ノースアメリカン P-51 マスタング(North American P-51 Mustang)は、アメリカのノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機である。第二次世界大戦の半ばにイギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は、大きな航続力、高高度性能、高い運動性と空中格闘能力を与えられ、多くの戦功を残し、第二次大戦中、そして史上最高のレシプロ戦闘機とされている。1939年に第二次大戦が勃発してすぐに、イギリス及びフランス政府は共同で合衆国内(ニューヨークマンハッタン)に、サー・ヘンリー・セルフを長とする英仏購入委員会(Anglo-French Purchasing Commission) を設立した。この委員会はドイツによるフランス占領後はイギリス単独の機関となった。セルフが抱えていた多くの仕事のなかには、イギリス空軍のためにアメリカの戦闘機製造を組織化することも含まれていた。この時点では、完成ずみのアメリカ製航空機のうちで、ヨーロッパの水準に達しているものは皆無だった。カーチス製のP-40 ウォーホークだけがいい線を行っていたが、工場は最大限稼働していたにもかかわらず供給は不足していた。1940年2月25日、セルフはノースアメリカン (NAA) の社長 "ダッチ"・キンデルバーガーに「カーチスからライセンス供与を受けてP-40を作れないか」と尋ねた。ノースアメリカンは既にAT-6 練習機のイギリス向け輸出型、ハーバード I を生産しており、その品質はイギリス空軍でも高く評価されていた。3月のある日の午後、キンデルバーガーは主任設計士のエドガー・シュミュードに相談した。シュミュードはかねてから戦闘機設計の構想を抱いていたため、戦闘機の自社開発は出来ると答えた。キンデルバーガーのヘンリー卿への回答は、「ノースアメリカン社は、同じエンジンで、もっといい航空機を、より短い製作期間で、初飛行させることができる」というものだった。そして、5月29日、ノースアメリカン社とイギリス空軍の間に契約が交わされた。提案は受け入れられ、1940年3月からNA-73開発計画が開始された。設計は、2つの新たな特徴を備えていた。アメリカ陸軍航空隊(USAAC)は当初は全く興味を示さなかったが、後にNA-73の性能に注目した。USAACはこの売買を禁止できる権限を有しており、最終的に、英国空軍に機体を納入する替わりに、USAACに無償で2機のNA-73を提供することで決着した(実際は形式的なものだった)。NA-73は1940年10月26日に初飛行を行った。計画立案から9カ月未満という、驚異的な短期間での完成だった。全体的に、機体の操縦性は良好だった。機体の内部構造は膨大な量の燃料を搭載できた。NA-73は機首に2丁の12.7mm機関銃、さらに2丁の12.7mm機関銃と4丁の7.62mm機関銃を主翼に備えていたが、これは当時としては軽武装の部類に属するものだった。同時代のドイツ戦闘機Fw 190のプロトタイプの場合、4門の20mm航空機関砲と2丁の7.92mm機関銃を搭載できた。初飛行からすぐに、海面高度(海抜0m)および低高度での性能は大変高いものの高高度での性能が他のヨーロッパ機に及ばないことが判明した。これはP-40と同じ、アリソン・エンジン社製V-1710エンジンを採用したことによる。このエンジンも英国のロールス・ロイス マーリンエンジンも機械式スーパーチャージャーを装備していたが、当時既にマーリンが二段二速過給機を搭載していたのに対して依然として一段一速過給機であり、高高度の希薄な空気に十分に対応できなかった。当時のアリソン社はGM(ゼネラルモータース)のベンチャー部門ともいえる新興企業であり、技術者は25名程度しかおらず、二段二速過給機の開発にまであまり手が回らないのが実情であった。また合衆国陸軍航空隊は1917年よりGE(ゼネラルエレクトリック)にターボチャージャーの開発を進めさせており、過給機付きエンジンにターボチャージャーを組み込んで高空性能を確保する方針だった。アリソンは後に二段二速過給機を搭載した改良型の開発に着手し、パッカードでの二段二速過給器型マーリンとほぼ同時期に生産できるようになりP-63、F-82に搭載された。また、これを搭載した試作機、XP-51Jも作られたが第二次大戦が終結したこともあり、制式採用されずに終わっている。約610機のマスタング Mk.I(マークI)がイギリス空軍に送られ、1942年3月10日に初の出撃を行った。航続距離が長く、低空性能に優れていたため、これらの機体はイギリス海峡付近での地上攻撃や写真偵察に好適で、大活躍する。しかし、高高度では性能低下が大きく対戦闘機戦闘に使うつもりは無かった。マスタング Mk.IAは、性能向上を意図して機首の機関銃を廃止し、主翼の機関銃を20mm機関砲4門に変更したタイプで、150機が生産された。アメリカ陸軍航空隊の後身であるアメリカ陸軍航空軍(USAAF)はマスタング Mk.IAの内57機を引き取りP-51の名称で実戦部隊に支給し、後に大多数がカメラを装備した偵察機F-6Aに改造された。同時に、A-32の完成が遅れていたため対地攻撃機に大きな興味を示すようになったUSAAFは、A-36(会社名NA-97)を発注した。これは、6丁の12.7 mm機関銃(機首に2丁、主翼に4丁)とダイブブレーキを備え、500ポンド (230 kg) 爆弾を2つ搭載するものだった。ただしダイブブレーキは性能上使用しなくとも急降下が可能であった為、後に不使用封印されたという。その後まもなく、A-36からダイブブレーキと機首の機関銃を取り外した戦闘機型P-51Aが発注された。P-51Aはエンジンの馬力強化と新型スーパーチャージャーの採用によって低高度性能が向上しており、主に高高度性能の低さが問題にならない中国・ビルマ・インド方面の第10航空軍に配備された。P-51Aを元にした偵察機型はF-6Bと呼ばれた。P-51Aはイギリス空軍にもマスタング Mk.IIの名称で採用されたが、間もなくマーリンエンジン搭載機が配備され始めたため50機という少数の配備に終わった。Mk.IAやA-36が発注されたのと同じころ、ロールス・ロイスの技術者やテストパイロットがマスタングを調査した。彼らは、すばらしい機動性(スピットファイアなどの既存の戦闘機に比べて)と膨大な燃料搭載量に感銘を受けた。当時、ロールスはマーリンエンジンのシリーズ60の生産を開始していた。これは、アリソン製エンジンと同程度のサイズと重量でありながら、はるかに優れたスーパーチャージング技術が適用されており、それに見合う高高度性能を発揮できるものだった。ロールスの技術者たちは、マーリン68エンジンを4機のマスタング Mk.IAに載せた。結果は驚嘆すべきもので、最新のイギリス製戦闘機を含め、いかなる機体よりも速く空を飛んだ。しかも、イギリスから遠く離れた所まで飛んでいってなお、である(スピットファイアは航続距離の短さが問題点のひとつだった)。マーリンをV-1650として製造するためのライセンスがアメリカのパッカードに売却され一段過給器型のV-1650-1が生産されていたが、パッカードでの生産のシリーズ60相当への転換に合わせパッカード製のマーリンを積んだマスタングの生産が1943年から開始された。P-51の機体とマーリンエンジンの組み合わせた機体は当初XP-78と命名されたが、程無くしてP-51B・P-51Cに変更された。カリフォルニア州イングルウッドで作られた機体はB、テキサス州ダラスで作られた機体はCと区別された。この新たなバージョンは、イギリスに基地を置くアメリカ陸軍航空軍の第8・第9航空軍とイタリアに出撃基地をもつ第12・第15航空軍(当時イタリア南半分は既に連合軍に占領されていた)の、あわせて15の戦闘航空群 ()で使用された。イギリス空軍ではP-51B/C共にマスタング Mk.IIIと呼称した。また、偵察機型F-6Cも存在した。ヨーロッパ戦線でのP-51B/Cは主にボマーエスコート(爆撃機の護衛)任務に使用された。1943年末頃から、P-51が爆撃機の長距離護衛を開始したことにより、ドイツ領奥地での爆撃が可能となった。P-51B/Cは、12.7mm機関銃4丁という火力不足と後方視界の悪さがイギリスのパイロットたちに不評であった。そのため機関銃は後にP-51Dと同じ6丁に増設された。また後方視界改善のため、マルコム社がスーパーマリン スピットファイアのキャノピーに似たセミバブル型のP-51専用キャノピーを作ると、多くのパイロットが自分たちの機体に取りつけ大好評を博し、すぐにアメリカ軍にも広まった。P-51Dはマスタングの決定版である。新たに2丁の12.7mm機関銃を増設し、計6丁の機関銃を主翼に装備したことで火力が強化された。内側の4丁はそれぞれ380発、外側の2丁はそれぞれ270発の弾薬を有していた。翼下にレールを追加し、最大8発のロケット弾を携行できるようにした機体もあった。また課題となっていた後方視界については、コクピット後部胴体を低くし、新たにホーカー タイフーン戦闘機で採用されていた水滴型のキャノピーを取りつけた。この「バブルキャノピー」はすばらしい全周視界を提供したが、その一方でコクピット後部の胴体断面積が減少したことで、横方向(ヨー)の安定性が低下した。これを改善するため、後に垂直尾翼の前側に、ドーサルフィンが追加された。こうした背面の設計変更は乱流の増加による速度低下をもたらし、その対策としてリベットをパテで埋め、機体表面を磨きあげる仕上げを採用した。ちなみに以前のP-51は、どことなく形状がメッサーシュミット Bf109戦闘機に似ていたため、味方対空砲火に誤射される事件があったが、バブルキャノピーへの換装後は、迷彩をやめ、クリアドープ塗装となったことも併せ、そのような事故も無くなった。結果として、P-51DとP-51K(プロペラ以外ほとんど同じもの)、そして偵察機型F-6D/Kは、マスタングの中で最も生産機数の多いタイプとなった。これらの新型は1944年3月からヨーロッパに届きはじめ、同年6月6日からのノルマンディー上陸作戦にちょうど間に合った。イギリス空軍でも1945年からP-51D/Kが配備されマスタング Mk.IVと呼称された。オーストラリアではCACによるライセンス生産が行われたが、配備開始は終戦後となってしまった。P-51のプロトタイプ NA-73は、USAAFの荷重倍数基準: 7.33 Gで設計された。強度は充分だったが、イギリス基準の荷重倍数: 5.33Gで設計した場合よりも、かなり重くなってしまった。USAAFとイギリス空軍の双方が、P-51をスピットファイア並に軽量化する計画に興味を示した。これによって、マスタングの性能は大幅に向上すると期待された。新たに社内名NA-105と名付けられたこの機体計画において、エンジンの異なるプロトタイプがいくつか作られた。これらのモデルは実験的な性格が強く、驚異的な性能を示したが、いずれも量産には至らなかった。しかしながら、その成果は確実にH型に生かされた。最終生産型となったP-51Hは新型のV-1650-9エンジンを積んでいた。これはマーリンエンジンの一種で、自動スーパーチャージャー制御を備え、水メタノール噴射によって最大出力は2,000 HP (1,490 kW)に達した。数百ポンドの機体軽量化・出力の増加・ラジエーター形状の改善によって、P-51Hは9430 lb(4,277 kg)に高度6,919 m (22,700 ft)で759 km/h (412 knots)に達することができた。また、それまでの多くの型が抱える欠点であった方向安定性改善のため、製造途中から垂直尾翼が高くなった。日本への侵攻作戦において、全てのマスタングのモデルをP-51Hによって置き換え、USAAF標準の戦闘機とすることが計画されていた。生産は増加したが、555機が前線に送られたところで終戦となり、予約済みだった追加発注分はキャンセルされた。ドイツ本土に戦略爆撃を行う計画の実行には時間を要した。ドゥーエの論文に代表される戦前の考えでは「爆撃機は常に目標に到達しえる」もので、大量の爆撃機が緊密な編隊を組めば防御火器で自衛することも可能であると考えられていた。しかし、大戦前半におけるドイツ・イギリス空軍などによる実戦では、多発の爆撃機は単発の戦闘機によって迎撃され、爆撃機の火力のみでは防御しきれないという戦訓をもたらした。イギリス空軍は大戦開始以前にこのことを問題視し、1930年代中旬には夜間爆撃機軍団の創設を決定した。大戦が始まるとそれらの爆撃機は昼間に運用されたが、戦争初期の作戦においてあまりに多くの機体を失ったため、英独両軍ともすみやかに夜間作戦へと移行していった。アメリカ軍はより高高度を飛行し、より強力な自衛火器を持つ「空の要塞」と呼ばれたB-17の投入で昼間爆撃は可能だと考えていて、十分な機数が揃うまで、彼らは護衛を伴ったフランスへの小規模な爆撃で、訓練を積み重ねた。1943年8月にUSAAFはドイツ領深くにある航空機製造に欠かせないベアリング工場を目標に大規模爆撃を実行したが、爆撃の度に一割を優に超える機体が撃墜され、修理不可能なほど損傷する機体はそれ以上に多いなど、結果は散々なものだった。戦闘機による爆撃機の護衛が必要なことは明らかだったのだが、当時配備されていたP-38ではドイツの迎撃機に対し有効とは言いがたく、P-47の初期型では航続距離が不足していた。その点、P-51は信頼性の極めて高いマーリンエンジンと、十分な燃料を搭載できる内部容積を持ち、ドロップタンク(投棄可能な外部燃料タンク)の追加により、ドイツへの往復飛行の全行程に渡り爆撃機の護衛が可能だった。1943年から44年にかけての冬、第8航空軍と第9航空軍が再編成される頃には多くのP-51が配備された。1944年2月に対独本土爆撃が再開されると、事態は劇的に変化した。この時点までドイツ空軍は、単発戦闘機の対重爆撃機用の重武装・重装甲化や、アメリカ戦闘機の護衛範囲外での双発戦闘機による大口径機関砲・ロケット弾などによる迎撃も実施していたのだが、これら機動性を欠く機体の運用は実行不可能になった。また5月からアメリカ軍の戦闘機は爆撃機に随伴して護衛するだけでなく、ドイツ機を発見したら爆撃機から離れて追撃しても良いことになり、これによる柔軟な戦術的対応で戦果は増えていく。1944年の夏頃にはドイツ空軍の迎撃能力は大幅に弱体化したことで、アメリカだけでなくイギリスの爆撃機も自由に昼間爆撃を行えるようになった。ドイツでは爆撃を受けながらも戦闘機生産を続けていたが、ドイツ空軍は熟練パイロットを多く失い、燃料不足から補充兵の訓練にも事欠く状態であった。P-51のアメリカにおける評価は非常に高く、「第二次大戦最優秀戦闘機」とも呼称されるが、これは「最強戦闘機」を意味するものではない。短期間の設計によるためか、軽量化や強度の不足、燃料を満載した時の前後バランスの悪さ(胴体内燃料タンクに燃料が残っているときには空戦機動が禁止されている)など、いくつもの欠点が指摘されている。搭乗員からは空戦性能はスピットファイアの方が高いと評価するものもあり、敵であるドイツのベテランパイロットからも、P-47の重武装の方が恐ろしいとの評もある。しかし本機の主任務はドイツ領への侵攻作戦であり、その点で最大の評価を勝ち得ている。スピットファイアの航続力ではこの任務に適さず、P-51なら帰還できるだけの燃料を残した状態でも、新兵だらけになっていたドイツ戦闘機とは十分に戦えるし、ジェット戦闘機相手でも離着陸時なら撃墜できた。そして、いかなる状況下でも航続距離が長いという事実は彼らに余裕を与えてくれたのである。このように長い航続距離を持ちながら、高い巡航速度と高速性、加速性、機動性を併せ持つことが最優秀と云われる所以である(あわせて整備のしやすさや低価格であることもあげられる。)。P-51はどの部隊でも愛され、多くのエース・パイロットが生まれた。もっとも全てのパイロットがそうだという訳ではなく、アメリカ陸軍内では空戦性能よりも頑丈さを重視してP-47サンダーボルトを評価し、P-51の脆弱性を嫌うパイロットもいた。P-51は米英が本当に必要とするまさにそのときに存在した航空機であった。大戦後期に英独双方が開発した機体(つまりジェット機)は、多くの点でマスタングの性能を上回っていたが、実際上の戦闘力において差が大きいとは言えず、P-51が与えた影響は、大戦期のどんな機体よりも大きいとさえ言えるかもしれない。戦闘機の旋回性能・加速力などを重要視し飛行技量が物を言う巴戦を得意とした日本陸軍・日本海軍の操縦者間においても、アメリカ海軍のF6Fとならび運動性能でも日本軍機にしばしば引けをとらない性能を見せたアメリカ陸軍のP-51B/C/Dは、ベテラン操縦者にさえ「なかなか手強い敵機」との評判であった。日本陸軍航空部隊の黒江保彦は、テスト・パイロットとして中国戦線で鹵獲されたP-51Cを駆って、仮想敵機として日本各地の本土防空飛行部隊機と模擬空戦を行ったが、黒江はこの際「味方が自信を喪失しないため性能をすべて引き出さなかった」という趣旨の発言を行なっている。坂井三郎は戦後に複座型・TF-51を操縦する機会を得て、中速度域での操縦性の良さと、高速でも思うように動くこと(高速で舵が効かなくなる零戦と比較して)を評価している。1948年に、アメリカ空軍(USAF)全体にわたる命名規則一新計画によって、制式名P-51(P: Pursuit aircraft、追撃機)からF-51(F: Fighter、戦闘機)へと変更された。偵察機型も同様にRF-51へと変更された。F-51Dは朝鮮戦争の間、戦闘機としては旧式化していたものの、戦闘爆撃機や対地攻撃機として使用された。新型でより高速のF-51Hは、軽量故に頑丈さに劣ることと、エンジンその他の生産数が少なく実戦向きの補給・整備は困難とされ、使用されなかった。当時、既にジェット戦闘機が登場していたが、滞空時間が短く、敵地上空に長居できないため、レシプロ機は重宝された。マスタングも対地攻撃に使用されたため、ペイロードの搭載量が着目され、速度性能はさほど問題にされなかった。アメリカ空軍最後のマスタングは1957年に退役している。P-51は戦後余剰となった機体が多くの空軍で採用された。イスラエル空軍は1948年の第一次中東戦争(独立戦争)と1956年のカデッシュ作戦にマスタングを使用した。他に使用した国には、大韓民国、中華民国、インドネシア、フィリピン、ニュージーランド、オランダ、スイス、エルサルバドル、ドミニカ共和国、キューバなどがある。トランス・フロリダ社が戦後に放出された中古のマスタングを改修して複座の民間スポーツ機として販売したもの。同社は1967年にキャバリア社に名称変更したが、民間型を再び軍用型とした練習機やCOIN機、軽戦闘機も製作された。軽戦闘機型はボリビア空軍が採用した。キャバリア社は1971年に解散したが、ライカミングT55-L-9ターボプロップ(2445HP)を搭載したCOIN機も開発していた。解散後はパイパー社が引き継ぎ、パイパーPA-48エンフォーサーとして80年代後半まで開発を継続したが、採用されることなく終わった。総生産機数: 15,675機。これはP-47に次いで、米国製戦闘機中では第2位。FJ-1 フューリーは戦後ノースアメリカン社が開発した、アメリカ海軍向の艦載ジェット戦闘機である。これは、P-51の主翼と尾翼をそのまま流用し、胴体のみジェットエンジン搭載の新設計のものに変えた機体である。そのため、P-51のジェット化バリエーションとも解釈でき、そのように紹介される場合もある。しかしレシプロ機時代においてこそ画期的な層流翼形式採用の主翼であったものの、第二次世界大戦の終了によりドイツから後退翼の技術が導入されると、直線翼形式は陳腐化してしまった。発展型のF-86 / FJ-2〜4は、新設計の後退翼の採用によって素晴らしい高性能を得たが、そのおかげでP-51との共通部分は皆無になってしまった。しかしその後ノースアメリカン社が開発した練習機T-2バックアイはFJ-1の主翼を流用しており、P-51の末裔と考えることもできる。2015年現在、世界中でなお多数の機体が公的施設、民間団体ならびに個人によって保存されており、飛行可能な状態に保たれているものも多い。アメリカを中心とした各地の博物館のほか航空ショーやエアレースなどでは保存機や改造機の飛行を見ることができる。ポール・アレン(Flying Heritage Collectionで公開)やトム・クルーズも保有している。
出典:wikipedia
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