初代 桂 文治(かつら ぶんじ、安永2年(1773年)(逆算)- 文化12年11月29日(1815年12月29日))は落語家。本名伊丹屋惣兵衛(宗兵衛とも)。息子は同じく落語家2代目桂文治。元々玄人が演じる上方落語は、大道や社寺の境内において簡素な小屋を掛けて演じていたが、文治は坐摩神社境内に、初めて常打寄席を開いて興行したとされる。上方落語中興の祖であると共に、寄席の開祖でもある。京都の人とも、柴島(大阪市東淀川区)の人とも、大和葛城の人とも諸説伝わる。『攝陽奇觀』によれば、京都出身噺家初代松田彌助の弟子であったという。活動開始期間は寛政6年(1794年)ころからとされ、当時盛んであった素人による座敷での素噺に対抗して、鳴物入り、道具入りの芝居噺を創作し、得意としていた。一方、素噺の方も「情深くして実あり」と評され、名人であったことを伺える。現在でも演じられる『蛸芝居』、『昆布巻芝居』、『崇徳院』、『龍田川(千早振る)』、『口合小町』、『反故染』、『滑稽清水』は文治の作とも言われる。他にも『尽くしもの』、『女夫喧嘩』と関する一連の噺が得意演目であったと言う。多数の門人を擁していたが、特に桂文來、桂文東、桂磯勢(破門となり、月亭生瀬と改名)、桂力造、初代桂文吾の5人が高弟であったという。他にも桂北桂舎(「桂文景」から改名)、桂里壽、2代目文治を継いだ実子の文吉らがいる。1815年巡業先の三重県四日市で死去。享年43(通説あり)。法名釋空海。墓地は同地仏性院にある。著書には『おかしいはなし』(松田彌助共著)、『桂の花』(桂文公共著)、『臍の宿かえ』(1812年刊)等がある。なお、淺山蘆國の描いた肖像が、著書『臍の宿かえ』に載せられている。息子が2代目文治で、長女・幸は壽遊亭扇松の妻で扇松没後は弟子の江戸芝金杉出身・扇勇の後妻となり江戸で扇勇が3代目文治を襲名した。以降東西で文治の名は分かれた。
出典:wikipedia
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