


歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。「かぶき踊り」は主に女性が踊っていた事から、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」、「歌舞妃」、「歌舞妓」などの表記が用いられたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代使われない事はなかったが、一般化したのは近代になってからである。なお江戸時代「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。歌舞伎の元祖は、「お国」という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。お国達の一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている。『当代記』によれば、お国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった。ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋の事「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女の事である。後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともとお国が演じていたものも上述したようなエロティックなシチュエーションを含んだものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、クニが「ややこ跳」というものを踊っていたという記録があり、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている。しかし内容面では両者は質的に異なったものであり、「ややこ踊」がかわいらしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びというエロティックな場面を含んだものである。なお現在ではお国の事を「出雲阿国」(いずものおくに)と呼ぶが、彼女と同時代の文献にはこの名称はなく、また出雲の出身であるかどうかにも確証がないため、軽々に用いるべき言葉ではない。この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった。「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったらしい。そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった。その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていた事もあり、わずか10年あまりで全国に広まった。今日でも歌舞伎の重要要素の一つである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである。当時最新の楽器である三味線をスターが弾き、五六十人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという。他にも少年の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行なわれていたが、少年達の多くがもともと男色をなりわいとしていた事からも分かるように、好色性を持ったものであった。男色の特殊性ゆえか、全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京、大阪、江戸の三都を中心とした都市部に限られている。しかしこうした遊女や若衆をめぐって武士同士の喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった為、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は幕府により禁止される。遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来は寛永6年(1629年)であるとされていたが、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令で無くなるはずもないので、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。それに対し若衆歌舞伎は十七世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまう。なお、古い解説書には若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止された"後"に作られたものだと書かれているものがあるがこれは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)にはすでに若衆歌舞伎の記録がある。またこうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止された後「物真似狂言づくし」にする事を条件に再興がみとめられて野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされる事があるが、「物真似狂言づくし」を再興の条件とした件は現在では否定されているばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を認めない積極的な説も存在する。次の劃期が元禄の近辺にあたるとするのが定説で、「このころには「演劇」といってはばかりのないものになっていた」(元禄歌舞伎)。そこにいたるまでの道筋は資料の不足から明らかではないものの、明暦・万治の頃が準備期で、寛文・延宝がゆるやかな変化の時代とするのがひとまずの目安であろう。江戸四座(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である>。この時代の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の市川團十郎 (初代)と、「やつし事」(高貴な人が一時的に零落して苦難を経験する場面)を得意として評判を得た京の坂田藤十郎 (初代)がいる。藤十郎 の演技は「後の和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ」、「後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた」。芳沢あやめ (初代)も京随一の若女形として評判を博した。なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を"創始"したとする記述を散見するが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない。また荒事の成立過程はよくわかっておらず、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」、「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない。狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎の為に歌舞伎狂言を書いた。後に近松は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、近松の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。なお今日では近松は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。作品面では1680年頃には基本となる7つの役柄が全て出そろった。すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である。また作品づくりにおいて江戸幕府の禁令ゆえの制限ができた。正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色する事が禁じられたのである。これ以降歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描く事を強いられる事となる。江戸では芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ(1670年代) までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰される。以降江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである。享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる。これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。また享保年間には花道が演技する場所として使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた。宝暦年間の大阪では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする。等、「舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われ」、これらの工夫は江戸でも取り入れられた。こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を獲得し、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。作品面では趣向取り・狂言取りの手法が18世紀から本格化した。これらは17世紀にもすでに行われていたが、17世紀時点では特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になったのである。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになった事による。またこの頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり義太夫狂言が誕生した。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった。延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる菅原伝授手習鑑、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ1746年、47年、48年である。またそれから少しさかのぼる1731年には瀬川菊之丞 (初代)が能の道成寺にヒントを得た『無間の鐘新道成寺』で成功をおさめ、これにより「舞踊の新時代の幕開きを告げた」。その後道成寺をモチーフにした舞踊がいくつも作られ、1753年には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている。なお当時の江戸は他のどの土地にも増して舞踊が好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった。1759年、並木正三が『大坂神事揃』(おおさかまつりぞろえ)で「愛想尽かし」を確立。これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。その後男が女を殺す場面につながる事が多い。これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件等を扱う狂言)を確立して評判を得た。天保3年 (1832)には七代目市川團十郎(当時は五代目市川海老蔵)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」を贔屓客に配り、天保11年 (1840)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになった(天保13年)り、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させられた。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町(さるわかまち)と改名された。しかし江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別されたものの、各地への通行には逆に便宜を与えられた。武家では幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止したものの、実際には連日にぎわう芝居小屋に多くの武家が足を運んだ。明治になると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。しかし1872年になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が新政府から出される。新政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じる事、狂言綺語(作り話)を廃止する事などを要求したのである。江戸時代にはむしろ現実そのままに書く事を禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり、新政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった。明治19年(1886)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国である事を顕示する目的で」演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリスト等が参加した。翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、「役者達の社会的地位の向上を助けるきっかけとなった」。時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。芝居の価値観が新政府のそれと一致していた彼は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、例えば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した。それに対して彼が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」で、セリフと動きを極力減らし、「目と顔」による表現で演じ始めた。こうした團十郎の芸は高く評価されながらも「活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ」で、世間の人は「その芝居らしくない活歴には背を向けた」が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった。しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった事が活歴の歴史的意義である。劇場の面では明治22年(1889)には演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。その後経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収。歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに「歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった」。他にも歌舞伎の中央集権化、改良演劇の確立、歌舞伎演出の様式美化の促進といった影響があった事が指摘されている。一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(のちの明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。また大正の頃の市村座では六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、昭和7年(1932年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰える。19世紀末になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場する。これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用、「劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演」、「新しい観客の掘り起こし」によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」である。松井松葉の『悪源太』(明治38/1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43/1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎により一層の厚みを与えることにつながった。他にも岡本綺堂の『修善寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに歌舞伎界での封建制的な部分に反発して昭和6年(1931年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された。太平洋戦争(大東亜戦争)の激化に伴い、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行なわれ、歌舞伎の興行も困難になり、戦災による物的・人的な被害も多かった。終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年(1947年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。1950年代、人々の生活に余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。プロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画やテレビ放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。そのような社会の変動の中、昭和37年(1962年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復する。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。戦後の全盛期を迎えた1960年代 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1970年代には次々と新しい動きが起こる。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。昭和40年(1965年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され(保持者として伝統歌舞伎保存会の構成員を総合認定)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。その後大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレンの要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、スーパー歌舞伎というより大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出した。また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しいかたちの歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれと全く同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演していく試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組であった。現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である歌舞伎狂言と歌舞伎舞踊に分けられる。歌舞伎狂言は、さらにその内容により時代物と世話物に大別される。時代物とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう。一方、世話物とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品をいう。時代物のうち、お家騒動を書いたものは御家物(おいえもの)、飛鳥~平安時代を描いたものは王朝物(おうちょうもの)と呼ばれる。また世話物のうち、特に写実的要素の濃いものを生世話物(きぜわもの)という。明治になると当時の世相を描いた散切物という世話物のサブジャンルも生まれた。また歌舞伎狂言はその起源によって分類する事もでき、人形浄瑠璃の演目を書き換えたものを丸本物といい、能・狂言の曲目を原作としてそれらに近い様式で上演する所作事を松羽目物という。丸本物は義太夫物・義太夫狂言・でんでん物などとも呼ばれる。なお丸本物の対義語は純歌舞伎である。活歴物(かつれきもの)は明治時代に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして生まれた演目の総称であり、新歌舞伎(しんかぶき)は、明治後期から昭和の初期にかけて、劇場との関係を持たない独立した作者によって書かれた歌舞伎の演目の総称である。(なお第二次世界大戦の戦中から戦後以降に書かれた新しい演目は、新作歌舞伎(しんさくかぶき)または単に新作(しんさく)と呼んで、新歌舞伎とは区別している。)なお歌舞伎狂言の分類方法は人によって揺れがあり、時代物と世話物で2分する代わりにこれにお家物を加えて3分する用例もある。歌舞伎の演目には他の演劇の演目にはない特徴がいくつかある。まず歌舞伎狂言は世界という類型に基づいて構成されている。「世界」とは物語が展開する上での時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもので、例えば「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。当時の観客はこれらの約束事に精通していたので世界が設定されている事により芝居の内容が理解しやすいものになっていた。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸脱して自由に作られたものである事も多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れている事も珍しくない。複数の世界を組み合わせて一つの演目を作る事もあり、これを綯交ぜ(ないまぜ)とよぶ。世界毎に描いている場所や時代が異なるはずであるが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複数の世界を結び付けて1つの演目を作りだす。江戸時代に作られた演目のその他の特徴として「その長さが長大な事」、「本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物(後述))が行われたりする事」等があげられる。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演した事による。一方後者は興行の中に様々な場面を取り込む事で多種多様な観客を満足させる事を狙ったものである。現在ではこのような長大な演目の全場面を上演する事(通し狂言)はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じる事(ミドリ/見取り)が多い。昭和のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」(所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いる事が幕府により禁止されていたので、規制逃れのため登場人名を仮名にした上で無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴もある。しかし仮名といっても羽柴秀吉の事を「真柴久吉」と呼ぶ程度のものなので、このように歪曲された演目の内容から真に描きたい事件を読み解くのは容易であった。江戸時代の歌舞伎狂言の演目名(外題(げだい)という)は縁起を担いで「割りきれない」奇数個の漢字で書けるものが選ばれる事が多く、その読み方は粋を競って当て字や当て読みを駆使したものである為一見しただけではその読み方が分からないものも少なくない。こうした事情により外題の他により親しみやすい通称がついていることが多く、この場合元々の外題を通称と区別する為本外題と呼ぶ。また各演目の人気のある場面(段・場・幕など)には演目それ自身の通称とは別にその場面の通称がついている場合もある。具体例は下記のとおりである。なお返し(返し幕)とはいったん幕を引くが幕間を設けず、鳴り物などで間をつなぎ用意が出来次第すぐに次の幕を開けること、切とは義太夫狂言のその段の最後の場面のことで、すなわち『四ノ切』とは四段目の最後の場のことをいう。『義経千本桜』の四段目の切はケレンを使った派手な演出が有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。「外題」という語は「芸題」が詰まって「げだい」になったとする説もあるが、古代から中世にかけては絵巻物の外側に書かれた短い本題を「外題」、内側に書かれた詳題を「内題」と言っており、これが起源だとする説もある。外題はもともと上方歌舞伎の表現で、江戸歌舞伎では名題といっていた。こちらにも「内題」が詰まって「なだい」になったとする説があり、上方の「外題」と江戸の「名題」で対になることが、絵巻物起源説の根拠となっている。歌舞伎の舞台には役者に小道具を手渡すなど演技の手助けをする役割の人物がいる事があり、この人を後見(こうけん)という。特に全身黒装束に身をつつんだ後見を黒衣後見(くろごこうけん)、あるいは略して黒衣(くろご)という。役者以外の人物が舞台に登場しない事が原則の通常の演劇と違い、黒衣をはじめとした後見は観客の目から見える位置に現れる。しかし後見達が舞台にいないものとして扱うのが歌舞伎の暗黙のルールである。黒衣以外にも、紋付袴の後見(着付後見(きつけごうけん)もしくは袴後見という)や裃の後見(裃後見(かみしもごうけん)という)もいる。さらに海や水辺の場面に登場する青装束の波後見(なみごうけん)、雪の場面に登場する白装束の雪後見(ゆきごうけん、白衣(しろご)とも)などの後見がいるが、波後見は幕末、白衣はおそらく明治以降に考案されたものである。また歌舞伎の演出では拍子木(ひょうしぎ)あるいは略して柝(き)を用いる事があり、芝居の開始時の合図として打ったり幕切れで打ったりし、これらの時には2本を打ち合わせる。また役者の足取りに合わせて打たれたる等動作や物音を強調する為にも用いられ(ツケという)、この場合には床に置いた板(ツケ板)に打ちつける隈取は主に時代物にで行われる化粧法である。顔に線を描いたもので、元々は血管や筋肉を誇張するために描かれたものだとされている。役柄により色が異なり、赤系統の色は正義の側の人間に、青系統の色は敵役に、茶色は鬼や妖怪などに用いられる。見得は演目の見せ場において役者がポーズを決めて制止する事を指す。映画におけるストップモーション技法に相当し、役者を印象づけたり舞台の絵画的な美しさを演出したりするのに用いられる。六方(ろっぽう)は伊達や勇壮なさまなどを誇張したり美化した荒事の要素をもつ所作である。歌舞伎では、当初は舞台への出の時に行われたが、後代になるともっぱら花道への引っ込みの時にこれが行われる。外連(けれん)は宙乗りや早替り、仕掛けなどを使うなど観客を驚かせるような演出である。「市川團十郎」等をはじめとした歌舞伎役者の芸名は名跡(みょうせき)と呼ばれ、代々受け継がれていく。名跡を継ぐ事を襲名(しゅうめい)といい、役者達は経験を経るにつれ、名跡を順々に取り換えて次第に大きな名跡を継いでいく。実子が名跡を継ぐ事が多いが、「養子・兄弟・実力のある高弟など」に名跡を継がせる事もある。ただしここでいう養子は法的な意味でのそれとは限らず、いわば芸の上での養子である事もあり、これを芸養子という。役者達は名跡とは別に家ごとにきまる屋号(やごう)も持っている(歌舞伎役者の屋号一覧参照)。歌舞伎では上演中に大向こう(≒後ろの方の席)等から役者に掛け声をかける習慣があるが、ここで呼び掛けるのは名跡ではなく屋号であるのが基本である。役者と音楽奏者は、世襲以外では国立劇場が研修生を募集している。歌舞伎とは無関係な家に生まれながらも研修を経て役者となった例としては、二代目市川笑也や市川月乃助、二代目市川春猿らが知られる。社団法人伝統歌舞伎保存会は歌舞伎関係者のうち技能に優れたものを会員として構成されている団体。会員は重要無形文化財「歌舞伎」の保持者として総合認定を受けている。2007年10月25日現在の会員数は162名。歌舞伎の舞台を右図にしたがって説明する。なお客席から舞台を見たとき右側を上手(かみて)、左側を下手(しもて)という。花道は舞台下手から客席を貫いてもうけられている通路状の舞台である。正面の舞台は本舞台という。花道は役者の入退場に用いられるばかりでなく、ここで重要な演技も行われる。観客のすぐそばを通る事で役者の存在感をアピールする等の演出が可能となる。舞台の両端には大臣囲い(だいじんがこい)があり、下手側の大臣囲いには太鼓等の演奏や長唄、効果音等を演奏する為の場所で外側には黒い御簾(みす)がかけられている。この場所を黒御簾(くろみす)もしくは下座(げざ)ともいい、ここで奏でられる音楽を黒御簾音楽もしくは下座音楽という。一方上手側の大臣囲いの2階は義太夫狂言(=人形浄瑠璃から取り込んだ演目)等で竹本という語り物とその伴奏である三味線を奏でる場所で、床(ゆか)と呼ばれる。大臣囲いの端の柱は大臣柱(だいじんばしら)と呼ばれている。これは現在では単なる柱にすぎないが、歴史的には歌舞伎舞台の先祖である能舞台で屋根を支える柱からきており、歌舞伎のおいても古くは舞台の屋根を支える為に用いられていた。花道の舞台とは反対側の端には役者が入退場する為の鳥屋(とや)という部屋があり、その入り口には部屋の中を隠す為の揚幕(あげまく)という幕がかかっている。また本舞台と揚幕を3:7に分ける場所(実際にはここよりも舞台によった場所)を舞台寄りの七三、7:3に分ける場所を揚幕寄りの七三といい、花道上の演技は多くの場合このいずれかの場所(特に前者)で行われる。舞台寄りの七三にはセリがあり、すっぽんと呼ばれている。すっぽんは妖怪や幽霊などを演じる役者が登場したり退場したりする場合に使われる。花道は通常下手にしかないが、演目によっては演出の都合上、上手側にも花道を仮設する場合がありこれを仮花道(かりはなみち)という。なお歴史的には七三といえば揚幕寄りの七三の事であったが、大正の頃から混同が起こり「七三」という言葉が舞台寄りの七三の事も表すようになった。混同された理由としては、揚幕寄りの七三が二階席から見づらい為に演技の位置が舞台よりの七三に移った事、無知なジャーナリストが誤用した可能性などが挙げられている。また「鳥屋」という言葉は上方のものであり、江戸ではこの部屋も揚幕と呼ばれた。日本の家屋は床が地面よりもかなり高いため、舞台でもこの高さを作り出すことが多い。この高さの水準を二重舞台、略して二重と言い、そのための大道具類も二重と呼ばれる。高さによって常足、中足、高足などがある。どれを使うかは場面によってだいたい決まっている。"客席の区分と名称については劇場#歌舞伎を参照。"廻り舞台(まわりぶたい)は舞台中央にあって、水平に回転する舞台である。手前側と向こう側に2つの場面の装置を仕込んでおき、回転させることによって素早く場面転換ができる。通常は役者が舞台に乗ったままの状態で、装置ごと回す。上演中であっても裏側に回った方の装置をこわし、さらに次の場面の装置を仕込むことができる。廻り舞台の回転は歌舞伎の見せ場のひとつなので、照明を消さず幕を開けたまま廻り舞台を回転させ、場面転換を観客に印象付ける事ができる。この手法を明転(あかてん)という。また、例えば悪だくみをたくらむ場面とその被害者宅の2つを廻り舞台の上に乗せ、一方から他方への転換を見せ、つぎに逆回転させて元の場面に戻るというようなことができる。これを俗に「行って来い」といい、場面が戻ると共に時間も戻るかのように感じられるため、2つの場面の同時性を強く表現できる。『佐倉義民伝』の子別れ、『入谷』などのように、すこしだけ廻して建物の横などを見せることもある。半廻しという。歌舞伎以外の芝居では装置は通常、表側だけしか作らないが、歌舞伎ではこのように厚みのある装置を組むことがある。ときには裏側まで作る。迫り(セリ)は昇降装置で、地下(奈落(ならく)という)からせり上がって役者の登場や退場に使われる他、大道具それ自身をせり上げる事で屋敷の地下が現れる等の迫力のある演出を行う。回り舞台が場面を水平方向へ、迫りが鉛直方向に切り替えて立体感をだす。なおセリの配置や個数は劇場により異なるが、ここでは歌舞伎座のものを図示した。廻り舞台や迫りは今日では様々な演劇に用いられているが、もともとは享保年間に歌舞伎に取り入れられたものである。歌舞伎では舞台と客席を仕切る幕として定式幕という引き幕(=横方向に引いて開閉する幕)が用いられる。現在用いられている定式幕は三色の縦縞であり、色は左から黒、柿、萌黄の順である(歌舞伎座や京都南座等)か柿、黒、萌黄の順である(国立劇場や大阪新歌舞伎座等)。平成中村座は例外的に左から黒、白、柿の順の三色を用いている。また現在ではさらに上に開く緞帳も用いており、緞帳をあけるとその奥に定式幕が見えるようになっている。開場直後や長い幕間では緞帳が下りているが、芝居がはじまるだいぶ前の段階で緞帳を上げ、その後定刻になると定式幕を下手から上手へ引き開けて芝居が始まる。江戸時代引き幕を使用する事ができたのは幕府から許可を得た芝居小屋だけであり、定式幕はいわば官許の芝居の証の一つであった。江戸には幕府の許可を得た芝居小屋は3つのみ(江戸三座)であり、前述した3種類の定式幕はそれぞれ江戸三座の森田座、市村座、中村座に起源をもつ。ただし引き幕に関する事情は地方によって異なり、例えば上方では紺無地一色の幕を中央から2つに分けて開いていた。一方幕府の許可のない芝居小屋は様々な制限を受けており、引き幕を使えないので代わりに簾を上下させて幕の代わりに利用していた。したがって歌舞伎における緞帳の歴史をさかのぼるとこうした許可のない芝居小屋にたどりつくが、現在歌舞伎で使われている緞帳の起源は別にあり、明治12年新富座の贈り幕(=大夫元や役者が贔屓客から貰った豪華な幕)がその起源である。その他にも演出上の都合で別の幕が使われる事もある。浅葱幕はその名の通り浅葱色の幕で定式幕のすぐ後ろに配置される。舞台上部で吊られており、吊っている部分を引っ張る事で簡単に幕を落下させられる(「振落し(ふりおとし)」という)。通常であれば定式幕が横に開いていくとそれにしたがって役者や背景が順に観客の目に入っていくが、浅葱幕はそれを遮る目的で使用される。そして定式幕が完全にあいた段階で浅葱幕を振り落とせば舞台が一瞬にして観客の目の前に表れるので、舞台の鮮やかさを観客に印象付ける事ができる。逆に舞台上部の棒に縛った浅葱幕を芝居の途中で下ろす事で一瞬にして舞台を観客の目から隠す(「降りかぶせ」という)目的でも使用される。道具幕は背景として用いられる。道具幕には浪幕(なみまく)、山幕(やままく)、網代幕(あじろまく)等があり、それぞれ海の波、山、塀の築地が描かれている。黒幕(くろまく)は黒一色の幕で闇夜を表す為の背景として用いられる。これらの幕は浅葱幕と同様の仕組みで振り落とされる場合もある。また不必要なものを隠す目的でも幕は使用され、消し幕は殺された人物の退場、霞幕(かすみまく)は竹本や清元などの演奏者の入退場や演奏していない状態を隠す目的で使用される。消し幕は時代物では緋毛氈(ひもうせん)、世話物では黒布を使用する。霞幕は「白い布に水色の雲が描かれた布で作られており、霞のよう」なのでこの名称で呼ばれる。また化粧幕は化粧を直している役者を隠す目的の緋色の幕で、鳴神など「古風な演出をねらった狂言」で用いられる。歌舞伎の古典的な演目では舞台上のどこにも影がなく、均一な照明が好まれるため、通常の劇場の前あかりばかりでなく、舞台上・舞台脇にもたくさんの明かりがある。現在の歌舞伎座には7列のボーダーライトと5列のサスペンションライトが設備されている。ボーダーライトは作業用灯りではなく、上演中に点灯するためのものである。歌舞伎には、多彩な音楽が用いられる。これは「歌舞伎」が本来、最初から劇として作られた演目、人形浄瑠璃を原作とした演目、さらには舞踊といったさまざまの種類の舞台を総合したものであり、各分野に適応した音楽が存在するためである。大きく分けて(1) 歌物である長唄と、(2) 語り物である浄瑠璃がある。演奏家たちを地方(じかた)という。長唄は舞台の正面または上手に雛段を設け、そこに出囃子とともに並んで演奏する。義太夫節の床以外での演奏は出語りという。常磐津や清元は山台という台に上がって演奏するが、山台はふつう常磐津だと舞台下手に、清元は舞台上手に置かれる(ただし清元の山台も本来は舞台下手に置くものだったという)。各流派の演奏はひとつの演目の中で単独で行うとは限らず、異なる音曲が順番に演奏を担当する(掛け合い)ものや、合奏するものがある。たとえば『京鹿子娘道成寺』では初めに義太夫が語り、次に長唄が演奏する。また舞踊劇『紅葉狩』では常磐津節、長唄、義太夫節が掛け合いで演奏し、これを三方掛合(さんぼうかけあい)という。長唄や浄瑠璃各流派は、歌舞伎公演のほか日本舞踊の伴奏や単独での演奏会も行われている。2014年現在、歌舞伎の興行は松竹がほぼ独占的に行っている。松竹の興行の名称の多くは大歌舞伎、花形歌舞伎のいずれかの名称がついており(例:三月大歌舞伎)、前者はベテランの役者が、後者は若手の役者が中心となる興行を指す。歌舞伎のみが演じられる劇場としては歌舞伎座があるが、その他にも歌舞伎が一定の頻度で行われる劇場として関東では新橋演舞場、国立劇場、明治座、日生劇場、浅草公会堂(新春浅草歌舞伎)等がある。他の地域では大阪松竹座、南座、御園座、博多座、旧金毘羅大芝居(金丸座)、内子座、永楽館、康楽館 などがある。その他にも「松竹大歌舞伎」等の名称で全国に地方巡業を行っている。ほかに福岡県嘉穂劇場、熊本県八千代座で行われることがある。以下歌舞伎座での興行形態を説明するが、他の劇場でもこれに準じた形態で興行する事が多い。興行はひと月を単位とし、各月の興行は月末の数日を除いた25日間であり、通常興行中に休演日は無い。基本的に2部制(3部制のときもある)で、午前の部と午後の部からなる。各部は複数の演目から構成されている場合も多いが観劇の料金は部単位であり、これら演目の料金をセットで支払う必要がある。午前の部は午前11時から午後4時頃まで、午後の部は午後4時半から午後9時頃までである。終了時間は公演内容によって異なる。各演目は見取りで上演される事が多い。すなわち人気場面のみの上演となる。歌舞伎鑑賞の助けとして「筋書」の販売や、「イヤホンガイド」と「字幕ガイド」の貸し出し(いずれも有料)を行っている。「筋書」は各演目の(上演する場面の)あらすじを書いた冊子(プログラム)である。「字幕ガイド」は役者がしゃべっている台詞を字幕で表示してくれる。イヤホンガイドは歌舞伎上演中に上演内容の解説を無線で劇場内に飛ばし、観客がイヤホンでそれを聞く事が出来るサービス(有料)の事である。日本語版、英語版がある。劇場内で料金と保証金を払う事でイヤホン(と無線の受信端末)を借り受ける。終演後にこれらを返却時すれば保証金は返される。イヤホンガイドでは「あらすじ・配役・衣裳・道具・独特な約束事など」を聞く事ができる。また歌舞伎興行では通常各演目は人気場面のみの上演となる(いわゆる見取り方式)が、イヤホンガイドは幕間に上演場面の前後のあらすじの解説も行ったり演目の背景知識を説明したりする。1975年(昭和50年)11月の歌舞伎座顔見世興行から導入された。邪道と言う者もいるが、イヤホンガイド登場以前も、歌舞伎観劇では、歌舞伎通が歌舞伎初心者に客席でひそやかに解説することがあった。歌を聞くオペラやミュージカルと違い台詞を聞く歌舞伎だから許された観劇習慣だった。通常の歌舞伎とは演出・興行団体等が異なる歌舞伎興行として以下のものがある:1955年から1983年までは東宝も歌舞伎を行っていた(東宝歌舞伎)。また歌舞伎以外では劇団新派の公演に歌舞伎役者が登場する事が多い。専門の演者による公演の他、地域住民が祭礼の奉納行事などとして江戸時代以来の伝統に則った芝居が日本各地で上演されている。これらを地芝居と呼び、歌舞伎と人形浄瑠璃のどちらかかが演じられる事が多い。歌舞伎では農村で行なわれる芝居(農村歌舞伎)や都市における曳山の上で芝居(曳山祭り)等がある。地芝居における演目の多くは専業の演者による公演と重なり、その影響が強く見られる。しかし中にはその地域独自の演目を備えるなど、個性的な発展を見せている公演も存在する。
出典:wikipedia
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