正木 頼忠(まさき よりただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。安房正木氏の一族である勝浦正木氏の当主。正木時忠の五男。正木時通の弟。初名は時長(ときなが)。正室は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆(北条氏尭の誤伝または田中泰行の娘で北条氏尭の養子とも)の娘とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)とある。継室は里見義堯の娘。天文20年(1551年)、正木時忠の五男として生まれる。父の時忠は安房里見氏の家臣であり、安房正木氏の嫡流である大多喜正木氏の正木時茂の東上総侵攻に従い勝浦城を任され、勝浦正木氏を興していた。時茂の死後、大多喜正木氏の勢力が弱まると、時忠は里見氏からの自立を目論み、永禄7年(1564年)に里見氏を裏切って北条氏康に属し、五男の頼忠は人質として小田原城に送られた。頼忠は小田原で北条氏隆の娘と結婚し、直連・為春・於万(養珠院)を儲けている。天正年間初頭には時忠と兄の時通が北条氏を見限って里見氏に再属しており、頼忠は北条氏の縁戚であるため殺害はされなかったものの、その日常生活は厳しく監視された。天正3年(1575年)に兄の時通が急死し、翌天正4年(1576年)には父も死去したため、天正6年(1578年)前後に勝浦城に戻り、勝浦正木氏の家督を相続したが、妻や子の為春達は小田原に残すことになった。この家督相続の時期に初名の時長から頼忠に改名している。天正6年(1578年)の里見義弘の死後に梅王丸と義頼との間で家督相続争いが勃発したが、頼忠は義頼に味方してその当主擁立に協力し、それに反発した大多喜正木氏の正木憲時が反乱を起こすと、義頼とともにこれを攻め滅ぼした。その後、里見義堯の娘を後室として迎え、天正15年(1587年)には北条氏と交渉し、小田原で人質となっていた直連と為春を上総に呼び戻した。なお、前室は蔭山氏広の室となり、於万は氏広の養女として育てられた。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、秀吉の命令で徳川家康が関東に移封されたため、里見氏は上総国を失うことになり、勝浦正木氏も上総国の所領を捨てて安房国に去った。天正20年(1592年)に剃髪し、日嘯(日正)と号して法華経を寄進している。娘の於万が家康に見初められ側室として寵愛を受けるようになると、慶長3年(1598年)に家康より出仕を求められたが、頼忠は固辞し、代わりに次男の為春が出仕に応じている。慶長8年(1603年)には長男の直連が松平忠吉(徳川家康の四男)の家臣となった。慶長17年(1612年)、大御所となっていた家康に駿府城で拝謁するが、出仕は望まず、なおも里見氏に仕えた。里見氏の没落後は次男の為春を頼り、元和5年(1619年)に為春が於万の子である徳川頼宣に従って紀伊に入部すると、頼忠も紀伊に移って余生を過ごした。元和8年(1622年)8月19日に紀伊で死去。法号は了法院日正居士。紀伊国那賀郡貴志荘上野山村(現在の和歌山県紀の川市貴志川町)に埋葬され、当地には元和9年(1623年)に為春によって了法寺が建立された。了法寺は慶安3年(1650年)に名草郡坂田村(現在の和歌山県和歌山市)に移転し、頼忠の墓所も改葬されている。頼忠の子のうち、三男の菊松は糟谷氏の養子となり軍次郎と名乗る。父のいる勝浦城へ行くや否や梅王丸を巡る里見氏の家督相続争いに巻き込まれ、後に正木憲時が勝浦城を攻めたとき、頼忠は菊松を脱出させ(お万の布晒しと言われている)河津の母親の元へ逃す。その後、正木姓に復した軍次郎は正木織部を名乗り、清水小太郎の女を娶る。秀吉の小田原征伐の際、蔭山氏広が母親と於万を連れて逃れたとき、北条屋敷を引き継ぎ帰農した。四男の康長は旗本となった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。