学生帽(がくせいぼう)とは、学校に在籍する児童、生徒、学生が被る帽子で、通常は男子用のものを指す。省略形は学帽。その学校で定められている形式を意味する場合には制帽とも呼ばれる。なお、現代の小学生が通学などの際にかぶる黄色い帽子は、通学帽と呼ばれる。学生帽を最初に導入した例としては、開成学校が、1873年(明治6年)に制定したことが挙げられる。大学の角帽は東京大学(旧制)が1886年(明治19年)に定めたのが始まりと伝えられている。もっとも明治時代前期は、学校教育制度の試行錯誤が続いており、その過程で様々な制服・制帽が現れた。東京美術学校では、1889年に闕腋袍と冠よりなる、奈良時代の役人の服制を参考にしたという復古主義的な服装が考案され、工部大学校では、船底形で庇のない、グレンガリー帽と呼ばれるスコットランド発祥の帽子が採用された。近代の初期で洋服が高価だった頃は、制帽を制服より先に定める学校が多く、生徒の格好は、着物と袴姿に洋式の学生帽を合わせるというのが多かったが、近代化の進展と共に洋服が普及するにつれて、学生帽と学生服は学生・生徒の象徴として定着していく。なお、旧制の高等教育機関では、旧制高等学校・大学予科が2条または3条の白線を巻いた丸帽、大学本科(学部)・大学専門部・旧制医学専門学校が角帽、旧制専門学校・一部の私立大学予科が黒蛇腹巻き丸帽をよく用いていた(法令などで決められていた訳ではなく、各校の規則で決まっていたが、概ね以上のように分かれていた)。大正期以降にはソフト帽を制帽に指定した学校も登場したが、第二次世界大戦や太平洋戦争の激化により、物資の統制が厳しくなると、男子学生・生徒の服装は国民服に戦闘帽というスタイルが終戦まで続いた。戦後、経済の復興によって学生服や学生帽も再び普及し、小学校から大学まで広く着用されていたが、社会人も含めた帽子着用の習慣が廃れるに伴い、校則等による定めのない学校、特に大学においては昭和40年代ごろから殆ど着用されなくなった。また、小学校では通学帽が広まったこと、高等学校や中学校においては生徒の頭髪や制服が自由化されていく中で徐々に廃れていったことなどの要因が重なり、現在では通学の際に着帽を義務付ける(=制定されている)学校は全国的にもごく少数のみとなっている。日本の学生帽は、革またはビニール製のつばと顎紐(あごひも)を設け、前面には校章を打ち出した帽章を付ける形が一般的である。大別して、天井の形が丸い丸帽と、四角形をなす角帽がある。素材は黒のラシャ地が多いが、少数ながら例外もある。夏季には白の覆い布を被せる場合もある。小学生から高校生までの間で広く着用されたタイプである。天井の縁を平滑に仕上げた一高型や、逆に波打たせた形にする三高型などのバリエーションが存在する。慶應義塾では、詰襟制服を指定する学校(普通部、日吉・志木高校、大学)に、塾帽と呼ばれる独自の丸帽を合わせて定めている。角帽の4つの角は、哲学・法学・天文学・薬学を表している。東京大学から全国の大学に広まった結果、一般に大学生の着用するものとされ、転じて大学生を指す語としても使われた。東京大学で定められた規格は帝大型の名で呼ばれ、他大学の角帽もこれに準じた形が多い。一方早稲田大学・同志社大学で用いられる角帽は、生地の裁断や縫製が帝大型と違い、仕上がりは四角形の角がより鋭く、天井が平らになることから、座布団帽のあだ名が付く。帽子の天井の縁を波打たせたり、腰に白線や蛇腹織布を巻いたりするなどの、学校・帽子店・地域ごとの違いが数多くある。例えば熊本県立済々黌高等学校の制帽の腰には、黄色の線が1本入る。長期間の使用を経ると、当然ながら帽子も服のように生地が擦り切れ、ほころびが出て、形が崩れていくが、これを特に新調もせず、ぼろぼろになった制服と共に着続ける慣習が旧制高等学校の学生を中心にして行われた(バンカラ)。弊衣破帽とも呼ばれるこの行為は、質実剛健など、身なりに執着せずに学業その他に没頭する学生の心意気を積極的にアピールするものでもあった。バンカラの風潮が高まると、時に新品の学生帽も年季の入ったものに見せるよう、意図的に傷めつけることが一部の学生の間で施された。正当な行為ではないため、傷め加工の方法は伝承によるところが多く、多様であるが、順序の例を以下に挙げる。
出典:wikipedia
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