伊号第百二十二潜水艦(いごうだいひゃくにじゅうにせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦。伊百二十一型潜水艦の2番艦。竣工時の艦名は伊号第二十二潜水艦(初代)。1945年日本海において米潜水艦の攻撃で沈没した。1921年(大正12年)の大正12年度艦艇補充計画で第四十九潜水艦として計画された。1924年(大正13年)11月1日に艦名を伊号第二十二潜水艦に変更。神戸川崎造船所で1925年2月28日起工、1926年11月8日進水、1927年10月28日に竣工した。呉鎮守府籍。1927年11月1日、横須賀鎮守府横須賀防備隊第9潜水隊に編入。1931年10月15日、呉鎮守府第13潜水隊に編入。1932年10月1日、第13潜水隊は呉防備隊に編入。1935年11月15日、第13潜水隊は呉防備戦隊に編入。1937年12月1日、第13潜水隊は第四艦隊第3潜水戦隊に編入。1938年(昭和13年)6月1日に艦名を伊号第百二十二潜水艦に変更。1940年5月1日、第13潜水隊は第5潜水戦隊に編入。1941年5月1日、第13潜水隊は第三艦隊第6潜水戦隊に編入。太平洋戦争開戦時には第三艦隊第6潜水戦隊第13潜水隊に所属。1941年11月、横須賀を出港して海南島三亜に寄港。12月1日、三亜を出撃。7日にシンガポール北東海域に機雷42個を敷設し、ジョホール海峡東方入口を哨戒する。この時敷設した機雷で蘭潜K-XVIIと同O-16を撃沈している。14日、伊122はカムラン湾に到着。18日、カムラン湾を出港し、26日にダバオに到着。1942年1月5日、伊122はダバオを出港し、15日にトレス海峡西で機雷30個を敷設。20日からは、ダーウィン沖のダンダス海峡方面の哨戒を行う。30日、ダバオに到着。2月9日、伊122はダバオを出港し、トレス海峡西方に進出して気象通報に従事する。28日、スターリング湾に到着。3月10日、第13潜水隊は連合艦隊付属となる。同日、スターリング湾を出港し、21日に呉に帰投して整備を受ける。この時、K作戦の支援のため、機雷庫と敷設筒をガソリンタンクに改造する。4月10日、第13潜水隊は第六艦隊指揮下となる。5月13日、伊122は呉を出港し、23日にクェゼリンに到着した後、第2次K作戦の支援のためにクェゼリンを出港してフレンチフリゲート礁に向かう。しかし、伊122がフレンチフリゲート礁に到着する前に作戦は中止され、6月25日にクェゼリンに寄港した後、横須賀に戻った。7月14日、第13潜水隊は第八艦隊第7潜水戦隊に編入される。16日、伊122は横須賀を出港し、24日にトラックに到着。31日にトラックを出港し、8月4日にラバウルに到着。7日にラバウルを出港し、ガダルカナル島方面に向かう。9日、ルンガ岬沖に到達し、偵察を行う。13日1730、ツラギ島南西1.6浬地点付近にて浮上し、戦闘旗を司令塔に掲揚して日本軍の士気を上げようとしたが、すでにツラギ島は8日に米軍に占領されており、陸上からの砲撃を受けて潜航退避した。15日、サンタクルーズ諸島を偵察。9月7日、ラバウルに到着。9日、伊122はラバウルを出港し、インディスペンサブル礁に向かう。14日、インディスペンサブル礁に到着し、千歳から発進した零式水上偵察機への給油に従事する。20日、インディスペンサブル礁を出港。25日、米水上機を発見し、対空戦闘を行ってこれを撃墜。脱出した搭乗員を捕虜とした。同日、ラバウルに到着して整備を受ける。10月21日、伊122はラバウルを出港し、26日にインディスペンサブル礁に到着して水上機への給油に従事。27日、インディスペンサブル礁を出港してガダルカナル島西方に向かう。11月6日0615、マライタ島南西沖合で輸送船3、巡洋艦1、駆逐艦5で構成された米輸送船団を発見。攻撃を仕掛けるも逆に船団の護衛艦に発見され、退避。8日、インディスペンサブル礁に到着し、再度水上機への給油に従事。12日にインディスペンサブル礁を出港。16日にラバウルに寄港し、20日にトラックに到着。27日にトラックを出港し、12月5日に呉に到着して整備を行った。整備完了後、佐伯に移動する。1943年3月14日、伊122は佐伯を出港し、25日にラバウルに到着。27日、輸送物資を搭載してラバウルを出港し、30日にラエに到着して輸送物資を降ろした後出港。4月2日にラバウルに到着。15日、第7潜水戦隊は南東方面艦隊に編入される。同日、伊122は食糧等23.5トンを積んでラバウルを出港し、18日にラエに到着して輸送物資を降ろした後、陸軍戦病者15名を収容して出港。20日にラバウルに到着した。その後もラエ輸送に4回従事する。5月31日、第13潜水隊の解隊に伴い、伊122は第7潜水戦隊直属となる。その後、伊122はラエ輸送に5回従事する。8月15日、第7潜水戦隊の解隊に伴い、伊122は呉鎮守府付属となる。19日、伊122はラバウルを出港し、呉に向かう。25日、伊122は呉防備戦隊第18潜水隊に編入される。9月1日、伊122は呉に到着。以後は練習潜水艦となった。1944年1月31日、第18潜水隊の解隊に伴い、伊121は第19潜水隊に編入される。1945年4月20日、第19潜水隊の解隊に伴い、伊121は呉潜水戦隊第33潜水隊に編入される。1945年6月4日、伊122は舞鶴に回航される。9日に舞鶴を出港し七尾湾に向かった。10日1120、石川県禄剛岬灯台付近で15ノットで浮上航走中、バーニー作戦により日本海に侵入した米潜水艦スケートに発見される。スケートは、ジグザグ航行中の潜水艦を伊121型潜水艦と正しく識別した。伊122はスケートに横腹を見せる形で航行していた。1144、スケートはわすか720メートルほどの距離から魚雷4本を発射。うち2本が伊122の中央部に命中。伊122は火災を起こして沈没した。5分後、スケートは伊122の船体が破壊される音を聴取し、大きな気泡と重油が浮かび上がるのを目撃した。日本側でも、禄剛岬灯台監視所が沈没する伊122を目撃したが、当初は艦内に搭載された魚雷が爆発したことが原因だろうと判断した。1510、穴水基地から発進した631空所属の晴嵐が生存者捜索のために現場海域に飛来し、スケートはその機体を発見しているが、晴嵐はスケートを発見できなかったうえ、生存者も見つけることができなかった。艦長の三原荘作大尉以下乗員85名全員戦死。沈没地点は、石川県禄剛岬灯台南東6浬地点付近、。終戦後の1945年9月15日に除籍された。撃沈総数は2隻で、撃沈トン数は1,849トンである。*予備艦時代の艦長は省略
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。