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松濤権之丞

松濤 権之丞(まつなみ ごんのじょう、天保7年(1836年) - 慶応4年(1868年)4月末頃)は、日本の武士・幕臣。通称「権之丞」、諱名「泰明」で、正式名は「松濤権之丞泰明」。なお、「松濤」については、「松波」「松浪」等の表記例もある。母・波通(はつ)の長男として江戸に生まれる。父親の名前は具体的に伝わっていないが、「前田藩(加賀藩?)家老」と云う話が伝えられており、通称「権之丞」は、実父の出自に由来する名付けだった可能性がある。庶子だったため、江戸で生まれるとすぐに寺へ預けられ、そこである年齢まで育てられたという。松濤家の家紋は「抱き茗荷」である。伝承によれば、姓も家紋も預けられた寺の住職から貰ったものだという。住職の姓が「松濤」で家紋が「抱き茗荷」という寺は、芝・増上寺前の妙定院や宝松院、芝・西応寺町の○○寺、浅草の○○寺などがあり、権之丞は今挙げた寺のいずれかにいたようである。権之丞が何歳まで寺にいたかはわかっていないが、やがて御家人株を買って幕臣(御家人)になったらしい。はじめ神奈川御役所附上番、次いで外国奉行支配定役格同心となった。文久元年(1861年)12月、幕府は外国奉行水野忠徳を小笠原諸島に派遣し、日本領であることを宣言したが、権之丞はこれに随行(外交史料館に残る権之丞渡仏時の外交文書に「権之丞の親類」として名前が出てくる小花作之助も外国奉行支配定役元締助として随行している)、咸臨丸で渡島して調査に当たった」。翌文久2年(1862年)に、忠徳の帰府後も、八丈島からの移民とともに残って島を管理した。この間の権之丞に関するエピソードとしては、中浜万次郎、林和一郎らと鳥島に上陸し、権之丞の筆による「日本属島鳥島」の標柱を立てた話などが伝えられている。そして、権之丞は、文久3年(1863年)5月1日、ホーツン事件(日本人が初めて外国人を逮捕した事件)の罪人を連行して小笠原島を出帆し、5月11日に横浜に着船。 文久3年12月29日(1864年2月6日)、横浜鎖港談判のための遣仏使節の随員として、権之丞は、定役格同心という身分で、フランス艦ル・モンジュ号に乗り込み、横浜港を出航した。一行は途中エジプトに寄り、スフィンクスの前で記念写真を撮影。前述の、外交史料館に残る外交文書には、この渡仏の際の権之丞の留守引受名前として、「同役 菰田謙輔」「親類 小花作之助」の名前がある。一行は、元治元年(1864年)5月17日にパリを出発し、7月18日(1864年8月19日)、ピ・オ汽船会社のガンジス号にて横浜港に帰国する。なお、内藤遂著『遣魯傳習生始末』(東洋堂、1943年9月刊)という本の194頁に、この一行の帰国の時に、同心町に住んでいた権之丞の老父が、大塚箪笥町にあった、マルセイユで黄熱病のために客死した随員の横山敬一の家を訪れたという記述がある。すなわち、「松濤の老父は使節一行の横浜安着を報じ、且つ安心すべき旨を告げて辞去した。(中略)松濤の父はわざわざ同心町より、大塚箪笥町まで訪れたのであるから、安着を語る以外に、特殊な用件があったものと解される。すなわち松濤は当時パリより横山看病のため、マルセイユに下りたる一人であるから、老父は横山の死を篤と承知していたものと言わねばならない。しかし、横山家のただならぬ雰囲気を察知し、弔慰の言葉も言えずに、ただ安心すべき旨を告げて辞去したものと察せられる。」と書かれている。 フランスから帰国した後の権之丞については、富士見御宝蔵番格・騎兵差図役下役、同砲兵差図役並勤方を経て、小十人格・軍艦役並となり、慶応3年(1867年)11月には古屋佐久左衛門とともに海軍伝習所通弁掛になった。やがて勝海舟配下の軍事方の一人になり、幕府内部の恭順工作を担当するようになる。今の東京都足立区の五兵衛新田に大久保大和(新撰組局長近藤勇)を訪ねたのも、のち官軍に捕縛された近藤宛に書簡を送ったのもそのためらしい。恭順工作の仕事ではかなり苦労したようである。結局、権之丞はこの恭順工作の最中に落命する。権之丞の最期については次のような話が伝わっている。 なお、権之丞が無念の最期を遂げた地については諸説あるも、さまざまな伝承記事を総合すると、増田直八郎の指揮のもと、撒兵隊第三大隊が本陣を構えたところと伝わる、千葉県市原市姉崎453の顕本法華宗一乗山妙経寺境内と考える説が今のところ一番有力である。墓は、東京都文京区向丘2-1-10の浄土真宗本願寺派涅槃山西教寺にある。権之丞の跡目は、実子泰近がまだ幼かったため、「松濤権之丞惣領」として幕府にすでに届け出をしていた秋作(小花作之助・次男)がいったん相続したようである。そして、徳川家の駿府移封に伴い、松濤家も小石川茗荷谷の屋敷から駿府の大谷村へ移るが、程なくして権之丞の妻安子が亡くなり、清水興津(現在の静岡市内)の日蓮宗教敬山耀海寺の墓地に松濤家の墓を建立し、権之丞と合わせて埋葬した。耀海寺の墓地には、今でも「松濤家之墓」の墓石が残っている。明治2年(1869年)に泰近は秋作から松濤家の家督を相続(秋作はこの時点で小花家に戻ったようである)。泰近は以後、「相馬さん(権之丞が捕縛された近藤勇に宛てて認めた書簡を託した新撰組隊士の相馬主計と同一人物と思われるが、詳細は不明)」の許で育てられた。その後、明治法律学校に一期生として学び、東京市長・後藤新平の下で、荏原郡長、麻布区長、麹町区長、赤坂区長などを歴任した。昭和17年(1942年)に鎌倉の材木座にあった家で胃癌のために没。妻はカン(閑子。本郷の三谷家の出身。)、子は四男一女。泰近は生前熱心な読書家で、豊富な蔵書を持っていたという。「正岡子規全集」(改造社版)をはじめとする蔵書は、泰近没後に閑子によって鎌倉市の図書館に遺贈され、「松濤泰造(担当者が泰近の名前を誤記したものと見られる)文庫」として一時期広く活用された。

出典:wikipedia

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