LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

FIAT2000

FIAT2000 は、イタリアの重戦車で、イタリアが開発した最初の戦車である。1917年にフィアットにより計画され、1917年に1輌、1918年に1輌の計2輌が試作された。開発にはフランスから購入したシュナイダーCA1が参考にされた。2輌の試作車両の完成は砲塔の形状やハッチの配置、装甲の配置の検討などのために延期されていった。50輌が発注されたが、量産はなされなかった。2輌目の試作車は、1934年の時点では前方2つの機関銃を37 mm砲に換装していた。40トンもの重量は、ドイツのの150トン以上を例外とすれば、第一次世界大戦中に量産された戦車の中では最も重い車両となる。台形の車体を持ち、車体前面中央部には曲面の張り出しがあり、ここに操縦席がある。張り出し部分には操縦手用の視察窓を備えていた。装甲厚は前面20 mm 、側面15 mm である。車体上面には旋回式の単砲塔を備える。砲塔はプロトタイプは円錐台状の、1918年型は半球状の形状をしていた。砲塔には1913年型17口径65 mm 砲(山砲・歩兵砲)を備えていた。車体全周を囲むように機関銃が配置されており、車体の四隅と中央部左右、及び車体後面の7箇所にフィアット レベリ M1914 6.5 mm 重機関銃が装備された。エンジン及び変速装置は床下に収められている。車体後部に配置されたエンジンはフィアット・アヴィアツィオーネ(Fiat Aviazione)社の航空機用の水冷直列6気筒ガソリンエンジン 「A.12」を転用した。プロペラシャフトを通じて後部のエンジンから操縦席直下の変速装置に動力を伝達する。懸架装置は2つの車輪を持つリーフ式サスペンション付ボギー式を片側4組備え、この他に最前部/後部のボギーと起動輪及び誘導輪の間にそれぞれ1個の補助転輪があった。FIAT2000は2輌の試作のみで本格量産されず、試作車の完成後程なく第1次世界大戦が終了してしまったために、実戦にも参加していない。唯一の活躍は、1919年にFIAT2000 2輌とルノー FT-17 3輌で構成された第1突撃自動車中隊がトリポリタニアに派遣され、ミスラータ地区でのリビア反抗組織に対する政治行動として「攻撃車両による自立戦闘」を行ったことである。しかし、FIAT2000はその最大6km/hという走行速度の遅さから、「迅速な作戦行動に向かない」「快速な軽戦車と行動を共にできない」と不評で、わずか2ヶ月で戦線から引き揚げられている。その後、2輌のうち1輌はトリポリの商工会議所警護のための“移動トーチカ”として用いられ、もう1輌はイタリア本国に戻され、1919年4月1日にはローマにて国王列席の下で障害物踏破のデモンストレーションを行った。このデモンストレーションではそれなりの結果を示したものの、列席者の大きな興味を惹くことはできず、量産発注が復活することもなかった。リビアでの運用結果から、本車は「その重装甲・重武装は満足できるものではあるが、あまりにも重すぎ、山岳の多いイタリア本国や南ヨーロッパ地域での運用にも不向きであろう」と結論され、これはイタリア軍が以後機甲部隊を整備するにあたって軽量級の戦車を重視する一因となった。イタリア本国に引き揚げられた車輌は、1924年以後は第8重砲兵連隊の所属とされつつ、戦車開発に関するテストに時折用いられたのみで、予備兵器として保管されていたが、1934年には軍事パレードに出場させるために再整備され、前部左右角の機銃を40口径37 mm 半自動砲に換装してパレードに登場している。FIAT2000が最後にその存在を示したのは1936年のコッラード・マッツォーニ兵舎(ボローニャ)においてであり、当地に駐屯した第3戦車歩兵連隊において記念碑として展示された。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。