建部氏(たけべうじ)は、「建部」を氏の名とする氏族。著名な建部氏としては、日本の古代氏族の一つである建部氏がある。日本武尊の名代部(ヤマトタケルノミコトを奉斎する軍事的部民)で、倭建尊から建部を正字とする。日本書紀の景行紀や出雲風土記に景行天皇の勅によって定められた旨の記述があるようだ。古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団であったとされる。壬申の乱(672年)では反乱者であった大海人皇子に敗れることとなったが、当初は正規軍であった筈の大友皇子の側で戦闘に加わったと伝えられている。違う作りの武部氏や竹部氏、字の通う武氏、武内氏なども同じ流れを汲むらしいが、もっと明瞭な名高い一族は建部姓で名字が禰寝氏を名乗る一族であろう。ちなみにこの禰寝(根占)氏庶流の一つに武氏がある。武家(家族)参照。また、近世大名となった近江の建部氏は佐々木氏の一門であるというが、上記の古代建部氏との関連も指摘されており、その一族であった可能性もある。続日本紀の神護景雲2年(768年:鑑真死去から5年目、東大寺大仏殿竣工から10年目、大仏造立からは23年目に当たる年)に全国から9人、その内信濃国からは水内郡の刑部千麻呂(友情)と倉橋部広人(税の肩代わり)、伊那郡の他田部舎人千世命(節婦)、更級郡の「建部大垣」の4人が朝廷から褒美を受けた記述がある。この内の建部大垣は、褒賞の理由について「人となり恭順、親に孝あり」とある。この180年後の大和物語(950年)に信濃国更級郡にある姨捨山の棄老伝説が紹介されることとなった。この建部大垣褒賞の噂話に、物知り(あるいは僧か)が古代インドの仏典「雑宝蔵経」の棄老を戒める説話を付け加えて伝承が各所に広まり、定着して行ったものと考えられる。これ以降、姨捨伝説は更級日記(1059年)や今昔物語集(1150年)、謡曲「姨捨」1368年)、更級紀行(1688年)、楢山節考(1956年)など文学の世界にたびたび取り上げられてきた。だが、そこにおいては親孝行による受賞の事実よりも、話の尾ひれであった筈の棄老についてのイメージの方が強調されてしまったようである。大垣は信濃国更級郡の人とまでは記述にあるが、その住地については千曲市八幡(旧更級郡八幡村武水別神社周辺)と長野市信州新町竹房(旧更級郡竹房村武富佐神社周辺)であるとする二説があって詳らかではない。しかし後者が一応の定説となっている。そして武冨佐神社は建部大垣の古墳の上に建てられているのだとも伝えられていた。近年の発掘調査では現在は社殿の北側に位置している古墳の築造時期は大垣の時代よりおよそ150年ほど遡るとされて伝説は否定された格好である。この他にも千曲市上山田(旧更級郡上山田町)波閇科神社周辺を候補地に挙げる説もある。ここも日本武尊に関連する神社とされる。9人の受賞者には大垣の他にも孝養を理由とする者はいて武蔵国入間郡の人で矢田部黒麻呂(この人は宝亀3年の受賞で戸の揺を免ず)、対馬嶋上県郡の人で高橋連波自采女(貞婦・孝養)、備後国葦田郡の人で網引公金村、甲斐国八代郡の人で小谷直五百依の名が見られる。残る1人は石見国美濃郡の人で額田部蘇提売で貞婦・社会貢献などが受賞理由となっており彼女は、その屋敷跡というのが伝えられ高橋連波自采女も墓と言われる所在が知られている。また網引は地名が示されているが他は推定の域を出ない。江戸時代の小説家・俳人・歌人・国学者・画家。1719-1774年の人で本姓を喜多村と言い後に建部と改めた。名は久域のちに綾足、号を涼袋・寒葉斎・吸露庵・浅草庵。弘前藩の家老の次男に生まれたが20歳の頃に兄嫁と通じて出奔。上方で俳諧師となり江戸に出て和歌の片歌を主張し賀茂真淵門に入って国学を学んだ。のちに絵に才能を示し小説では「西山物語」「由良物語」「本朝水滸伝」を著した。雅文体を示すと共に江戸読本の基礎をつくった。江戸時代の数学者(1664-1739年)。幼時に兄賢明とともに関孝和について数学を学んだ。将軍吉宗に仕えて信任厚く暦術の顧問とされた。また「享保日本総図」の作成を主催した。関孝和・賢明とはかって「大成算経」をつくったが彼の数学上の成果のほとんどがこの中に含まれる。なおその著「綴術算経」は和算の方法論を述べた唯一の書物として知られる。戦国時代後期の建部寿徳(高光)は、近江六角氏(佐々木嫡流)に仕えていたが、六角氏が没落した後は織田信長に仕え、中川重政、丹羽長秀の下で吏僚として領内統治に辣腕を振るった。本能寺の変で信長が死去し、長秀もまもなく没すると羽柴秀吉に仕え、尼崎の統治を任されるなど重用された。いわゆる豊臣恩顧の一族で、関ヶ原の戦いの際には西軍に属し一時所領を没収されたが縁戚の池田輝政の執り成しによって許され改易を免れた。寿徳の子の建部光重は豊臣秀頼の近習であったが、光重の没後に家督を継承した建部政長は大坂の陣では徳川氏に味方し功績を挙げ、戦後、池田氏の縁家として大名として復帰を果たした。江戸時代を通して摂津尼崎藩、のち播磨林田藩の藩主家となる。明治維新の後は華族に列し、子爵を賜った。 寿徳(高光)
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