コタキナバル () は、マレーシア・サバ州の州都で、東マレーシア(ボルネオ島のマレーシア領地域)で最大の都市、人口は約47万人。「コタキナバル」はマレーシア語で "Kota Kinabalu" と書くため、KK と略されることも多い。現在はサバ州の政治経済の中心であると共に、マリンリゾートやキナバル自然公園(キナバル山)への玄関口としても知られている。19世紀以前のこの地にはアピアピ(API-API、マレーシア語で火の意味)、または略称でアピと呼ばれる村落があった。北ボルネオ会社は沖合の(Pulau Gaya)に本拠地を置いていたが、に焼き打ちにあい、1899年アピアピに本拠を移した。アピアピの地名は焼き打ちを連想させるため、当時の北ボルネオ会社副会長の名前を取ってジェッセルトン (Jesselton) と改名された。以後における、イギリスによる植民地開発の拠点としてジェッセルトンの街は発展した。第二次世界大戦中の1942年から1945年まで日本軍の占領下に置かれ、この時期は旧称のアピを復活させた。この期間に抗日蜂起が起き、それに関与したとされる住民を日本軍が軍事裁判で処刑したアピ事件が発生している。1945年、連合国軍による空爆により町は壊滅的になった。1947年イギリス領北ボルネオの首都が、サンダカンからジェッセルトンへ移され、再び北ボルネオの中心地となった。1963年北ボルネオは、サワラク・マラヤ連邦・シンガポールと統合し、イギリスから独立した。北ボルネオはサバと改称し、1967年町名を植民地支配の名残を残すジェッセルトンから、近くにそびえるキナバル山にちなみ、コタキナバルと改称した。2000年に市に昇格した。マレーシア航空がコタキナバル国際空港と成田・羽田、関空間の直行便を運航していたが、2012年1月をもって一旦すべて運休となった。しかし同年10月より関西線のみ再開された。その後2013年10月より関西線が運休し、成田とコタキナバルの直行便が再開されている。コタキナバルでは人口、車保有台数の増加に伴い渋滞が増えている。またクアラルンプールに比べてラウンドアバウトなどが多いことも特徴となっており、これも渋滞の一つの原因とされている。ほぼ一年を通じて雨が多い気候だが、1月から4月は弱い乾季に当たる。コタキナバルはその自然を生かしたリゾートが点在している。
出典:wikipedia
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