鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦いである。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、国内の不安定化が進む中、薩摩藩は有力諸侯による合議態勢を模索するが、江戸幕府・関係諸藩との見解の一致は困難であった。武士階級は上位者に判断を委ねる構造で安定してきた為、余程の事態にならない限り、自身の職責の埒外を公然と論じる事はおろか、知ること、考える事ですら、ともすれば悪徳となっていた。宗家、親藩、譜代にとっては、特に従前の組織の運営と維持が義務であり美徳であった。一方、外様で体制の末端におかれた下級武士の間では国学が流行しつつ有った。彼らは当初攘夷論を唱え、危機にあたって対応できない幕府への危機感を募らせた。しかし国学はイデオロギーに過ぎず、西洋諸国に対する客観的な状況を示すものではなく、夢想的な攘夷論が流行した。西国においては洋学に明るい者が幕藩体制の変革を訴え始め、幕府は安政5年から6年(1858年 - 1859年)にかけてこれを弾圧した(安政の大獄)が、万延元年(1860年)に主導者の大老井伊直弼が大獄の反動で暗殺され(桜田門外の変)、幕府の権威は失墜した。やがて国内の不安を背景に朝廷は政争の舞台となり、京都では攘夷派による天誅と称する幕府関係者への暗殺が横行するようになる。幕府は徳川系の親藩で大きな武力を持つ会津藩・桑名藩などに命じてこれを厳しく取り締まったが、これは安政の大獄と同じく、対症療法に過ぎなかった。当初、過激な尊王攘夷論を背景に幕府と鋭く対立していた長州藩は元治元年(1864年)に勃発した禁門の変と下関戦争での完敗と幕府による第一次長州征討を経て、それまで失脚していた俗論派(佐幕派)に藩の実権が渡った。しかし、挙兵した正義派(倒幕派)が翌慶応元年(1865年)の元治の内乱で俗論派を打倒し、藩論を尊王倒幕の方向で一致させる。それを見た幕府は慶応2年(1866年)に第二次長州征討を行うも、敗北を重ねて失敗に終わった。この長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒し、幕府の威信を大きく低下させた。一方、文治3年(1863年)に薩英戦争で挙藩一致を見た薩摩藩は、四侯会議が失敗すると、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、徳川家を排除した新政権の樹立へと方針を転換するようになる。対して幕府の主要な構成層には未だに情勢に明るいものが殆どおらず、意思統一は困難であった。大半の幕臣にとって、大政奉還こそが初めて自身に降りかかった火の粉となった。慶応3年(1867年)10月13日、公武合体の考えを捨てた下級公家の岩倉具視らの働きかけにより、倒幕及び会津桑名討伐の密勅が下る。この動きに対し、翌14日、かねてより元土佐藩主山内容堂より建白の有った15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上表した。これは薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている(公議政体論)。外交能力を保たない朝廷は慶喜に引き続きこれを委任、思惑は成功したかに見えたが、諸国の大名が様子見をして上京しないまま諸侯会議は開かれず、旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。そして、在京の旧幕府配下の諸軍から見れば、倒幕派は長年取り締まってきた宿敵であり、それに敗北することは破滅を意味した。いずれにせよ、大政奉還により幕府が消滅したことで倒幕の大義名分は消失し、京都においても旧幕府の武力は健在な儘となった。これに対し、薩摩藩士大久保利通や岩倉具視らは12月9日に王政復古の大号令を発し、前将軍慶喜に対し辞官納地を命じた。翌10日、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能と返答した。旧幕府の退勢を知らない主戦派の暴走を懸念した慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12日深夜には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、翌13日に大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入った後慶喜からの連絡が途絶えた。23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度春嶽と慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた。先の10月13日及び14日の討幕の密勅は江戸の薩摩邸にも伝わり、討幕挙兵の準備と工作活動が行われていたが、直後の大政奉還で、21日に討幕の密勅が取り消される。その討幕挙兵中止命令と工作中止の命は江戸の薩摩邸にも届いたが、動き出した攘夷討幕派浪人を止めることはできずにいた。度重なる騒乱行動を起こした攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸は匿っていたために12月25日に庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。28日にこの報が大阪に届くと、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まった。慶応4年(1868年)元日、慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府軍の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津(滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着しているが、揃えられた兵力はわずか50名であった。3日(1月27日)、朝廷では緊急会議が召集された。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。3日夕方には、下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽方面での銃声が聞こえると伏見(御香宮)でも衝突、戦端が開かれた。この時の京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れ、奉行所は炎上した。一方、旧幕府軍では伊勢方面から京都に向けて援軍として騎兵1個中隊と砲兵1個大隊が発進していたが、3日夜になって大津に潜入していた偵察から既に大津には新政府軍が入っているとの報告が入った。これは大村藩兵50名のことであったが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が結集していると誤認して大津から京都を目指す事を断念し、石部宿から伊賀街道を経由して大坂に向かうことになった。4日になると、朝廷から改めて命令を受けた佐土原藩・岡山藩・徳島藩の兵が大津に入り、彦根藩もこれに合流した。これによって5藩合わせて700名となり、6日は更に鳥取藩兵と参謀役の木梨精一郎(長州藩)を大津に派遣するも、新政府側が危惧したこの方面からの旧幕府軍の侵攻は発生しなかった。近江方面の戦況について、大久保は5日付の蓑田伝兵衛宛の書状で、井伊直弼などを輩出した譜代の大藩である彦根藩の旧幕府からの離反に皮肉を込めつつも、彦根藩が味方に付いたことで背後(近江側)の不安がなくなり、旧幕府軍支配下の大坂から京都への物資の流入が止まったとしても、近江から京都への兵糧米の確保が可能になったと記している。また、東久世通禧も後になって大村藩が素早く大津を押さえたことで、旧幕府軍からの京都侵攻とこの戦いで未だに態度を決しかねていた諸藩部隊の新政府からの離反を防いだこと、同藩が大津にある彦根藩の米蔵にある米の新政府への借上げを交渉したことなどをあげて、大村藩の功労が格別であったことを述べている。翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、指揮官の佐久間信久らの相次ぐ戦死など新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退した。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走した。また同日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦旗を与え、新政府軍がいわゆる官軍となる。なお錦旗となる旗は岩倉と薩摩藩が事前に作成しており、戦闘の際にその使用許可を朝廷に求めた事から「薩長が錦旗を偽造した」とする説もある。しかし、朝廷の許可を得て掲げられた事は確かであり、天皇の許可を経たのかは定かではないが、朝廷はその旗を錦の御旗と認めている。5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃した。一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、4日朝までとは異なり城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ(ただし、藩主である正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒絶された旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退し、旧幕府軍の負傷者・戦死者は長円寺へ運ばれた。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。しかし、対岸の大山崎や高浜台場を守備していた津藩が朝廷に従い、旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。また、この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(後に死亡)を負ったとされる。6日、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。際して会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが長輝にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。2月には東征軍が進軍を開始する。多数であった筈の旧幕府軍の敗北について、井上清は「幕府陸軍を除く幕府方諸藩の兵が旧式劣悪であったこと」「旧幕府軍も新政府軍も依然として身分制軍隊であったが後者の方が軍制改革が進んでいたこと」「旧幕府兵には農民からの強制徴集者や江戸の失業者などの貧困層(市儈遊手の徒)が多く士気が低かったこと」「新政府軍に対する民衆の支持」を4点を挙げている。石井孝は井上の最後の「民衆の支持」に対しては否定するとともに、新政府軍の火力の充実と旧幕府軍の兵士の技量の低さを最大の要因とする。一方、大山柏も火力の差が原因であることは井上と同様であるが、その原因を旧幕府軍の指揮官の火力に関する知識の低さに求めている。水谷憲二はこれらの見解に一定の評価を与えながらも、新政府軍が早い段階で江戸など東日本との交通・物流の要所である近江国大津を掌握して京都に向かう旧幕府軍への援軍・物資の動きを阻害しただけでなく、新政府軍の兵站を確保できた重要性を指摘している。旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗れたが、これは新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい。両軍の損害は明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』によると新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれている。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。
出典:wikipedia
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