チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson, 1921年11月3日 - 2003年8月30日)は、アメリカの俳優。ブロンソンはチャールズ・デニス・ブチンスキー(Charles Dennis Buchinsky, )として、1921年11月3日に、ペンシルベニア州エーレンフェルドでドルスキニンカイからのリトアニア移民家庭に15人兄弟の5男として生まれた。ブロンソンの母語はリトアニア語であった。彼はポーランド・リトアニア共和国内に定住したテュルク系のリプカ・タタール人の血筋を引き、その容貌のためアジア系またはメキシコ系やメスティーソのように思われた。そのため、ブロンソンは後にメキシコ人やインディアンの混血役をしばしば演じていた。炭坑夫の父はブロンソンが10歳の時に死去し、ブロンソンは兄たちと共に炭坑に入り、石炭を1トン掘るごとに1ドルを得た。伝えられるところによれば、家庭は大変貧しかったため、学校へは妹の服を借りて通ったという。エリック・プレストンによって書かれた伝記『"Charles Bronson: From West To Best"』では、アメリカの第二次世界大戦への参戦(1941年12月)後に徴兵されアメリカ陸軍航空隊に入ったとされるが、公式の記録では、1943年に陸軍航空隊を志願し、ボーイングB-29の射撃手として東京大空襲にも参加したとされる。第二次世界大戦終了後の1946年に軍を除隊。美術学校に入学する。ここで舞台の裏方となり、エキストラも経験し芝居に目覚めていく。1948年に友人と共にニューヨークに行き、本格的に演技を学ぶ。生活は苦しく、レンガ職人やウェイターをしながら舞台に端役として出演するようになる。その後、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のパサディナ・プレイハウスで本格的に演技を勉強する。1951年『The People Against O'Hara』で映画デビュー。当時は本名「Buchinsky」を名乗っていたが、その後「Buchinski」に改名。さらに冷戦を受けてハリウッドに「赤狩り旋風」が巻き起こったことから、当時共産主義圏であった東欧風の響きを持つ名前を避けて、映画『太鼓の響き』からチャールズ・ブロンソンを名乗るようになった。1958年の『機関銃(マシンガン)ケリー』で主役に抜擢された。さらに『荒野の七人』(1960年)や、 『大脱走』(1963年)などのヒット作に出演し、共に男臭い風貌と巧みな演技が人気を呼んで俳優としての地位を確立。その後の『さらば友よ』や『雨の訪問者』、『レッド・サン』などへの出演で押しも押されもせぬ国際映画スターの仲間入りを果たした。その後も独特の個性と演技力を活かして、アクション作品を中心に数多くの作品で主役や脇役を演じ活躍し高い評価を得た他、日本をはじめとする世界各国で複数のテレビCMにも出演し、高い人気を得た。私生活では、1949年、女優ハリエット・テンドラーと結婚したが、1967年に離婚。翌1968年、ジル・アイアランドと再婚して多数の作品で共演。1990年にジルが乳癌で亡くなりブロンソンも俳優業からの引退を宣言したが、後に復帰し、以降はテレビドラマを中心に活動した。1998年に"Family of Cops"シリーズで共演したキム・ウィークスと再婚。後年、アルツハイマー病を発症。病との闘いの末、2003年8月30日に肺炎で死去。。なお、死後の2004年に公開された『キル・ビル2』のエンドクレジットにはブロンソンを尊敬するクエンティン・タランティーノ監督により「R.I.P. Charles Bronson(チャールズ・ブロンソン。安らかに眠ってください)」との言葉が挿入されている。日本では、1970年に男性用化粧品メーカー「丹頂」の化粧品「マンダム」のテレビCM(大林宣彦演出)に出演し、一世を風靡した。撮影費は2000万円、ブロンソンへのギャラは3万ドル(約1000万円)であった。彼の起用を提案したのは、キャンペーンを担当した電通の西谷尚雄で、西谷はかねてから『大脱走』や『さらば友よ』などで個性的な脇役として存在感を示していたブロンソンに着目していた。男性用化粧品のCMといえばたくましいイメージからほど遠いヤサ男を起用して中性的な清潔感を打ち出すものが多かった中で、野性的な風貌のブロンソンを起用して泥臭いまでの男らしさを前面に押し出したのは逆転の発想であった。キャンペーンにあたったスタッフは当初周囲から猛批判を受けたという。撮影は、アリゾナ州の砂丘とユタ州のモニュメント・バレー、ならびに、ハリウッドのスタジオで行われた。ブロンソンは、「私の初主演映画だ」といい出演を快諾。泥水をかぶる場面も「これがアリゾナの水さ」と嘯いたという。CM中、ブロンソンは、モニュメント・バレー周辺の荒野を馬(白馬)に騎乗して駆け、カウボーイハットで河川の水を汲み頭から浴びる。そして顎を撫でながら一言「う〜ん、マンダム」。このセリフは日本中で大流行し、化粧品に縁のない幼い子供まで真似をするほどであった。当時ヒットしたCMソングは「男の世界」(歌:ジェリー・ウォレス)。マンダムの商品知名度は発売直後に98%に達した。丹頂は、1933年に整髪料「丹頂チック」を発売した男性用化粧品業界の老舗・大手であったが、1960年代にはライオンや資生堂の攻勢を受け、経営は危機に瀕していた。しかし「マンダム」の爆発的ヒットによって年商は2年で倍増し、危機を脱した。1971年に、丹頂は社名を「マンダム」に変更している。また、このCMは海外映画スターのCM起用の先駆けともなった。ブロンソンは、1980年まで「マンダム」シリーズのCMに出演した。拳銃捌きを披露するCMでは、ブロンソンは上手く撃てなくて、西部劇ファンで拳銃捌きの上手い大林宣彦がブロンソンに教えてファニングをやらせたという。なお、マンダム社はブロンソンの葬儀の際に献花をしている。映画界、マスコミ界に隠れたファンが存在する。1994年にはブロンソンの持つ男気に憧れた漫画家のみうらじゅんと俳優の田口トモロヲがユニット「ブロンソンズ」を結成、雑誌「STUDIO VOICE」で「ブロンソンに聞け」という連載を持ち、その後、連載をまとめた『ブロンソンならこう言うね〜マニア・カルト一生相談〜』を上梓した。その強烈な存在感から、多くの漫画家の作品にも登場している。手塚治虫の『ブラック・ジャック』などでもそのパロディキャラクターが登場し、『サザエさん』のようにブロンソンそのものが漫画のネタとなったエピソードもある。浜岡賢次の『浦安鉄筋家族』ではブロンソンのそっくりさんが登場人物として描かれており、『荒野の七人』出演時のジュリアーノ・ジェンマやジェームズ・コバーンのそっくりさんと共に何度も登場している。アニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』は西部劇へのオマージュ作品で、劇中に『荒野の七人』出演時のユル・ブリンナー等と共にブロンソンも登場するが、声の配役で『荒野の七人』テレビ放送当時に日本語吹き替えを行った小林修や大塚らがあらためて起用された。メジャーリーグの投手であるブロンソン・アローヨも、ファンだった父親がブロンソンのようなタフガイになってほしいとの願いで命名している。また『北斗の拳』の原作者である武論尊の名はブロンソンに由来している。
出典:wikipedia
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