松平 康豊(まつだいら やすとよ)は、石見浜田藩の第4代藩主。松井松平家5代。分家の松平康郷(和泉岸和田藩主松平康重の五男康敬の子)の長男として生まれる。宝永6年(1709年)4月6日、書院番士に任じられる。この頃、本家では第3代藩主の松平康員が病弱であり、養子の康房も早世して嗣子がなかったため、分家内部で後継者をめぐって内紛が起こった結果、8月2日に康員の養子となった。9月18日に康員の隠居にともない家督を継ぎ、従五位下・周防守に叙位・任官した。家督相続後、自分を支持した岡田竹右衛門らを登用し、反対派を徹底的に粛清した。享保元年(1716年)、凶作が原因で一揆が起こり、結果として「春定」という課税法を停止せざるを得なくなった。その後も天災が相次いでは救済に追われ、また鏡山事件も起こるなどして藩は混乱した。享保20年(1735年)12月5日に死去、享年51。跡を長男の康福が継いだ。
出典:wikipedia
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