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七帝柔道

七帝柔道(ななていじゅうどう、しちていじゅうどう、Nanatei-judo、Shititei-judo)は、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の旧帝大の柔道部で行われている寝技中心の高専柔道の流れを汲む柔道である。七大柔道とも呼ばれる。現在オリンピックや全日本選手権で行われている講道館柔道とは全くルールが異なる、世界唯一の非常に特殊な柔道である。傑出した高専柔道の寝技技術は、現在の講道館柔道のみならず、ブラジリアン柔術や総合格闘技、サンボなど他の格闘技にも大きな影響を与えている。高専柔道の誕生は1898年(明治31年)、現在の七帝柔道に至るまで100年以上の伝統を誇る。現在七帝柔道を行っている七大学の前身は帝国大学のうち日本本土に設置されていた七大学で、戦前行われていた高専柔道大会を主催していた帝国大学柔道連盟(帝大柔道連盟)である。戦後の学制改革により旧制高校が消滅したため、高専柔道OBの旧七帝国大学柔道部員たちがルールを引き継いで始めたのが七帝戦である。毎年一回、各大学持ち回りで開かれ、七年に一度地元開催となる。現在では全国七大学総合体育大会(通称「七帝戦」「七大戦」)の一競技になっているが、元々はこの柔道の大会だけが行われていた。他の運動部が真似て徐々に定期戦を開きだしたのを統括したものが全国七大学総合体育大会となっている。他の運動部はもちろん普通のルールで競技を行っているため、総合体育大会とはいっても柔道だけは他の部のそれとは全く性格を異とする単一の競技である。この七帝柔道を扱った文学作品に、増田俊也の自伝的小説『七帝柔道記』(角川書店)がある。前身である高専柔道を扱った作品に井上靖の自伝的小説『北の海』(新潮社)がある。ルールの最も大きな特徴は、寝技への引き込みが認められていることである。普通の柔道は投技を掛けてもつれたときのみに寝技への移行が許されているが、七帝柔道では自由に寝技にいける。そのため、試合が始まるや、立技を掛けることなく、どちらかが引き込んで寝技になることが多い(もちろん立技で投げれば投げの一本勝ちも認められるので、立技の強者が活躍することもある)。このように寝技に特化していったのは、15人戦という多人数のチーム編成のため、各大学(戦前は旧制高校)とも白帯を多数入部させ部員の半数近くが大学から柔道を始める初心者で占めることも大きな理由であるとされる。寝技は立技よりも天賦の才に左右される部分が少なく、かつ短期間で技術の向上ができるため、高専柔道以来、寝技中心に移行していった。そして寝技の技術が異常に発達していく。例えば後にプロ修斗に転向して活躍する中井祐樹(後述)も大学から柔道を始め、わずか4年間の練習で突出した寝技技術を身に着け、後にヒクソン・グレイシーと戦うようにまでなる。高校までまったくスポーツ経験のない小柄な選手が、高校時代に実績を残した既成の有名選手を卒業時に実力で抜いてしまうこともよくある。これらは寝技が研究と練習によって進歩できることを証明している。サッカーや野球、テニスなど他のスポーツからの転向組も多く、各大学とも新入部員の3割から5割を柔道未経験組が占める。。現在の講道館柔道で寝技への引き込みが禁止されているのは、戦前、高専柔道の強豪校のひとつ六高が警視庁との団体戦で圧勝したり講道館紅白試合で寝技に引きずり込んで大勢を抜き去ったりする事件が続出したためである。この高専柔道の寝技偏重の姿勢を嫌った講道館がルールを変えてまで寝技の封じ込めをしてしまった。いかにかつての高専柔道の寝技技術が突出していたかがわかる。現在、講道館柔道やブラジリアン柔術、総合格闘技(MMA)などで使われている三角絞めや袖車絞め、オモプラッタなど各種絞技・関節技の多くは、もともとこの高専柔道で旧制高校生や帝大生によって開発された新技術であった。また、現在の柔道では禁止されている脚への関節技、膝十字なども高専柔道で開発された新技術であった。その新技術開発合戦はとてつもなく高いレベルで争われていた。高専大会には毎年各校が新技術を引っさげて出場した。戦後の七帝柔道でも、SRT(スーパーローリングサンダー、遠藤返し)などの新技術が多く開発されている。また寝技技術が傑出しているが立技を禁止しているルールではないので、高校時代に身に着けた立技を武器に戦う選手もいる。そういった選手は寝技でも自信をつけることによって、投げてもつれて倒れた時に相手の下になったりすることを怖がらなくなるため、かえって立技の切れ味が増すという。試合は15人の団体戦で、勝ったものが勝ち残り、次の人間と戦っていく、いわゆる抜き勝負である。高専柔道と七帝柔道が寝技中心の技術体系になっていったのは、立技(投技)は何かのミスで投げられて失点することがあることもひとつの理由である。試合時間も一般の柔道のそれより長く、先鋒から3将(13番目の選手)までが6分、副将と大将は8分である。「有効」や「効果」といったポイントはなく、勝負は一本勝ちのみによって決する。1試合終えるのに2時間以上かかる。寝技で膠着しても審判は「待て」をかけないので、延々と寝技の攻防が続く。「場外」という概念がなく、試合者が会場の縁で攻防していると、主審に「そのまま」と試合を止められ、試合場中央で同じ体勢に組み合って試合再開となる。15人を終えて大将決戦になり引き分けになると、両校が代表選手を選んで出し、8分の代表戦を行う。これも引き分ければまた代表を選び代表戦を延々と繰り返す。何度でも勝負が決するまで繰り返し続けるが、試合会場の使用時間の関係で試合を打ち切る場合がある。昭和39年の第13回大会の決勝戦、北大vs九大がそうであった。この試合は代表戦を繰り返し、延々4時間以上かけて深夜10時を過ぎても決着がつかない死闘となり、大会初の両校同時優勝が決まった。これはもちろん戦後の柔道試合の最長時間記録であった。(以下は七帝戦審判規定の前文である)七大学柔道大会は昭和二十七年に始められた。七大学柔道大会の母体とも云うべきものは、第2次大戦以前から高専柔道大会という形態で行われていた。現在国立七大学は、北海道大学・東北大学・東京大学・名古屋大学・京都大学・大阪大学・九州大学で構成されている。輝かしい伝統を持ち、環境のよく似た大学に在学する七大学柔道部員が一年間研究に研究を重ね鍛えに鍛えた技と力をお互いにぶつけあうために本大会は毎年一回開催される。本大会を通じて、お互いの切磋琢磨によって、日本の学生柔道を牽引していくような立派な七大学柔道を作り上げていかなければならない。柔道を学ぶなかで絶えず心身練磨、自己修養を心掛けることはとりもなおさず七大学柔道の発展に寄与することである。柔道は立技と寝技を同等に修得して初めて完成されるものである。この意味で七大学柔道は、寝技の実力向上を大きな目標としている。本大会において、第3回大会以来「引き込み」を認めているのはこのためである。また、試合の進行を円滑にし、実力を充分に発揮させるために、場内外の規定を弾力的に運用する。各合試者は本大会の趣旨をよく理解して正々堂々と試合することを心掛けねばならない。15人の抜き勝負のため、その布陣が勝敗の重要な鍵を握る。各大学は、試合ごとに、お互いに先鋒から大将までの15人の布陣表を審判部に提出する。こちらの分け役を相手校の抜き役にぶつけると有利に試合を進められるので、ここは両大学の監督の読み合いになる。各大学は抜き役(相手に勝ちにいく役)と分け役(どんな相手に対しても引き分けにいく)の役割を分けて選手を育ててきているので、一人一人が同じように責任を持つ。抜き役は必ず取らなければいけないし、分け役は必ず引き分けなければならない。分け役の一引き分けは、つまり抜き役の一勝に相当する。全員がチームのために自分を殺し、その役割に殉ずる。抜き役と分け役には上下関係、つまり上下の区別はまったくなく、共に敬意を払い、互いの役割を果たすことによってチームが勝つのだという意識を共有している。むしろ分け役の方が抜き役よりも重要だという意識が七帝柔道では高い。大人数による団体戦であること、選手に役割分担がされていることなどは、一般の柔道を含めた他格闘技の団体戦ではまったく見られない。七帝柔道はむしろサッカーやアメフット、バスケットボールなどオフェンスとディフェンスの役割分担を持つ球技に近いイメージもある。これが球技から七帝柔道に転向する選手が比較的ルールに馴染みやすい理由の一つとなっている。抜き役の中でもとくに強い選手を、巨大戦艦になぞらえて「超弩級」と呼ぶ。戦前の高専柔道では全日本で優勝した六高(→京都帝大)の野上智賀雄、拓大予科の木村政彦らがいる。日本柔道史上最強とうたわれる木村政彦は、その寝技技術でエリオ・グレイシーの寝技を破った。戦後の七帝戦でも三本松進(東大)、岡本啓(京大)、川西正人(北大)、甲斐泰輔(九大)ら多数いる。(優勝校には文部科学大臣杯と優勝旗が手渡される)昭和56年から平成2年まで、京大柔道部が10連覇した。当時はアメフト部が人気で、高校で柔道の実績がある重量級を軒並みさらわれ、柔道部は小型化していたが、その中での10連覇は偉業である。抜き役にそれほど目立った選手はいなかったが、絶対的な分け役を多数揃え、失点を抑えることによって優勝を続けた。京大の快進撃が続く中、東大が寝技重視の七帝ルールに異議をとなえ、国際ルールへの転換を言い出した。これに阪大も傾きかけたが、京大・名大を中心に北大・東北大・九大はこの東大提案をはねつけた。毎年のようにこのルール問題が討議された。東大は実際に練習を普通の大学のように立ち技偏重へと転換し、強力な立技を持つ新入生の多数が入部し、ますます国際ルールに傾いていく。そして、まず京大との定期戦が中止となった。東大は平成3年、ついに脱退する事態にいたった。その後、平成13年東京大会から東大は復帰し、現在は伝統の東大vs京大の定期戦も復活している。バーリトゥードジャパンオープン95でジェラルド・ゴルドーと死闘を演じ、右目を失明しながら勝った伝説の元修斗ウェルター級チャンピオンの中井祐樹は北海道大学柔道部の出身である。白帯で入部した中井だが、練習量と精神力で粘り強い寝技を身に着け、超弩級選手としてならし、4年生の最後の七帝戦で優勝を遂げると北大を中退してプロに転向した。中井は現在、ブラジリアン柔術に転向し、日本ブラジリアン柔術連盟会長を務めている。七帝柔道出身の格闘家にはプロ修斗の山下志功(北大OB)、大賀道場の大賀幹夫(九大OB)、チームレグナムの入來晃久(阪大OB)らがいる。

出典:wikipedia

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