那珂遺跡群(なかいせきぐん)は、福岡平野の中央部、福岡県福岡市博多区にある遺跡群で、那珂川と御笠川に挟まれた洪積台地上に立地する旧石器時代から中世におよぶ複合遺跡である。福岡市指定史跡。丘陵北側には比恵遺跡があり、隣接することから比恵・那珂遺跡群と総称されることもある。福岡平野のほぼ中心部、東西を那珂川と御笠川に挟まれた標高約10mの洪積台地上に分布する。南東側約1.5kmには最初期の水田稲作集落と環濠集落である板付遺跡、南側約3.0kmには『魏志倭人伝』に登場する奴国の中心部であったとされる須玖岡本遺跡などがある。旧石器時代の黒曜石製の打製石器が出土しており、既に丘陵上が人類の活動領域になっていたことが示されている。縄文時代の遺構や遺物は殆ど発見されていない。弥生時代早期(縄文時代晩期末葉)に台地端部の数カ所に集落が形成され始め、遺跡の南端では日本最古級(弥生時代初期、紀元前5-4世紀頃)の環濠が見つかっている。正円に近い二重の環濠が居住区を囲んでいる。環濠の外径は約150mで、外側の濠は幅5-6m、深さ2m程である。前期以降、次第に集落の規模を拡大する。朝鮮半島産の鋳造鉄斧が出土しており、舶載の鋳造鉄器の破片を整形研磨して鉄器を再生産していたと考えられている。吉野ヶ里遺跡、九州大学筑紫キャンパス内遺跡に次いで3例目となる巴形銅器の鋳型が出土している。鋳型に彫られた巴形銅器は、江戸時代に福岡藩の学者青柳種信が、現在の糸島市井原で出土したと記録した巴形銅器に酷似しており、奴国と伊都国の関係が示唆される。弥生時代中期(紀元前4世紀末~1世紀中頃)には福岡平野の拠点集落の一つに成長する。撥型の前方部、三角縁神獣鏡の出土など、初期古墳の特徴を持つ那珂八幡古墳をはじめ、東光寺剣塚古墳、剣塚北古墳などの前方後円墳が築造される。古墳時代初期以降、丘陵上に大規模な集落が存在したとみられている。2007年3月、3世紀頃とみられる幅7mの道路が100mにわたって確認された。道の両側には幅70cm、深さ60cmの溝が設けられ、比恵遺跡群他十数か所でも同様の遺構が確認されており、約1.5kmの直線道路の整備が行われていたとみられる。遺跡各地で瓦が出土し、竹下駅東側を中心に柵列や規則正しく並んだ掘立柱建物が検出されていることから、那珂郡の役所があったと考えられる。井戸や屋敷など、一般村落の遺構が中心となる。室町時代後期になると濠を巡らせた屋敷が多くなり、戦乱に対応した防御的性格を帯びたことが分かっている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。