宮戸島(みやとじま)は、宮城県東松島市にある陸繋島で、仙台湾の支湾である松島湾と石巻湾とを分ける位置にある。島としては、松島湾で最大の面積を持つ。人口は約1,200人。日本三景・松島の観光地区の1つ「奥松島」の主要部である。島の最高峰である大高森からの眺望は「壮観」と呼ばれ、「松島四大観」の1つである。また、島の東南の「嵯峨渓」は名岩・奇岩が多数連なり、「日本三大渓」の1つに数えられる。現在の当島は野蒜海岸()の南端にあり、同海岸を陸繋砂州とする陸繋島になっている。かつて同海岸とは潜ヶ浦水道(かつぎがうらすいどう。~)をまたぐ松ヶ島橋()によって結ばれ、宮城県道27号奥松島松島公園線が通っていたが、2011年に松ヶ島橋は津波で流失している。当島の西側にある浦戸諸島の寒風沢島()とは、わずか80mの幅の鰐ヶ渕水道()を挟んで向かい合っているが、浦戸諸島は旧宮城郡域となっている。気候は温暖で、椿などの暖地性の植物と寒地性の植物が共存する珍しい場所でもある。島はほとんど山地で、平地は少なく、海岸線が入り組んでいる。江戸時代までは、鳴瀬川河口付近より南側にある沖ノ明神岩()、不老山()、鷺ノ巣岩(さぎのすいわ、)、鰯山(いわしやま、)、当島などは全て島であり、日本三景・松島の松島海岸地区のような多島海の風景だった。しかし、当海域の北東にある石巻湾の海岸付近では、波の影響で旧北上川等から供給される砂が東から西に海岸沿いを移動する傾向があり、さらに鳴瀬川の流出土砂も加わって、特に鳴瀬川河口から当島までの間に砂が堆積した。これにより、不老山、鷺ノ巣岩、鰯山などは陸封され、それらより海側には野蒜海岸(洲崎浜)という広大な砂嘴の砂浜が形成された(沖ノ明神岩は陸封されなかった)。当島も明治時代までは潜ヶ浦(かつぎがうら)と呼ばれる海域により対岸と分かれていた。土砂の堆積が進んで徐々に野蒜海岸が当島へ延びると、当島と同海岸との間に潜ヶ浦水道を開削するよう第12回国会衆議院運輸委員会に請願書を提出し、1951年(昭和26年)11月27日に審議された。1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)度の3か年をかけ、潜ヶ浦水道の開削や同水道を渡る松ヶ島橋(45m)の架橋などを事業費約1億6千万円をかけて行い、陸繋砂州の野蒜海岸と分離された。また、二本松鼻()と呼ばれる細長い岬が、潜ヶ浦水道の開削により宮戸島から切り離された。島の最高峰は大高森(標高106m、)と呼ばれ、この山頂からは仙台湾およびその内湾である松島湾と石巻湾、牡鹿半島、蔵王連峰、栗駒山を望むことができ、「松島四大観」の一つに数えられる。島の東南端にある萱野崎に向かう岬は「嵯峨渓」と呼ばれている()。女性的な松島湾の景観と対照的に男性的で荒々しい自然の造形美が見られる。岩手県の猊鼻渓、大分県の耶馬渓と並ぶ「日本三大渓」の1つである。遊歩百選にも選ばれている。最終氷期には松島湾は全て陸地であり当島も地続きだったが、現在から8900年前には縄文海進により大仏山()側の松島丘陵との間に海が侵入して松島湾が形成され始めた。さらに8700年前には、当島と浦戸諸島などが1つの島として(当時の)松島湾内に浮かぶ形となった。当初、丸山()は当島と浦戸諸島などが一体となった島の一部であったが、6800年前には分離して大仏山側と陸続きなった。当島には縄文時代から人が住んだ痕跡が残る。里浜貝塚は日本全国でみても大きな貝塚で、1918年(大正7年)に縄文時代の人骨が14体発見され、当時黎明期にあった日本の古人骨研究を活気付けた。この時、またその後の調査でさらに多くの人骨を含むおびただしい遺物が発掘され、1995年(平成7年)に国の史跡に指定された(現在地元自治体では、松島と宮戸島の縄文貝塚を組み合わせて、世界遺産申請に向けた運動を行っている)。現在、島には公共交通機関はなく、陸路ではJR仙石線・野蒜駅からのタクシー、海路では松島港から観光船、あるいはプレジャーボートでアプローチする形になる。かつては仙北鉄道がバスを運行していたが、その後宮城交通となり、1997年(平成9年)9月末日をもって廃止された。松ヶ島橋の北詰(野蒜海岸側)の潜ヶ浦水道沿いに、嵯峨渓遊覧船の案内所、桟橋、客用の無料駐車場がある。
出典:wikipedia
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