長福寺(ちょうふくじ)は、愛知県名古屋市中区にある真言宗智山派の準別格本山寺院。山号は稲園山(とうえんざん)。七寺(ななつでら)とも称される。寺伝によれば、天平7年(735年)、尾張国中島郡萱津(現在の愛知県あま市)に行基が開山。当時は正覚院と称した。延暦6年(787年)、紀是広が7歳で亡くなった子を弔うために七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊)を建立した事から、これに因んで七寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍は仁和3年(887年)の水害や天慶4年(941年)の兵火により荒廃したが、仁安2年(1167年)、勝幡城城主・尾張権守大中臣朝臣安長が娘の菩提を弔うため、婿であった豊後守親実と共に計らって寺を現在の稲沢市七ツ寺町に移し、七堂伽藍と十二僧坊も再建した。安長は安元元年(1175年)から治承2年(1178年)に掛けて一切経を書写させると共に、阿弥陀如来像と観音菩薩・勢至菩薩像を奉納し、寺の名を稲園山長福寺と改めたが、安長が建立した寺塔のほとんどは建武年間の戦火で焼失した。天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命を受けた清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に寺を移して本堂を再建。慶長16年(1611年)、徳川家康の清洲越しの命によって現在地に移転されるに当たって本堂が清洲から移築。かつて失われた諸堂も再建された。元禄13年(1700年)には尾張藩二代藩主徳川光友により三重塔が再建され、享保15年(1730年)より尾張徳川家の祈願所となった。境内には芝居小屋が建ち並び、当時の大須界隈にあっては大須観音や名古屋御坊(西本願寺)を凌ぐ寺勢を誇ったとも伝わる。明治12年(1879年)、総本山智積院の末寺となり、明治44年(1911年)には準別格本山に昇格したが、昭和20年(1945年)3月19日の名古屋大空襲で本堂、三重塔など経蔵以外の七堂伽藍全てを焼失。境内のほとんどは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、現在では街中にある小さな寺の様相となっている。
出典:wikipedia
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