アンナ・メイ・ウォン(Anna May Wong、本名:Wong Liu Tsong、中国名:黃柳霜、ピン音:Huáng Liǔshuāng、1905年1月3日 - 1961年2月2日)は、ハリウッドで有名になった初の中国系アメリカ人女優である。エキゾチックな美貌で、“チャイニーズ・ヴァンプ”として人気を博し、ヨーロッパでも活躍した。ウォンは中国系の3世として、ロサンゼルスのチャイナタウンに生まれた。父親はクリーニング業者である。1919年、14歳の時に『紅燈祭』のエキストラで映画初出演。1922年の『恋の睡蓮』で16歳にして初主演を果たした。1924年、『バグダッドの盗賊』でダグラス・フェアバンクスと上山草人と共演し、エキゾティックな悪女を演じて一躍有名になった。ウォンはその後、悪女、妖婦、メイド、売春婦、女奴隷等々、妖艶でミステリアスな東洋人女性を演じ、脇役ではあったが立て続けに映画に出演した。しかし、似たような役柄しか与えられないことに次第に苛立つようになった。これは、当時の東洋人に対するイメージや偏見に加えて法の存在もあった。ウォンの一家は1855年からカリフォルニアに在住していたにも関わらず、法の上では「外国人」に位置づけられていた。カリフォルニアでは1948年まで、異種族の結婚や関係を禁止する法律があった(1934年からは、MPAAによって定められた映画製作倫理規定(ヘイズ・コード)でも、異種族間の恋愛や性的誘惑の描写が禁止された)。これにより、ウォンの演じられる役柄は、非常に限られたものしか無かった。一方で、当時の中国系アメリカ人社会は、ウォンの女優という職業と、演じる役柄に非難の目を向けた。ハリウッドでは外国人として扱われ、同胞からは異分子と見られ、ウォンはますます苦悩を深めていった。1928年、23歳のウォンはヨーロッパに渡った。猛レッスンの末、ドイツ語もフランス語もマスターし、映画や舞台で華々しく活躍。社交界でももてはやされる存在となり、1929年にはイギリス映画『ピカデリー』で大成功を収めた。1930年、凱旋帰国したウォンは、ブロードウェイの舞台に立って喝采を浴び、続いて意気揚々とハリウッドに戻った。ところが、ハリウッドで待っていたのは、以前と変わらない扱いだった。失望したウォンはヨーロッパに戻った。その後は、ハリウッドでマレーネ・ディートリヒと共演した『上海特急』他、何本かの映画を除いては、ブロードウェイとヨーロッパでの活動を中心とした。1930年代半ば、ヨーロッパでは日増しに戦争が色濃く影を落とし始めた。ウォンは戦争の気配から逃れるように帰国し、ハリウッドに戻った。しかしハリウッドにウォンの活躍の場は最早なかった。1930年代後半、ウォンは映画界での限界を感じ、中国系の血統や容姿が関係しないラジオ番組に出演するようになった。1942年、ウォンは37歳の若さで映画界から引退した。彼女には幾人かの愛人がおり、その中には映画監督のマーシャル・ニーランも含まれていたと伝えられている。しかし、白人との結婚は法で禁じられ、当時の中国人男性からは結婚相手には相応しくないと敬遠された。キャリアの終焉と孤独の中で、ウォンは一時期荒れ、アルコールに溺れた時期もあるという。1949年、ウォンは映画『インパクト』の脇役で映画界に復帰した。役柄は引退以前と同じ、ステロタイプの東洋人女性だった。続く『黒い肖像』(1960)共々、似たような役柄が続き、ウォンは「また例の役よ」と苦笑いしたという。しかし、その次にウォンはついに、求めていた役柄と巡り会った。それは中国系アメリカ人の家庭を舞台にしたミュージカル映画『フラワー・ドラム・ソング』(1961年)の母親役だった。ウォンは興奮し、出演に向けて意気込んだ。ところが、出演が実現するかに思えた1961年、肝硬変を煩っていたウォンは、サンタモニカの自宅で心臓発作で急死した。56歳、終生独身だった。2003年から2004年にかけて、ウォンの生誕百周年に、彼女の伝記2冊と、女優としての足跡を記した本が出版された。ニューヨーク近代美術館とアメリカ映像博物館 (American Museum of the Moving Image) で、ウォンの映画の大々的な回顧展が開催された。また、ウォンは映画界への貢献が認められ、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに加えられた。
出典:wikipedia
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