モンテ・アーヴィン(Montford Merrill "Monte" Irvin, 1919年2月25日 - 2016年1月11日)は、1930 - 1950年代にアメリカ合衆国 ・アラバマ州生まれのニグロリーグ、及びMLBで活躍していたプロ野球選手。ポジションは遊撃手、後に外野手。右投右打。アーヴィンはニュージャージー州の高校で4種目のスポーツをこなし、やり投でニュージャージーの州記録を作ったこともある。高校卒業後ペンシルベニア州のリンカーン大学に通っていたが、同じ年にニグロリーグのニューアーク・イーグルスに遊撃手として入団する。入団当時は『ジミー・ネルソン』という偽名を使ってプレーし、大学にも通い続けていたという。イーグルスでは当時の監督だったウィリー・ウェルズの指導の下で遊撃手としての技術を磨き、1940年と1941年にニグロリーグ東西オールスター戦にも出場するほどに成長する。また攻撃面でも非凡なところを見せており、1940年と1941年のニグロリーグでの打率はそれぞれ.422と.396を記録した。1941年、アーヴィンはイーグルスと月165ドルの契約をしていたが、更に25ドルの昇給を求めたのをオーナーのエファ・マンリーが断ったのをきっかけに、この年のオフにメキシコリーグに参加、68試合で30本塁打、打率.398で打点もあわせてリーグの三冠王となり、最優秀選手として表彰されている。1943年からは約3年間第二次世界大戦に出兵し陸軍に従軍、復帰後の1945年冬にプエルトリコのウィンターリーグに参加し、同年の最優秀選手となっている。ニグロリーグに復帰した1946年には打率.401で自身二度目の首位打者を獲得、この年のカンザスシティ・モナークスとのニグロ・ワールドシリーズを制覇する原動力となった。ニグロリーグのオールスターゲームには1948年までで計5回(1940年、1941年、1946年 - 1948年)出場している。前後するが、アーヴィンは1945年に当時ブルックリン・ドジャーズの経営者だったブランチ・リッキーから入団契約の誘いを受けたことがあったが、自分はまだそのレベルにないとしてその誘いを一度断っている。しかし『カラーライン』が破られた1948年のシーズンオフにキューバでのウィンターリーグに参加した後、ニューヨーク・ジャイアンツが5,000ドルの契約金を支払い、アーヴィンはメジャーリーグ入りを果たすことになる。アーヴィンは1949年の7月8日にメジャーリーグにデビューする。メジャーリーグ3年目の1951年に151試合に出場し打率.312、121打点でこの年のナショナルリーグ打点王を獲得、ジャイアンツのリーグ制覇に貢献し、また自身も最優秀選手の投票でリーグ3位となった。ワールドシリーズではヤンキースに2勝4敗と敗れたものの、アーヴィンは6試合で24打数11安打の活躍をした。翌1952年にはメジャーリーグのオールスターゲームにも出場を果たしている。ジャイアンツには7年在籍し、1956年にシカゴ・カブスでプレーしたのを最後に現役を引退した。引退後、1967年から2年間ニューヨーク・メッツのスカウトとして働き、その後1984年までメジャーリーグのコミッショナー事務局に勤め渉外を担当していた。1973年にニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入りし、以後ベテランズ委員会の委員としてアフリカ系アメリカ人野球選手の認知活動を続けている。2010年5月26日、古巣ジャイアンツはアーヴィンの背番号20をチーム11番目の永久欠番に指定した。2016年1月11日、死去。。
出典:wikipedia
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