川越市(かわごえし)は、埼玉県南西部に位置する人口約35万人の市である。旧・武蔵国入間郡。東京都特別区部への通勤率は16.3%(平成22年国勢調査)。埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぐ第3位の人口を擁する。中核市と業務核都市、保健所政令市に指定されている。江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、文化財の数では関東地方で神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ。歴史まちづくり法により、国から「歴史都市」に認定されている(埼玉県内唯一の認定)。戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約620万人もの観光客が訪れる観光都市である。海外の旅行ガイドブックに紹介されることも多く、最近では外国人旅行者が多い(例えばニューヨーク・タイムズ紙の「2009年トラベルガイド」の 川越特集)。武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が市内で合流する。地理的な要衝で平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となった。戦国時代には関東平野の覇権を決する河越夜戦の舞台となった。河越夜戦は「日本三大夜戦」とされる。江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。川越城を擁する川越藩は江戸幕府の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市である。川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注いだ。「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じ、玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修を行い、行政手腕の秀でた柳沢吉保は、川越に召抱えていた荻生徂徠の建議を入れ、筆頭家老の曽根権太夫に命じ、三富新田の開拓などを行った。川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や絹織物・工芸品など市場競争力のある特産品開発がなされた。川越藩領の狭山丘陵で河越茶(狭山茶)の栽培が進められ、武蔵野の開墾地ではサツマイモの栽培が盛んになった。高林謙三が開発した「高林式製茶機械」によって狭山茶は隆盛することとなり、赤沢仁兵衛が考案した「赤沢式甘藷栽培法」によってサツマイモの収穫量は劇的に増加した。寛政年間に焼イモが江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の舟運で江戸に出回ったサツマイモは川越芋と呼ばれ「栗よりうまい十三里」というフレーズと味の良さで持て囃され、「イモの町」のイメージも定着した。こうした領内や秩父など近郊からの物資の供給地として「江戸の台所」と呼ばれ繁栄した。また幕末、川越藩領であった上野国前橋で生糸業を興し、その輸出で川越商人は財を成した。埼玉県下随一の城下町(川越藩の石高は武蔵国で最大、関東でも水戸藩に次ぐ)であったので、廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。入間県は現在の東京都武蔵野市周辺から新座や秩父・熊谷・本庄まで含んで発足、入間県の面積は現在の埼玉県の7割を占めていた。現在の埼玉県成立後、最初に市制を施行したのは川越である(大正11年の市制施行は北海道札幌市などと同年)。明治以降も先進的な発展が続き、埼玉りそな銀行の前身であり埼玉県で唯一の国立銀行であった第八十五国立銀行の発祥地である。また旧川越藩御用商人衆には横田五郎兵衛、山崎豊、黒須喜兵衛など豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行(川越銀行や川越商業銀行)の設立や商工会議所・医師会の発足なども埼玉県内で最初である。後に川越市初代市長となる綾部利右衛門ら川越商人の強い力で、埼玉県で最初に火力発電所や水力発電所を設け、埼玉県下で最初に電灯が燈った町でもある。川越商人に加え、上広瀬村(現・狭山市)の清水宗徳が参画し、川越鉄道が甲武鉄道の国分寺駅との間に建設された(現在の西武新宿線と西武国分寺線のルーツ)。また、綾部らの川越電気鉄道が大宮との間で開通した。川越電気鉄道は蒸気機関車ではなく、その名の通り、埼玉県で最初の電車であった。川越鉄道と川越電気鉄道は最終的に合併し、西武鉄道(旧)となり、川越藩三芳野村(現・坂戸市)出身の大川平三郎(「日本の製紙王」と呼ばれ大川財閥を作った)らが役員に名を連ねた。綾部らの西武鉄道は堤康次郎の武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と太平洋戦争中に戦時合併する。一方、1902年(明治35年)には綾部ら川越商人と川越商業銀行頭取で新河岸川の回漕業者でもあった福岡村(現・ふじみ野市)の星野仙蔵が、東京 - 川越間の京越鉄道の敷設を計画した。これは本社を川越に置いて発足した東上鉄道に引き継がれ、1914年(大正3年)に池袋駅 - 田面沢駅(現在の川越市駅の西方にあった)間で開通した。2年後には坂戸駅まで延伸。東上鉄道は1920年に根津嘉一郎の東武鉄道と合併する。昭和になって軍需鉄道の八高線の建設が決まると川越商人たちが川越線建設を求める請願を行い、国策鉄道として省線の川越線が開通した。代わりに、川越 - 大宮間の電車(西武大宮線と改名)は廃線となった。現在では、JR・東武東上線川越駅は1日約19万人が乗降し(埼玉県内では大宮駅に次ぐ2位)、近接する西武新宿線本川越駅を併せた乗降客数は26万人を超え、東武東上線・川越市駅も併せると中心市街地に駅が3つあることになる。旧市街地の玄関は西武の本川越駅で、新市街地の玄関は東武の川越駅である。室町時代より川越街道(現・国道254号)で、江戸時代より新河岸川舟運で、江戸と直結した物流の要衝であり、1971年(昭和46年)には埼玉県内で最初の高速道路として関越自動車道が練馬IC - 川越IC間で完成、開通時の名称は「東京川越道路」であった。国道16号(東京環状)や首都圏中央連絡自動車道(圏央道)も通じている。その他:昼夜人口比率は、96.51%(2005年)。ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。1年を通じて穏やかな気候で、年平均降水量は1320mm、年平均気温は15.8℃、年平均相対湿度は62.8%、年平均風速は2.1m/s。(数値は2009年)。都心から30km圏に属し、北緯35度55分30秒、東経139度29分08秒(市役所のある元町)。市域は東西およそ16.3km、南北およそ13.8km。標高は元町で海抜18.5m、市の南端が最も高く50.7m、東部が最も低く6.9m、標高差およそ44mである。荒川と多摩川に挟まれた地域を武蔵野台地と言い、川越はその北東端に位置する。武蔵野台地は奥秩父山地を水源とする多摩川が形成した扇状地である。太古の多摩川(古多摩川)は東京都と神奈川県の都県境方面ではなく埼玉県西部の入間郡を横断して流れていた(今の入間川の流路とほぼ同じ)。武蔵野台地は柳瀬川以北を特に川越台地と呼び、さらに入間川を超えた北西側を特に入間台地と呼ぶ。南西には狭山丘陵が接する(狭山丘陵も古多摩川が土砂を堆積してできた丘陵で、狭山丘陵の形成によって多摩川は後に流路を南に変えることになった)。河越館が築かれたのは入間台地の東限で、川越城が築城されたのは川越台地の北限である。川越城は地形を利用した平山城であった。1457年(長禄元年)に川越城と江戸城を築城した太田道灌は、両城を結ぶ防衛ラインとして川越街道を造った。以来、川越街道より西南側へ多摩地域までが武蔵野と呼ばれる地方で、文化的な一体性がある。川越台地を取り囲むように周囲は低地であり市内からは関東平野を囲む山々を眺めることができる。外秩父山地や武蔵野台地の武蔵野面(古多摩川が形成した高位の河岸段丘)に降った雨は、入間川や新河岸川、越辺川、不老川、小畔川、赤間川など(今では多摩川水系ではなく)荒川水系の幾多の河川を形成し、川越の町を囲むような低地に主に北西方向から南東に流れる。町は台地上に形成され、南側の台地に拡大する余地が残っており、歴史的にも南へ街が広がってきた。甲武信ヶ岳を源とする荒川は江戸時代の寛永の瀬替えにより大宮台地西側を流れるようになり流量を増やした。荒川は、大持山から流れ出た入間川と当市内の古谷上で合流し、日本でも最大規模の河川敷を形成する(国道16号の上江橋は河川にかかる国道の橋としては日本最長である)。このため、「外川」と呼ばれた荒川の対岸の大宮などとは歴史的にも結び付きがあまりない。川越街道は入間川や荒川を渡ることなく江戸へ通じたので、荒川や利根川の氾濫に苦しめられた中山道に劣らず賑わった。「内川」と呼ばれた新河岸川は江戸へ向って傾斜し隅田川に合流するので、川筋が整備され舟運が盛んであった。大正時代に新河岸川は赤間川と合流され、さらに川越市街を取り巻く形となった(大正時代に新河岸川のルートに東武東上本線が建設され、舟運は廃された)。こうした河川が市内北部や東部に広大な氾濫地である荒川低地を作り出し、稲作地帯となっている。市内東部には埼玉県内最大の自然沼である伊佐沼もある。旧荒川の流路に沿って自然堤防も形成されている。こうした沖積層は、地下水位が高く軟弱な粘土やシルトが厚く分布している。一方、武蔵野台地(川越台地・入間台地)上にある市内中心部・南部・西部は対照的に洪積台地となっており、富士山や浅間山の火山灰が形成した関東ローム層(立川ローム層とその下の武蔵野ローム層)の下には古多摩川が形成した比較的安定した礫層がある。関東ローム層は保水力が無く井戸水に困り、また江戸時代以前は武蔵野台地を水源とする川は石神井川や不老川など数少なく、その上、瀬切れを起こしやすく台地上では水の確保に苦労した。現在では武蔵野の雑木林の面影を残し、水はけが良いことから畑作地帯となっている。直接の由来は平安時代に河越館を構えた豪族河越氏 であるが、その由来は古来より諸説ある。川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「河越」と称されたという説や、養寿院にある銅鐘(国の重要文化財)に「武蔵国河肥庄」という銘があり吾妻鏡にも文治2年(1186年)の記述に既に「河肥」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。川越市の2012年度(平成24年度)の財政力指数 0.95であり、これは埼玉県内全40市の中で、戸田市、和光市、朝霞市、八潮市、所沢市、さいたま市に次いで7番目に高い。2007年度〜2010年度においては財政力指数が1.00を超えていたが、2011年度以降は1.00を下回っている。2015年5月15日現在「蔵の街」として知られる栃木県栃木市、千葉県香取市(旧佐原市)とともに小江戸サミットを開くなど、観光面で交流している。1965年(昭和40年)に狭山市とともに積極的な工場誘致を行い、当時、日本一の面積であった川越狭山工業団地が完成、更に1980年代には富士見工業団地や川越工業団地が造成され、市内の住工混在の解消を図っている。首都圏中央連絡自動車道の川島ICに近い市内には、川越第二産業団地の整備も進んでいる。埼玉県内では最大級の工業都市で、2014年には狭山市を抜いて工場製造品出荷額で1位である(9370億円)。機械類の生産が最多であるが、化学工業が多いのも特徴である。など。川越市の小売業の年間商品販売額は、さいたま市・川口市に次いで埼玉県内第3位である(2009年)。当市など埼玉県西部にある各大学は彩の国大学コンソーシアムを結び単位互換制度や公開講座を実施している。当市では、「育英資金」という奨学金制度がある。なお、本奨学金は返還義務が伴う。また、「川越市交通遺児奨学金」制度があり、本制度は小中学生対象の給付型である。市内には図書館が4か所、図書配本所が2か所、図書分室が1か所ある。また都市部での移動図書館は少ない中、「やまぶき号」が2007年3月まで運行されていた。かつては、川越駅西口から徒歩5分の場所にある川越福祉センター(2008年3月15日閉館)向かいに埼玉県立川越図書館が長年運営されてきたが、2003年3月31日をもって廃止された。図書館の広域自治体間相互利用協定により、以下の市民にも開かれている。市内には公民館が17か所と常勤職員が常駐しない分館が1か所、分室が1か所ある。またこの他に町内公民館と定義づけされた自治会集会所がある。なお、名細公民館の分館として長く使用された川越市下広谷南公民館は名細公民館の移転に伴って廃止された。市内には市民会館が1か所、文化会館が2か所、運動公園、武道館、葬祭場が各1ヶ所ある。施設の運営維持管理は 財団法人川越市施設管理公社 が行っている。また、文化会館の小規模なものとして住民管理方式を取り入れた地域ふれあいセンターが2か所ある。なお、1974年11月11日より33年余りにわたって運営されてきた 川越福祉センター(川越駅西口徒歩5分)は、2008年3月15日をもって廃止された。市外局番は049であり、坂戸市、鶴ヶ島市、富士見市(水谷東二丁目・三丁目以外)、ふじみ野市、入間郡全域、比企郡川島町、鳩山町と同一(川越MA)。荒川左岸の古谷上の一部は048。郵便番号は市内全域が「350-00xx,08xx,11xx」である。江戸時代から入間地区の交通の要衝として発達しており、周辺各都市への交通が中心部から放射状に発達しているものの、市内環状道路の整備や、主要道路の拡幅が今後の課題となっている。なお、西武新宿線の列車の愛称は川越市にちなんだ名称になっている。(特急「小江戸」号、快速急行「川越」号)西武鉄道の前身、西武鉄道(旧)は1925年(大正14年)に、入間川からの砂利輸送が目的で南大塚駅から安比奈線を開通させた。入間川には、安比奈線と埼玉県営鉄道の2つが対岸の東武と西武の駅から向かい合うように延びていた。1950年(昭和25年)に電化され蒸気機関車から電気機関車に変ったが、その貨物輸送も1967年(昭和42年)で廃止された。その後半世紀近くにわたって休止扱いであったが、2016年(平成28年)2月、西武鉄道から同年11月を以て正式に路線を廃止することが公表された。タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、所沢市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われ、年間620万人の観光客を集めている。NHKの大河ドラマが「春日局」、「葵 徳川三代」、「義経」、「風林火山」など、当市に関係する内容になると観光客が増えている。海外から来日した国賓にも日本の代表的な町並みとして紹介されており、2007年3月28日には今上天皇夫妻がスウェーデン国王カール16世グスタフ夫妻を案内し、西武新宿線のお召し列車で行幸した。国土交通省の観光ルネサンス事業に指定され、外国人富裕層の誘致促進の観光振興策を実施している。外国人観光客向けプロモーションビデオのコンペ「小江戸川越ビデオ大賞」も行い、優秀作は海外に配信している。東京近郊で交通至便、江戸情緒を実体験できる町として人気で、外国人観光客は年間4万人超となっている。韓国MBCの人気番組「私たち結婚しました」のロケ地となるなど、外国メディアに登場することも増えている。2008年2月からは、川越商工会議所を中心に小江戸川越検定が行われており、市外からも多くの人が受検している。また絹(川越絹平)や唐桟(川唐)の大産地であったことから毎月18日を「川越きものの日」として町興しを行っており、着物姿だと各博物館や旧市街の指定商店での買い物が割引になる。博物館・美術館については、「博物館・美術館」の項目を参照。街中にオブジェ(屋外彫刻)が多い。時間を表すオブジェとしては以下のようなものがある。
出典:wikipedia
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