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徽典館

徽典館(きてんかん)は、甲斐国(山梨県)の学問所。現在の山梨大学の前身。甲府城下町の中心となる甲府城郭内(甲府市丸の内一丁目)に設置され、四書五経を中心とする朱子学や政道論が教えられた。「徽典」とは「舜典」『書経』に由来する。所在する甲府市丸の内一丁目は甲府城ニノ堀で囲郭された郭内の武家地で甲府勤番士の屋敷が散在しているほか、西側には甲府勤番追手役宅、その南には薬園が所在している。徽典館の西には追手小路が通り、北側には甲府城追手門が所在し内堀で囲郭された内城に至る。近代には武家地が払い下げられ官公庁用地として開発され、徽典館の所在地には老舗旅館が開業している。近世甲斐国では江戸時代前期に甲府藩が設置され、甲府徳川家や柳沢氏など甲府藩主には文治主義を執り学問に親しんでいたが、歴代甲府藩主は在国することがなく国元における藩校の整備は遅れ、在番の武士階層では独学や私塾における教育が中心であった。享保9年(1724年)3月には、幕政における享保の改革に伴い甲府藩は廃藩となり甲斐一円は幕府直轄領化され、甲府城下町は甲府勤番支配による町方支配が行われ、城下には勤番支配2名と勤番士が在住した。江戸時代には商品経済の発達により教育を必要とする機運が高まり、天明年間には松平定信の寛政の改革により学問振興が行われ、こうした背景のもとで甲府城下においても本格的な教育機関として学問所の設立が実施された。徽典館の成立事情は明治16年の火災で関連文書が焼失しているため実態は明らかではないが、江戸の昌平坂学問所との関わりを示す『日本教育史史料』や明治期に編纂された書籍目録や学頭林鶴梁や出身者の日記が残されている。それらの断片的な史料によれば、寛政8年(1796年)に甲府城代の甲府勤番師弟の教育を目的に甲府勤番支配の近藤政明(淡路守)と相役の永見為貞(伊予守)が設置した甲府学問所が前身とする。学問所は勝手小普請役の富田武陵(富五郎)を教授(のちに学頭)に起用して勤番役邸に開校する。享和3年(1803年)には甲府城追手門南に学舎が新築され庶民にも開放され、甲府学問所は武芸一般を教える講武所のほか、医術を教える医学所も設置されていた。大学頭の林述斎(林衡)により「徽典館」と命名され、松平定信筆の扁額が掲げられた。天保14年には幕府の地方官学統制のもと、駿府の明新館とともに江戸の昌平坂学問所の分校としての再編が行われ、追手門前へ移転して昌平坂学問所や江戸城の紅葉山文庫から蔵書の一部が移管された。組織改編も行われ、2人の学頭はそれまで勤番士のなかから選抜されていたが、昌平坂学問所から派遣されたもので独占されることとなった)。これには勤番士の間で不満の声があり学頭問題が発生し、安政3年(1856年)に甲府勤番は内部昇進が失われることにより教育効果が薄れることや経費節減などの理由から1人を内部から選抜することを幕府に申請して受理されるが、林大学頭がこれに反対し、学頭の席は江戸からの派遣で、教授方を勤番士中から選抜することで合意に至った。徽典館の充実により教育効果は向上したものの、一方で優秀な学生を江戸へ留学させる機会がなくなる問題も発生した。教授内容は四書五経を中心とし朱子学を重視する学風で、再編後の天保14年(1843年)3月布告「徽典館稽古日割」が講義内容・開催日時を記す唯一の史料として現存している。これによれば、徽典館では素読、講釈、輪講、会読が行われ、講釈については一般町人、百姓への解放されていた。試験(学問御試)は春秋の年二回、五日間に一日一科目の試験が実施された。答案は江戸へ送付され評定が行われ、成績優秀の者に対しては褒美の下賜や勤番士への登用も行われた。著名な学頭には岩瀬忠震や田辺太一、中村正直(敬宇)らがおり、出身者には杉浦譲、明治期の山梨県における民権運動家である田辺有栄や八巻九万らがいる。明治5年(1872年)には開智学校と改称し、師範講習学校を経て、明治15年(1882年)には再び徽典館と名乗っている。その後、山梨県師範学校、山梨学校などを経て現在の山梨大学となり、県内の官学の中心としての地位を保っている。

出典:wikipedia

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