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名人 (将棋)

将棋における名人(めいじん)は将棋界の最高権威者とされる称号であり、現在は名人戦の勝者を示す称号となっている。女流名人、アマチュア棋戦の「名人」はそれぞれを参照。名人の最初は織田信長が任命した一世本因坊本因坊算砂(日海)と言われる。算砂はのちに徳川幕府の初代囲碁将棋統括最高位である連絡係に命じられたという。ただし、増川宏一『将棋II』(法政大学出版局)によると、鎌倉時代の『二中歴』には既に、囲碁と雙六の名人についての記述があるという。その後は、以下のように大きく3つの時代に分けられる。第十三世名人関根金次郎の提案により、名人を実力によって選ぶ名人戦が発足する。昭和24年(1949年)の日本将棋連盟の規約改定により、名人位を5期以上保持した棋士に「永世名人」の資格を与え、引退後に襲位するようになった。他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。代数は家元制(世襲制)および推挙制の数字を引き継ぎ、十四世からとなっている。大山康晴は名人位通算18期および13連覇など、中原誠は名人位通算15期などの偉業を讃え、特例として現役のまま襲位することを許された。日本将棋連盟が与える称号としての「実力制名人」は、制度発足から51年後の1988年、升田幸三の功績を讃えるに当って制定された。選定基準は70歳以上で3期(もしくは抜群の成績で2期)以上名人位にあった引退者とされ、現在この称号を冠しているのは、塚田正夫と升田幸三である。また、上掲の歴代名人では、米長邦雄が1期のみでこの資格を満たさないまま引退した。
加藤一二三(1期)、佐藤康光、丸山忠久(各2期)は現役。名人位を1期獲得すると九段へ昇段する。竜王戦発足以降、名人はタイトル順位2位と定められているが、竜王とともに免状の署名など、多くの業務をこなす必要がある。竜王位と名人位の両方を1人の棋士が持つ場合、竜王・名人の順で称される。また、竜王位を持つ棋士と名人位を持つ棋士が異なる場合、タイトル保持数が多い棋士が序列1位となり、同じ保持数の場合は棋士番号の小さいほうの棋士が序列1位となる。前名人の序列はタイトル保持者に次ぎ、前竜王と同列であり資格を遅く得た方が上位と決まっている。また、前名人を辞退して単に九段と呼称されることもある。辞退した場合は通常通り、タイトル保持者・九段・八段…の序列が適用される。現役当時は名人に在位しなかったが、その功績が名人位に相当する者として、引退後や没後に名人を贈位(追贈)されるものに贈名人や名誉名人がある。また、日本将棋連盟は公認していないが、生前に関西名人と呼ばれた棋士がいる。没後の顕彰により「名人位」を追贈された者は、以下の2名がいる。推挙によって名人が襲位していた時代に諸般の事情により襲位できなかったが、後に日本将棋連盟(または将棋大成会)によって「名誉名人」称号を贈られた者は、以下の2名がいる。なお、升田幸三が実力制第四代名人の称号を贈られる前に「名誉名人」を打診されたが、「名誉名人は名人になれなかった者への肩書きだ。私は名人になっている」として、断っている。家元制(大橋家・大橋分家・伊藤家)から実力制(日本将棋連盟)への移行期にあたる明治・大正時代には、棋界が統一されておらず、様々な将棋団体が乱立することになった。特に関西では東京とは独立に棋界の運営が行われ、天野宗歩の弟子の小林東伯斎が関西名人を襲った。さらに小林の死後、小林の弟子ともいわれる阪田(坂田)三吉は、大正14年(1925年)に京阪神の財界有力者に推挙されて「関西名人」(大阪名人とする資料もある)を称した。しかし、すでにほぼ棋界の統一を終えていた東京将棋連盟(当時)から「名人僭称」として追放され、一時的に孤立することになった。晩年に将棋連盟と和解し、実力名人制の名人戦でも活躍した阪田は、没後の顕彰により将棋連盟からも「名人」「王将」を追贈され、大阪・通天閣の傍に「王将碑」が建てられた。なお、家元制の名人等は日本将棋連盟もそれを引き継いでいるが、関西名人は日本将棋連盟とは独立の団体における称号だったため、現在では非公認のものである。将棋の名人に関する名言や格言など。

出典:wikipedia

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