から守備で入っていたホセ・ロバトンに39試合ぶりの被弾となるまさかのサヨナラ本塁打を打たれている。この打球はトロピカーナ・フィールド名物の「エイが入った巨大水槽」に叩きこまれ(球場史上3回目)、レイズの選手による初のタンクヒットとして記録された。リーグチャンピオンシップシリーズでは前年ア・リーグ王者のデトロイト・タイガースとの対戦となった。上原はこのシリーズの6試合中5試合に登板し、1勝0敗3セーブ4安打9奪三振無四球無失点という圧倒的数字で、リーグ優勝決定シリーズMVPに選ばれた。これは救援投手としてはマリアノ・リベラ(2003年)以来、MLB史上3人目の快挙だった。また、日本人では初の受賞でもあった。ワールドシリーズはセントルイス・カージナルスが相手で、両リーグの最高勝率球団同士の対戦となった。第3戦の同点の9回裏一死・走者二、三塁の場面で、ジョン・ジェイの二塁ゴロで三塁走者を本塁でタッチアウトにしたが、捕手のジャロッド・サルタラマッキアが三塁へ悪送球。捕球できずに倒れた三塁手のウィル・ミドルブルックスに走者のアレン・クレイグが躓き、これが走塁妨害と判定されて、ワールドシリーズ史上初めての「走塁妨害によるサヨナラ負け」を喫した。第4戦では、9回裏2死走者1塁の場面で一塁ランナーのコルテン・ウォンを牽制アウトに仕留めた。これはワールドシリーズ史上初めての「牽制死によるゲームセット」で、同時に日本人としてもワールドシリーズで初のセーブを挙げた。第5戦でもセーブを挙げ、歴代のポストシーズンで最多タイの7セーブを挙げた。更に、優勝のかかった第6戦においても9回5点差で登板し、最後にマット・カーペンターを三振にしとめワールドシリーズ胴上げ投手となった。なお、このシーズンはポストシーズンを含むと86試合に登板しており、メジャー全投手の中で最多登板という、量・質共に比類の無いシーズンを過ごした。 シーズン始めからクローザーに定着、前半戦は42試合に登板し18セーブをあげ、防御率1.65、WHIP0.76、奪三振率11.75と大躍進を遂げた前年に劣らぬ好成績を収める。田中将大が故障者リスト入りしたことに伴いMLBオールスターゲームへの出場を辞退したため、代わりに選出された。オールスターゲームでは6回二死の場面で登板し、デビン・メソラコを三振に切って取った。後半戦に入っても好投を続けていたが、8月16日から6試合の登板で10失点を喫する乱調に陥り、9月5日にはクローザーの役割から外れることとなった。シーズン通算では2年連続で60試合以上の登板を果たし、26セーブを挙げた。防御率は終盤の乱調が影響し前年より大幅に悪化したが、WHIP0.92、奪三振率11.19は高い水準を保った。、4月3日に故障者リスト入りが発表され、同年シーズンの開幕メンバーから外れることが決定した。4月14日のワシントン・ナショナルズ戦のシーズン初登板で、1回無失点でセーブを挙げた。40代の日本人投手がセーブを挙げたのは斎藤隆以来2人目であった。5月10日ブルージェイズ戦で9回に登板、無安打1四球の無失点で6セーブ目、NPB/MLB通算100セーブ目を挙げた。8月7日の敵地タイガース戦で9回途中に登板した際、打球を止めようとして出した右手に打球がぶつかり、手首を骨折した。非分離型撓骨遠位端骨折と診断され、今季残り試合を欠場する見通しであると球団が発表した。レッドソックスは11月13日、サンディエゴ・パドレスとのトレードでメジャー通算225セーブ(2015年シーズン終了時点)をマークし、MLBを代表するクローザーのクレイグ・キンブレルを獲得したと発表。これにより、NBCスポーツなどの複数メディアは上原がチームから8回を担当するセットアッパーに配置転換されることになったと同日に報じた。7月19日のジャイアンツ戦で右胸筋を痛め、翌日故障者リスト入りとなった。9月5日に復帰すると、8日のパドレス戦に復帰後初めて登板し、1回を無安打無失点に抑えた。結局復帰後は11試合に登板し無失点でレギュラーシーズンを終えている。最終的には50試合に登板したが、通年の防御率としては自己ワースト2位の3.45・2勝3敗で2年連続負け越しに終わった。一時的にクローザーで投げたタイミングもあり、7セーブを挙げた。地区シリーズでは第1戦、第3戦と無失点を記録するもチームは敗退した。基本的にフォーシームとフォークボールを軸に投げる。巨人時代はこれにカットボールを混ぜて投げていたが、メジャーに行ってからは前者の2球種以外の割合は低い。最も特筆すべきはその制球力であり、奪三振が多く与四球が少ないピッチャーである。NPB10年間で奪三振率7.99(主にクローザーを務めた2007年は奪三振率9.58)、MLB6年間で奪三振率10.6、2013年だけをみれば奪三振率12.2という恐るべきペースで三振を量産した。投手としての能力を示す指標である奪三振を与四球で割るK/BBでは、生涯1000イニング以上投げた投手の中では日本プロ野球歴代最高となる通算6.68(2位は土橋正幸の4.61、3位は田中将大の4.50であり、上原の数値は突出している)で、メジャーリーグでも2014年まで通算100イニング以上投げた投手の中で歴代最高の通算8.96を記録している。日本での10年間の1549イニングで与四球数はわずかに206個。日本での通算与四球率は1.20で、「精密機械」と呼ばれた北別府学の1.90、小山正明の1.80といった、往年の名投手達の記録を大きく上回っている。また、本来はワンバウンドしやすいため暴投が多くなりがちなフォークピッチャーでありながら暴投も非常に少なく、2013年までの15年間で僅か13個(NPBの10年で10個、MLBの6年で4個)しか記録していない。オリオールズ時代のチームメイトで捕手のマット・ウィータースは「構えた場所に寸分の狂いなく投げ込んでくるから、受けるのが楽しい投手だった」と言い、シカゴ・ホワイトソックス投手コーチのドン・クーパーも「フォームに惑わされている打者がいるのは確かだが、それだけで行きつける場所は限られている。上原が何年も活躍できているのは、スプリッターの使い方がうまいことと、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)が優れているからだ」と制球力の良さを特徴に挙げた。上述の制球力に加えて、「迷ったらプレートを外せばいいだけ」と一球ごとの投球間隔が非常に短く速いテンポでどんどんストライクを投げ込んでいくため、巨人時代には2時間程度での完投勝利もしばしばあり、1999年7月4日の横浜ベイスターズ戦では1時間59分での完投勝利を記録した。「打者1人に対して5球。1イニング15球なら次の日もそんなに疲れも残らない」という考えで、1試合あたりの球数も少ない。飛球の割合が多いフライボールピッチャーとして知られ、もともと被本塁打がやや多い傾向があった。日本での通算被本塁打率1.06で、巨人時代は抑えを務めた2007年を除いて毎年二桁の被本塁打を喫しており、シーズン20被本塁打以上も5回記録。2003年から2006年にかけては、4年連続で与四球数よりも被本塁打数の方が多いという珍しい記録を残していた。メジャーでも通算被本塁打率1.01とあまり変わらないが、2013年だけを見ると被本塁打率は0.61であり、GO/AOも0.83(上原のMLB通算は0.55)と改善され、データの上からもクローザーとしての進化を裏付けている。また内野フライに打ち取った確率23.0パーセントもこの年はメジャー1位であった。テイクバックが小さく腕の振りが速いのが特徴で、ややトルネード投法気味のノーワインドアップのスリークォーターで投げる。この投球フォームは非常にスムーズで一見それほど特徴的には見えないが、投球動作の前半は腕が体の陰に隠れて見えない上に球持ちが非常に悪いため、メジャーの多くの選手が「球の出どころが見づらい」と語り、速球を実際の球速以上に感じさせる「Deceptive(幻惑的)」な投球フォームと呼ばれている。同僚の外野手ダニエル・ナバは、「見極める時間が無い」、「ど真ん中の速球が、投げられてから半分通過するまで判らない」と述べ、捕手のデビッド・ロスですら「投げた瞬間、ボールがストライクかどうかは高めに外れた時以外は判別できない」と述べている。投球フォームは、メジャーに来て肉離れで苦しんでいた時に、MLBの硬くて傾斜のきついマウンドに合わせジェイク・ピービーを参考にマウンドからジャンプするような投球フォームに変更することにより、太ももの負担を減らすと同時にボールの方に力を乗せるようにした為、球威が上がっている。また本人はフォームは常に変えていくものだと考えており、生涯完成することは無いと工藤公康との対談で述べている。更に、NHK-BSの「BSベストスポーツ」特番では、フォーシームとフォークボールの二つの球種を投げた時のフォームの違いを、映像を重ねて比較して見せたがほぼ一致していた。前述のように配球はフォーシームとフォークで半々であるが、絶妙に投げ分けており、二球種を全く同じように投げられることは、上原の優れた長所である。対戦したヤンキースのライル・オーバーベイは「速球だけでなく、スプリッターも両サイドに投げ分ける。速球とスプリッターが同じような軌道を描くから、見極めるのが難しい」と言う。スカウトの意見では「スプリッターが常に鍵」で、配球は制球力が上原の武器だと分析した。制球力は安定したリリースポイントとフォームのたまものである。速球は基本的にフォーシームで、大学時代には最速153km/hを記録。巨人の先発時代には平均球速約140km/h前後となっていった。メジャー移籍後は、最速92mph(約148km/h)、平均球速も88-89mph(約142-143km/h)と10セーブ以上挙げているクローザーの中ではメジャーで(2013年で)2番目に遅いが、「いろいろ動かしたりしている」と本人も発言している通り、微妙な変化をつけている他、投球フォームにも速度の変化をつけて打者のタイミングを外している。2013年の速球の空振り率36.3パーセントはメジャー3位であった。上原の速球は回転が良く浮き上がるようだと評され、同僚の捕手だったウィータースは「コウジの場合何より大きいのは、全く同じ腕の振りから速球とスプリッターが繰り出されること。投球モーションが幻惑的なこともあって、手を離れた瞬間は全く同じ球に見えるんだ」と言い、同じく外野手のニック・マーケイキスも「コウジの球は、手から離れた瞬間にジャンプして向かってくるような印象を受ける。ボールを放す位置が打者の近くで回転も良いから、スピードガンが示すよりも速く見えるんだ。あの幻惑的な投げ方が有利に働いている部分もあるだろう」と語っている。オリオールズ時代の監督のバック・ショーウォルターはその切れ味を「シャープなナイフ」と表現していた。フォークボールは、SFF(スプリッター)と表現されることが多いが、空振りを取る落差の大きいもの、落差が小さく減速するもの、シュート回転をかけて右にスライドしながら落ちる軌道など、3種類のフォークを投げ分けている。現在は4種類目のスライダー回転で左にスライドしながら落ちるフォークを研究中と言う。オーバーベイは「2シームのように動きながら沈んでくる場合もある。スプリッターに限っていえば、ロジャー・クレメンスに似ていると思う。同じように2シームのような回転をしながら沈んでいくし、低めの制球力も見事だった。“球速の遅いクレメンス”という感じかな。ボールの手からの離れ方、回転なんかはすごく似ていると思う」と言う。レッドソックス投手コーチのフアン・ニエベスも「スプリッターもただ落とすだけじゃなく思い通りのコースに投げることができるから、打者も対応しきれないんだ」と語り、同僚の外野手マイク・カープは、「スプリッターを制球出来る点で、他の投手と圧倒的に違う」と述べている。2013年のスプリッターの空振り率は43.4パーセントで、200投球以上の投手ではメジャー2位だった。時に落ちないで減速のみするスプリッターは、PITCHf/xではチェンジアップと判断される場合もあるが、実戦ではチェンジアップを投げることはまずない。また落ちないで減速するスプリッターをど真ん中に投げて三振をとることもあるが、本人はそれは意図的に投げたのではなく失投であるとインタビューで答えていた。その他の球種としては、スライダーを少し投げ、極めて稀にカーブを投げることがある。メジャー移籍直後は人指し指と親指だけで投げる「一本指カーブ」をキャンプ前のトレーニングで練習していた。ただこのカーブは制球が未だに定まらず、メジャーで初の与死球となったボールは、2013年シーズンにたった3球投げたカーブのうちの1つである。フォークを覚えたのはプロに入ってからで、アマチュア時代はマッスラとナックルカーブを軸にしていた。しかし、ナックルカーブはプロ入り初先発の試合で阪神(当時)の佐々木誠に痛打され、先輩捕手の村田真一から「いらんやろ?」と指摘されて以来投げていない。また本人曰く、「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった」ため、プロ入り後数年にわたってスライダーを封印していた。スライダーは依然として得意としておらず、Twitterで後輩のダルビッシュ有に握りの伝授をお願いして断られたことがある。カットボールは巨人時代には投げていたが、「次に投げるストレートや別変化球のキレに影響」が出るということでメジャーでは封印している。また本人はカットボールではなく「カット系」と表現しており、スライダーと中間的な変化をするボールである。本人は「対戦相手に恵まれていただけ」と謙遜するが、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて25戦12勝0敗2セーブ(2008年8月18日時点)、「国際戦負けなし」という無類の強さを誇る。1997年、大学3年夏に日本代表に選出され、第13回IBAFインターコンチネンタルカップの決勝でキューバ戦で、強気の投球で5回と1/3を投げて1失点と好投し、キューバの連勝記録を151でストップさせた。2003年、アテネオリンピックアジア予選では中国戦に先発し、7回1失点で勝利投手となった。本戦では2登板で1勝0敗、防御率2.08で銅メダル獲得に貢献。2006年のWBCでは2次リーグ初戦のアメリカ戦で勝敗が付かなかったが5回1失点と好投し、対戦成績0勝2敗で迎えた準決勝・韓国戦でも7回無失点8奪三振と好投して勝利投手になるなど、大会2勝を挙げて日本の初制覇に貢献した。2007年12月の北京オリンピックアジア予選でも1セーブをマーク。2008年のシーズンは絶不調であったために批判が多かったが、北京オリンピック野球日本代表監督を務めた星野仙一が直々に交渉してクローザー兼投手主将として起用。北京オリンピックでは2試合に登板し防御率0.00、1セーブを記録した。2009年の第2回WBCについては北京オリンピック終了後に「まったく考えてない」と語り、メジャー移籍後1年目であったことも重なり不参加。2013年の第3回WBCでは、参加要請自体がなく、要請があれば前向きに検討していたと述べた。座右の銘には「雑草魂」を挙げている。1999年のペタジーニ敬遠事件にみられるように勝負を避ける敬遠や四球を「楽しくないから」と嫌う。真っ向勝負しロケットの愛称を持つロジャー・クレメンスは憧れの投手で、投球フォームやグラブの使い方を真似ている。巨人時代の先輩橋本清によると、上原は「究極の負けず嫌い」で「野球が純粋に好きな、野球少年」であるという。その陽気な性格から、ふざけて抱きついたりするハグが好きで、抱きつき魔であり、酔ってイチローに抱き付いた写真を投稿したり、試合後の抱擁が情感溢れるとアメリカのメディアに茶化されたこともある。もともとは先発に対して人一倍強いこだわりがあり、上原自身「先発が一番好きだ」と言う。日本で(先発として)限界説が囁かれる中に渡米し、ボルティモア・オリオールズと契約したのも、先発としての起用を優先するという条件をオリオールズが呑んだからである。巨人や五輪代表で、抑えとして起用されたことに本人は納得していなかった。しかし2009年にリリーフに転向。翌年は再び自らの要望により先発に復帰したものの、MLBでは2年目以降はリリーフに配置転換され、中継ぎの重要性に目覚めてリスペクトするようになり、2013年のWBCで不調の田中将大が中継ぎに“降格された”という記事を見て激怒するに至る。「抑えて当たり前、打たれたときだけ記事になる」という中継ぎの仕事の過酷さを訴え、メディアの扱いが小さいという不満から自らブログで全投球の解説をするという情報発信を行っている。2010年、前年に大きな怪我があったのでツキを替えようと、ルパン三世のようなもみあげを伸ばし髪を短く刈った髪型にした。これがNHK BS1の番組『MLBハイライト』で取り上げられると、「もみあげ通信」という上原のコーナーができて、ルパン三世のテーマやルパンに関する歌などが流れるようになった。もみあげをのばした理由は相手チームに名前を覚えてもらうためであったというが、その後、髭も伸ばし出して、もみあげと髭がつながり、ルパンというよりも山賊の様な状態になった。しばらくして本人も次第に「自分の方向性がわからなくなって」しまったということから、2013年からは髭ともみあげをさっぱりと剃りあげたが、これは「若く見える」と評判がよく、この年大半の選手が髭を生やしたボストン・レッドソックスでは逆に異彩を放つ目立つ存在となった。レッドソックスのチームメイトは、上原は田澤のように髭が余り伸びないたちだと思いこんでいて、かつて立派な髭をたくわえていたことを記者に知らされて驚いたという。2013年後半戦の上原の活躍は、メディアから様々な表現で形容された。「strike machine(ストライクを投げる機械)」、「Mr. Automatic(強制終了)」、「unflappable(動じない)」、「untouchable(触れられない)」、「simply unstoppable(全く止められない)」、「the sixth sense(第六感の持ち主)」、「Deceptive(幻惑的)」、「Ninja」、「Unhittable God-Creature(打てない生き物)」、「Yoda with a splitter(スプリッターを投げるヨーダ)」などなど思いつく限りの賞讃が与えられた。更にボストンでは上原の行動はレッドソックスを盛り上げていると認められ、次の10の特徴を写真付きで地元紙が掲げるほど気に入られた。2013年のワールドシリーズMVPのデビッド・オルティーズは成績だけでなく人柄にも触れ、「投手としても、人間としても最高の男」だとして、最大級の賛辞を送った。同学年のオルティーズとは公私ともに仲が良く、家族ぐるみの付き合いである。シーズン中はチームが勝利した後に列になってハイタッチをする時に、相手の股間をどっちが先に触るかという遊びをしていた。ポストシーズンで担がれるといったパフォーマンスをするようになったのは、(精神的に)疲れすぎてその遊びをする余裕がなくなったことから、上原がオルティーズにもたれかたったことが始まりと、NHK-BSの特番でインタビュアーとなった田口壮に打ち明けている。上原は入団当初からメジャーへの強い希望を持ち続けており、2004年オフにポスティングシステムによる翌2006年のメジャー移籍を直訴。当時の年俸3億3500万円を8500万円分減額して、FA権を取得するまでかかる4年間分の違約金を払うとまで申し出たが、球団首脳陣は頑としてポスティングシステム行使を容認せず、「わがまま」であると評したために、フロントとの感情的な対立に発展。そのシーズンは契約交渉がまとまらないままキャンプ入りした。ポスティング移籍拒否されたこの年から翌年にかけて、怪我などもあって成績が落ちたため、メディアの論調も厳しかった。結局、メジャー移籍を果たしたのは2009年の海外FA権取得後(5年後)で、上原は現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している。東日本大震災で揺れる日本の中において開幕強行に踏み切るセ・リーグについて、選手会に同調し、「正気の沙汰とは思えない」と批判したことがある。学生時代に、珠算初段、中高の教員免許(体育)を取得している。生年月日が全く同じ高橋由伸とは仲が良く、巨人退団後も連絡を取り合っているらしく、2013年の1月からは上原がしている復興支援を高橋が協力したこともある。英語は苦手であり、英語でインタビューされても理解できない。建山だけではなく、ラグビー元日本代表の大畑大介とも同級生であり、三人はクラスが同じだった時もある。2016年、第35回ベスト・ファーザー イエローリボン賞・スポーツ部門を受賞。※【】内は主催機関
出典:wikipedia
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