ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(, 1946年7月6日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第46代テキサス州知事、第43代アメリカ合衆国大統領を歴任。第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュは父。またフロリダ州知事を務めたジェブ・ブッシュは次弟。ジョージ・P・ブッシュは甥(ジェブ・ブッシュの長男)。ブッシュは、最初に2000年の大統領選挙で当選し、2004年の大統領選挙で再選した。1995年から2000年まで第46代テキサス州知事を務めた。また、第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュの長男である。父親が22歳の時に生まれたために、父親が生きている間に大統領になった珍しい世襲政治家である。身長は182cm体重93kg。右利き。イェール大学歴史学部卒業後、彼の家族の石油会社で勤務した後、下院議員選挙に出馬したが落選した。その後、テキサス・レンジャーズを共同所有するなど実業家として活躍した後、テキサス知事選挙のために政治運動に戻った。1994年にはアン・リチャーズを破ってテキサス知事に当選した。ブッシュは2000年の大統領選挙において、一般投票では敗北したが選挙人投票で勝利し、共和党の候補として当選した。大統領としてブッシュは、2001年に1兆3500億ドルの減税プログラムを、2002年には全国一斉学力テストを義務化して成績次第で助成金とペナルティを学校に課す「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」(通称:落ちこぼれゼロ法()」に署名した。2001年9月に発生した同時多発テロ事件の後の同年10月に、ブッシュは世界的な「テロとの戦い」を発表して米国愛国者法を成立させた。そしてアフガン侵攻に臨み、ターリバーン政権を倒しアルカーイダを壊滅させて、オサマ・ビン・ラディンをデッド・オア・アライブとして逮捕あるいは殺害することを命じた。2003年3月にブッシュはイラク侵攻を命じ、「イラクが国際連合安全保障理事会決議1441に違反しており、戦争がアメリカ合衆国の保護のために必要だった」と主張した。イラク戦争の中、ブッシュは「戦時大統領」と自称して再選を狙い出馬し、イラク戦争と国内問題の遂行をめぐる論争にもかかわらず、ジョン・ケリー上院議員に大きな差をつけて2004年11月2日に再選された。しかし再選後にブッシュはますます激しい批判を受けた。ブッシュの国内の支持率は、2001年同時多発テロ直後の90%(The Gallup Organizationによってこれまでに記録される最高のもの)から、記録に残る中で最も低いアメリカの現職大統領の支持率である、2008年2月20日に19%にまで低下した。ブッシュの不支持率は76%まで上昇し、国内ではブッシュ批判が激しさを増した。それは、2009年1月20日に後継のバラク・オバマに政権をバトンタッチするその日まで続いた。アメリカ合衆国では、父のH・W・ブッシュと区別するため、第43代アメリカ合衆国大統領であることから「43(フォーティスリー)」や、ミドルネームを表す「W」、またはテキサス州周辺地域での W の発音から「Dubbya(ダビャ)」と呼ばれることもある。また、歴史的には同姓同名で血縁関係のある人物を区別する際、年長者を「大(major)○○」、年少者を「小(minor)○○」と呼ぶので、父を「大ブッシュ」と呼ぶのに対して、息子の方を「小ブッシュ」と呼ぶこともある。父を「ブッシュ・シニア」と呼び、息子の方を「ブッシュ・ジュニア」と呼ぶ例もある。上述のように、次弟・ジェブ・ブッシュの長男でもある、W・ブッシュの甥もジョージ・ブッシュだが、ミドルネームがPとなっている(ジョージ・P・ブッシュ)。小ブッシュは1946年7月6日に、コネチカット州ニューヘイブンでジョージ・H・W・ブッシュとバーバラ・ブッシュの長男として生まれた。ブッシュは四人の兄弟、ジェブ、ニール、マーヴィンとドロシーと、テキサス州のミッドランドとヒューストンで育てられた。もう一人の妹・ロビンは、1953年に白血病によって3歳で死亡した。ブッシュの祖父・プレスコット・ブッシュはコネチカット州選出の上院議員で、ブッシュの父・ジョージ・H・W・ブッシュは1989年から1993年まで米国大統領を務めた。ブッシュはマサチューセッツ州アンドーバーでフィリップス・アカデミーに通った。そこで彼は野球をして、最終学年まで男子校のヘッド・チアリーダーだった。父の先例にならって、ブッシュはイェール大学に通い、1968年に歴史学士号を取得した。大学の専門課程に、ブッシュは秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーになった。大学時代は当初野球部で投手だったが、才能に限界を感じて3年からラグビー部へ移り、4年でレギュラーになった。1968年5月に進行していたベトナム戦争のまっただ中に、ブッシュは適性検査の筆記試験で、下から25番目の成績だったにもかかわらず、合格の最低点だったが、テキサス空軍州兵に認められた。これは、一度に一万人以上の空軍州兵人員(多くの戦闘機パイロット)がベトナムの作戦を支援するために招集されていた時期だった。訓練の後、彼はヒューストンで任務を任せられ、エリントン空軍基地からコンベアF-102を飛ばした。批評家はブッシュが彼の父親の政治的な地位のために、軍務で有利に扱われ、正常な兵役ではなかったと主張した。合衆国国防総省は公式アーカイブに残っていたという、ブッシュのテキサス空軍州兵勤務記録の全てを公開した。1970年に、ブッシュは難関のテキサス大学ロースクールに出願したが、不合格にされた。ブッシュは共和党の議会選挙活動に取り組むために、1972年にアラバマ空軍州兵へ転任し、1973年10月にハーバード・ビジネス・スクールに通うために、約8か月早くテキサス空軍州兵を退役して、6年間の兵役義務を終了した。ブッシュはその時期に頻繁に飲酒していたことを認め、「無責任な青春の放浪期間」だったと言った。1976年9月4日、ブッシュは30歳で、家族の夏の別荘付近で、飲酒運転容疑で逮捕された。彼は罪を認めて150$の罰金を科され、運転免許証を1978年までメイン州で停止された。ハーバード大学でMBAを取得した後、ブッシュはテキサスの石油工業会社に入社した。1977年に、彼は友人に学校教師・司書のローラ・ウェルチを紹介された。彼らは結婚して、テキサス州ミッドランドに居住した。ブッシュは妻の合同メソジスト教会に入会するために、米国聖公会を脱会し宗旨替えを行った。1978年にブッシュはテキサス州の19下院議員選挙区から立候補した。ブッシュは、ブッシュが地元と接触していなかったと描写した相手ケント・ハンスに、6000票の差で負けた。ブッシュは石油企業に戻り、アーバスト・エネルギー、スペクタン・7、ハーケン・エネルギーなどの会社の社長、最高責任者となった。これらの事業は、1980年代に産業と地域経済に影響を及ぼした、石油価格の広範囲な低下により損害を受けた。さらに、ハーケンが関係したかもしれないインサイダー取引の疑惑が起こったが、証券取引委員会(SEC)の調査は、ブッシュの株式販売より前に容疑を正当化するインサイダー情報はないと結論付けた。1981年にブッシュは、妻ローラとの間に双子の娘、ジェンナとバーバラを儲ける。1988年にブッシュは、ワシントンD.C.で家族と父の大統領選挙活動に取り組んだ。選挙運動の後、1989年4月にブッシュは、テキサス・レンジャーズの株を購入し、5年間無限責任組合員を務めた。ブッシュは活発にチームの企画を指導して、定期的に試合に出席し、しばしばファンと売店に座ることを選んだ。1998年、ブッシュは最初に80万ドル投資したレンジャーズの株式を売却し、1500万ドルの利益を得た。ブッシュは1994年のテキサス州知事選挙に出馬を表明したが、これは弟のジェブ・ブッシュのフロリダ州知事選出馬と同時である。共和党の予備選挙で大勝し、人気のあった現職のアン・リチャーズ(民主党)との一騎討ちとなる。ブッシュにはKaren Hughes、John Allbaugh、カール・ローヴといった選挙参謀がついた。ブッシュの選挙運動に対して、リチャーズへのアンフェアな中傷であるとする批判も上がった。しかし公開討論での効果的な弁舌により、ブッシュの人気は上昇した。結果、11月8日の選挙において、52%対47%の得票率で当選した。知事としてブッシュは、首尾良く不法行為改革のための法律を支援し、教育資金の支出を増やして学校の教育水準を上げ、刑事制度改革を行った。ブッシュは152人の死刑を執行させたが、これはアメリカにおいて一人の州知事が執行させた死刑数としては最高記録である。ブッシュは20億ドルの歳入超過を減税に回したが、これはテキサス州における減税額の最高記録である。この減税により、ブッシュは企業活動を擁護する経済右派としての評価を確立した。また、教育改革ではアファーマティブ・アクションを違憲とするホップウッド判決を受けてに署名し、フロリダで上位20%法を進めていた弟のジェブ・ブッシュと軌を一にした。ブッシュはまた教会などの宗教組織による教育、アルコール・薬物依存症対策、家庭内暴力対策活動への政府支出を行った。ブッシュは6月10日をテキサス州の「イエス(・キリスト)の日」と定め、この日には「支援を必要とする人々への奉仕をテキサス州民に要請する」とした。1998年11月3日には69%の得票で再選を果たす。同年、共和党大統領候補予備選挙への出馬を表明する。大統領選挙当選に伴い、知事職は2期目途中で辞任(知事就任期間:1995年1月17日-2000年12月21日)。大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦を勝利し、2001年1月20日に大統領に就任。民主党候補アルバート・ゴアが、一般投票でブッシュの得票を50万票ほど上回っていたが、選挙人投票でブッシュが5票多く得票した。実弟ジェブ・ブッシュが知事を務めるフロリダ州の、一般得票でゴアをわずかに上回り、25人の選挙人を獲得したためである。しかし、選挙終盤のフロリダ州における選挙の運営方法への問題点も指摘され(ブッシュ陣営がジェフ・ブッシュを通じて不正選挙を行ったと主張する意見もある)ゴア陣営が抗議したため、発足当初の国民支持率は低迷していた。任期9か月目の9月11日、ニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが発生。三日後の9月14日に世界貿易センタービル跡地(いわゆるグラウンド・ゼロ)を見舞い、救助作業に当たる消防隊員や警察官らを拡声器で激励してリーダーシップを発揮し、一時は歴代トップだった湾岸戦争開戦時のジョージ・H・W・ブッシュの89%をも上回る驚異的な支持率91%を獲得した。18日にはとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る(これはグアンタナモ湾収容キャンプでの無期限の拘留の根拠となる)。12日に開かれた国際連合安全保障理事会と第56回国際連合総会では米国に連帯・哀悼を表してテロへの対応を求める決議が満場一致で採択され、28日には安保理決議でテロ対策が全世界に義務化され、11月10日にニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニとともに国連総会の演説で国際社会の支持に感謝してテロとの戦いを宣言した。ブッシュ自身は第三次世界大戦とも呼んだこの戦争は、10月7日にアフガニスタン侵攻によって開始され、世界各地で不朽の自由作戦が実行された。また国内では、テロ対策に不可欠だとして「パトリオット法」(愛国者法)を制定する。しかし、炭疽菌小包による無差別殺人が一時横行し、同時テロとともに国内はパニック状態になった。一方、アフガニスタン作戦は順調に進み、12月7日にはタリバーン政権は転覆、同月に新政権を樹立させた。2002年1月、一般教書演説において悪の枢軸発言。これはイラク・イラン・北朝鮮を大量破壊兵器を開発保有するならず者国家と名指しで非難したものである。特にイラクに対しては武装解除問題を抱えていたので厳しい態度で臨み、国連の全面査察を4年ぶりに受け入れさせた。しかし武装解除が進まず、未だに大量破壊兵器を持ち続け、世界の脅威になっていると報告を受けたとし、それを世界に発信した。翌2003年に入ると、いよいよイラクに対し強硬姿勢を採るようになる。しかし、フランス、ドイツ、ロシア、中国などは根拠が足りないとして、イラクへの制裁戦争に反対した。3月17日にブッシュはサッダーム・フセインと側近に対して、48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対し侵攻(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、これについて特にイラク側との協定はなく、実際にはまだ戦時中であった。イラクはアメリカ・イギリス・ポーランドによる分割占領と、連合国暫定当局による統一した国家運営を行い、徐々に民主化することとした。7月11日には、アメリカ国民のブッシュへの支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準である59%に急落したことが判明(ABCテレビとワシントン・ポスト紙の共同世論調査による)したが、これは後に回復し、その後再度低下している。12月にはフセインの逮捕に成功し、裁判の準備も行われ、占領政策も順調に行われているように見えたが、実際はアメリカ軍を狙った攻撃や自爆テロが絶えず、死者は湾岸戦争の1000名を上回ることとなった。また、イラクが隠し持っていると主張していた大量破壊兵器が見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になっていった。2004年、ブッシュは再び大統領選挙に立候補したが、都市部のリベラル層がブッシュ支持から離反し、同時多発テロ発生後やイラク戦争開戦時の高支持率は維持できず、特に選挙戦の終盤は、対立候補の民主党上院議員のジョン・ケリーと支持率は拮抗しているとたびたび伝えられた。しかし、最終的にはブッシュが1988年の大統領選挙以来となる、過半数の51%を得票、選挙人もケリーを34人上回る286人を獲得し、2回目の当選を果たした。2005年2月2日、第2期目における一般教書演説を行った。外政に関しては各国との協調路線を取ると述べた。イラクの国民議会選挙を評価し、イランの核開発問題に対して強硬な姿勢を打ち出し、さらに、中東各国の和平・民主化、核開発を進めていることを明言している北朝鮮の核廃棄問題などを取りあげ、世界を自由にするという決意を述べた。8月29日、ハリケーン・カトリーナによって過去最大級の犠牲者を出す災害となったが、政府の予防の不十分さと対応の遅れが非難された。本来、攻撃や災害から住民を守るべき州兵までイラクへ派兵されていることも大いに疑問視された。テロや戦争など有事には強いとされていたブッシュ政権が同様の危機管理であるはずの天災への対応には脆弱さを見せたこと、FEMAの国土安全保障省への編入による指揮系統の複雑化、過去に堤防の改築など被害を最小限に抑える対策が進言されていたにもかかわらず十分な災害予算を計上していなかったことが議会の民主党などから批判の対象となった。また、彼の母親であるバーバラ・ピアスが被災地を訪れた時のインタビューで「被災地に住む人は貧困層ばかりで、避難所に入れた方が恵まれている」と発言し、批判はさらに高まった。実際、被災者への支援は白人系の富裕層に偏っており、逃げ遅れて被害に遭った貧困層の救援は後回しで、衛生状態が悪い中、放置された。さらに10月には、イラク戦争開始前にイラクの大量破壊兵器購入に懐疑的な見解を述べた、元駐ガボン大使のジョゼフ・ウィルソンの妻ヴァレリー・プレイムがCIAの工作員であると意図的に情報漏洩し、元大使の信頼性を落とそうと画策した事件に関し、チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーが、事件の主導人物の隠蔽目的の偽証罪に問われ米連邦大陪審に起訴される(プレイム事件)。その後リビーは一審有罪判決を受け、さらに副大統領も情報漏洩の主導的関与を行った疑いが持たれた。この影響で、11月にニューズウィーク誌が実施した世論調査によれば、支持率は36%にまで低下。他の世論調査でも支持率が低下しており、ブッシュ政権は2期目の最初の1年目から試練に直面した。年末、ブッシュはイラク開戦の重要な根拠となった大量破壊兵器の報告に誤りがあったと発表した。開戦以前からイラクの武装解除は順調に行われていたことがすでに明らかになっていたが、これを追認する形となった。しかしながら、フセインの圧政からイラク人を解放したことを強調し、戦争の正当性を改めて訴えた。2006年11月8日に行われた中間選挙ではイラク戦争に対する有権者の批判や同性愛のスキャンダルに加えて宗教保守派が大幅に離反したことなどから、与党共和党は民主党に大敗し連邦議会上下両院の多数派の座を奪われた。このため、ブッシュはイラク政策の責任者であったラムズフェルドが国防長官を辞任(事実上の更迭)させ、後任にロバート・ゲーツ(元CIA長官)を指名した。その後も、相次ぐ閣僚の不祥事や原油高による経済への不満などもあり支持率は低迷。2007年5月には支持率が最低の28%となったこともあって、報道官などのスタッフを入れ替えて人事の刷新を図った。2007年3月には“老朽化した核弾頭の更新”を名目に、冷戦終結後初めての新型核弾頭設計に着手する事を表明。2012年を目途にSLBMへの配備を目指すとした。2007年6月28日、事実上政権の“遺産”となると思われた共和党提出の『不法移民の在留資格獲得に道を開く移民制度改革法案』が米上院における採決で否決された。法案は、アメリカ・メキシコ国境の警備を強化する一方で、すでに入国した不法移民に罰金支払いや身元審査を条件に就労の合法化や永住権取得に道を開く包括的な改革であったが、共和党反対派が大々的なキャンペーンを行い、推進派からも内容の一部をめぐり反対の意見が出た。ブッシュは賛成を求めて電話で最後の説得にあたったが、「支持率が記録的に落ち込んだ彼の懇願は実を結ばなかった」(米紙ワシントン・ポスト)という。2008年2月18日には共和党の次期大統領候補に選出されたジョン・マケインの支持を公式に打ち出し、大統領選挙の事前投票でマケインに投票した。しかしブッシュの人気が余りにも低いために、ブッシュの正統な後継者を自任し多くの政策に賛同してきたマケインに「私はブッシュ大統領ではない」と言われ、応援演説の依頼も殆ど無かった。結果的に、ブッシュ政権との相違が見出せなかったマケインは民主党候補のバラク・オバマに6.3%差で敗れた。サブプライムローンに端を発した世界同時不況への対応策である「金融安定化法案」の採決では9月29日下院における共和党右派の反対もあって法案は否決されたが、修正法案が上院で可決された後10月3日に下院で可決され成立した。2008年11月のCNNによる世論調査ではブッシュの不支持率が76%に上り、ウォーターゲート事件で辞任したリチャード・ニクソンをも上回る戦後最悪の不支持率を記録した。2008年12月14日、退任末期のブッシュはイラク首相ヌーリー・マーリキーとの共同会見中、取材していたイラク人記者ムンタゼル・ザイディー()から履いていた左右の靴を投げつけられた。ブッシュは身をすくめてかわし、直後にザイディは取り押さえられた。同日の夜、イラクのニュース番組でこの映像が流れると、エジプトの民間衛星テレビ局の女性アナウンサーがこの記者を「英雄」と呼び、また数千人の市民が犯人の釈放を求めデモを起こした。当のブッシュは靴を投げつけられた直後「今の靴のサイズは10だったよ」とジョークを飛ばす余裕を見せ、「私に靴が投げつけられたからといって、何だ?」「(イラクが)自由な社会になった証だよ」と締めくくった。2009年1月14日、ブッシュは「米国の真の友人であり、歴史的な挑戦に対して不屈の精神で対処した」としてトニー・ブレア(イギリス元首相)、ジョン・ハワード(オーストラリア元首相)、アルバロ・ウリベ(コロンビア大統領)の3人に大統領自由勲章を授与した。なお、小泉純一郎ら日本の政治家は選から漏れた。2009年1月20日正午(ワシントンD.C.時間)、任期満了で大統領を退任。退任時の財政赤字は1兆2000億ドルであった。大統領退任後は、テキサス州ダラスの自宅やクロフォードの牧場に居住し、大統領図書館やシンクタンクの活動に従事している。ブッシュは1994年までダラスに居住していた縁があり、地元ではブッシュを歓迎するムードが広がっている。ダラスのホームセンターでは「ブッシュ前大統領殿 ようこそお戻りになりました!」との書き出しで始まる「お客様係募集」求人広告をジョークで掲載し、「時間に融通の利く、非常勤。ご自宅からも近距離で、一日体験も可能です」とメリットを列挙したうえで「何年にも亘る外国要人との会談を通して、社交術を磨き上げてきたあなたが、このポジションの優れた候補者だと確信しています」と呼びかけた。なお、広告掲載後、当該の店にはブッシュ本人が「仕事を探しているんだ」と突然来店し、店長に対して入社を丁重に辞退したうえで買い物をするというジョークで応じたため、居合わせた客らから喝采を浴びた。また、「歴代支持率ワースト1の大統領」である彼の伝記映画『ブッシュ』が公開された。(米国ではブッシュが退任直前の2008年に公開された)。監督のオリバー・ストーンは、映画を作る目的は「あくまでブッシュの品格を落としたり、傷つけようとしているのではない」としており、「彼の言葉を喋らせること、イラク戦争に対する彼の判断は、彼という人物やその個人史と相関関係にある。それを示そうとした。」とコメントしている。2009年11月上旬に大統領辞任後の初来日を行い、かつての盟友・小泉純一郎元首相と再会したほか東京ドームで行われた日本シリーズの始球式に参加した。2010年11月9日に大統領在任中に下した様々な決断を振り返った回顧録(タイトル:“Decision Points”、邦題:『決断のとき』)が出版された。回顧録は自身の飲酒運転トラブルやイラク戦争の決断も詳しく語られた内容となっている。しかし、本書に関して他の著作本からの剽窃・盗作の疑惑が報じられている。2011年4月より、日本経済新聞で連載されている自身の半生を綴った『私の履歴書』の執筆を担当し、原稿料は全額東日本大震災による震災孤児を支援するため、あしなが育英会に寄付した。2013年4月、テキサス州ユニバーシティーパークのサザン・メソジスト大学に、大統領図書館「ジョージ・W・ブッシュ大統領センター」の開館式が行われ、ジョージ・W・ブッシュ本人と父のジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、ジミー・カーター、バラク・オバマと、大統領及び存命の大統領経験者が揃った。同月に行われたジョージ・W・ブッシュの評価についての世論調査では、大統領就任時の教育や医療制度改革が見直され、退任時よりも評価は上昇の傾向にある。2016年2月15日、大統領選挙で苦戦する弟ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事の集会に現れ、「米国民が怒り、不満を抱えているのは分かる。しかし、我々の怒りや不満をそのまま映し、あおる人物はオーバルオフィス(米大統領執務室)には要らない」と共和党指名争いでトップを独走する実業家のドナルド・トランプを批判した。ブッシュ政権の外交政策は、ネオコンと称される閣僚が要職を多く占め、さらにキリスト教右派を支持母体にしているため、中東の原油をめぐる利権の追求、それに伴うアフガニスタンやイラク侵攻などに関して、対外的な武力行使も辞さないアメリカの覇権の追求(単独行動主義、覇権主義)が顕著であり、第十次十字軍と諷刺されることもあった。このようなタカ派ともとれる姿勢は、アフガニスタン侵攻、イラク戦争など戦時のたびに、ブッシュ大統領本人のみならず、閣僚・政権関係者が所有・関係する企業などに莫大な経済的利益をもたらす構造が疑問視された(軍産複合体も参照)。経済政策はあらゆるものに自由な所有権を拡大させるを目標に掲げ、サプライサイド経済学に基づいた所謂ブッシュ減税(小切手送付などによる)、ベン・バーナンキをアラン・グリーンスパンの後任に起用したマネタリズム的な金融政策、自由貿易(グローバリゼーション)推進など新保守主義・新自由主義的政策、「小さな政府」の方針と重なるところも多い。しかし、クリントン政権が大きな財政黒字だったのに対し、ブッシュ政権は2つの大きな戦争への参加や警察力を強化するテロ対策などで膨大な支出を治安面や軍事面で生じさせたため(夜警国家)、2004年には史上最大の4130億ドルもの財政赤字に苦しんでいる。ブッシュ自身は、かかる自らの政策を「思いやりのある保守主義」(Compassionate Conservatism)と称している。外交面では政権内のネオコンと呼ばれる人々によって特徴付けられ、「世界の警察」「世界最強の軍事力」たる唯一の超大国アメリカを積極的に他国に介入させ、自由民主主義で世界の一極化を目指すタカ派戦略を採り、イラク戦争・アフガニスタン侵攻を引き起こした。ブッシュを支持する共和党支持者の中にはキリスト教福音派の原理主義者が多く含まれ、ブッシュは彼らの倫理観やインテリジェント・デザインなどの理論に理解を示してきた。旧知のハリエット・マイヤーズをアメリカ最高裁判所の判事に指名した際、マイヤーズが弁護士時代に中絶に関する質問に対して曖昧な答えを残していたことなどから反発を受け、断念せざるを得なくなるという事例もあった。他に話題を呼んだ政策として、次のようなものが挙げられる。なお、ブッシュの下で副大統領を務めているディック・チェイニーは、父の大ブッシュの下で副大統領を務めたダン・クエールより年長である。ブッシュ政権は地球温暖化問題への取り組み(温室効果ガスの排出削減対策)に消極的だと言われる。科学誌ネイチャーによると、ハリケーン被害が増大している一因は温暖化であるとする内容の報告書を米国海洋大気局が発表しようとした際、ブッシュ政権からの圧力によって阻止されてしまったという。また2005年には、京都議定書を離脱している。名門イエール大学を卒業し、ハーバード・ビジネススクールで経営学修士を取得しており、双璧とされるイェールとハーバードを出るという歴代大統領の中でも「高学歴」だが、後に本人が母校での演説で「成績がCでも大統領になれる」とジョークのネタにしたように学生時代の成績は芳しくなかった。ニューヨーク市立大学教授で、ハーバード時代のブッシュが受講する授業を担当した霍見芳浩は、大統領就任が決まった直後の日本のマスコミの取材で当時のブッシュの印象を聞かれて「普通、授業を教えた生徒の事はいちいち覚えていないものだが、彼は非常に出来の悪い生徒だったのでよく覚えている」「もう箸にも棒にもかからない」「典型的な金持ちのお坊ちゃま。怠惰で授業態度も悪く、大統領はおろかどんな組織のリーダーも務まる人物ではないと思った」と答えている。大統領候補時代に、記者から「パキスタンの大統領の名前は?」と質問され答えられないなど、就任前から大統領としてふさわしい知性の持ち主か否か、危ぶむ声があった(ブッシュが同じような質問を記者にすると「私は記者だが、あなたは大統領候補だ」と返された)。大統領就任後も、2001年11月のブラジル大統領フェルナンド・エンリケ・カルドーゾとの首脳会談上の席上、「あなたの国にも黒人はいるのか?」と尋ねて、その場でライス安全保障問題担当補佐官に訂正されるエピソードがあるなど、知性を疑われるような発言を何度も繰り返した。これらの迷言癖は俗に「ブッシズム」と呼ばれる。他の歴代大統領と比較して著しくボキャブラリーが貧困であるとされた。耳慣れない人名や地名をよく間違って発音することでも有名で、アブグレイブ刑務所の囚人虐待事件に関する演説では「アブグレイブ」の発音を一度もまともに言えなかった。2007年9月オーストラリアシドニーで行われたAPECの演説では、OPECと言い間違えた上にこの演説で三回もの言い間違いをし、参加者から失笑をかった。言い間違いを防ぐため、演説原稿に出てくる各国首脳の名前や国名、首都名に“読みがな”がふられていたことも発覚している。第1回目の大統領選挙の公開討論の席で、アル・ゴアがブッシュを小馬鹿にするような態度を示したが、それに対し誠実な対応を行ったことが有権者の好意的評価に結びついたとされる。戦争中に、ラムズフェルドが戦死した兵士の家族への手紙の署名にオート・ライターを使用したのとは対照的に、ブッシュは直筆の手紙を出し続けている。また、人権問題に関心が深いこともあり、北朝鮮による日本人拉致問題に深い興味と理解を示し、拉致被害者の家族が訪米した際には、ホワイトハウスで面会した。ブッシュ自身は側近の意見に耳を傾けていると言われ、特に外交に関しては穏健派のパウエル国務長官と強硬派のライス補佐官に議論をさせ、ライスの意見を支持しイラク戦争に向かったとされる。ライス補佐官は第2期政権において国務長官に起用された。ブッシュの意を受けたライスは国防総省を牽制しつつ、外交に重きを置きながらイラクの武力支配を正当化しようという戦略をとっている。AP通信社がアメリカ国民を対象に行った世論調査では、2006年の「憎まれ役」「英雄」でそれぞれ1位に選ばれた。ちなみに「憎まれ役」は2位以下、オサマ・ビンラディン、サッダーム・フセイン、マフムード・アフマディーネジャード、金正日。「英雄」は2位以下、イラク駐留アメリカ軍、バラク・オバマ。また、ジョン・F・ケネディ以降の歴代大統領を、ホワイトハウスで取材してきたジャーナリスト、ヘレン・トーマスは、彼を「今までで最悪の大統領。アメリカ史上最悪の大統領 (This is the worst President ever. He is the worst President in all of American history. )」と酷評している。また2004年ブッシュが再選されたとき、ブッシュに批判的なアメリカ人はカナダに移住したそうである。一方でライス国務長官は政権末期の米CBSテレビとのインタビューで、ブッシュが直面してきた状況について「第二次世界大戦後で最も厳しい時期だったのではないか」との見方を示し、そのなかでブッシュが下してきた決断は「時を経て記憶にとどまるだろう」とし、イラクのフセイン政権打倒や中華人民共和国、インド、ブラジルなどとの良好な関係を例に挙げ、「歴史がブッシュ政権に良い評価を下すだろう」と述べた。2002年1月テレビでフットボール観戦中、菓子のプレッツェルをのどに詰まらせて気絶し倒れて目尻の横を怪我をして、マスコミに大きく報じられたことがある。本人は苦笑しながらこの一件について釈明した。AIDSの撲滅運動にも熱心で、2004年、エルトン・ジョンはコンサートにやって来たブッシュ夫妻と直接面会した際に、彼の政策への強い不満の一方で、彼の魅力と「優しさ」を覚えたとし、教訓になったと述べた。学生時代には大量の飲酒を行う時代もあったものの、1985年にビリー・グラハム牧師と出会って以降、その当時患っていたアルコール依存症をローラ夫人の支えもあって克服し、現在では敬虔なクリスチャンとして知られており、宗派は妻と同じメソジストである。約40歳からという一般的に見れば遅い宗教への目覚めではあるが、信仰心は篤く毎朝5時には起床し祈りをささげることが日課になっている。そのため、生活リズムは早寝早起きである。読書家としての側面も知られており、専用機での時間や週末の多くを読書に費やすという。ジャーナリストのエリザベス・ビュミラーの取材によると、愛読書として聖書のほか、建国者ワシントン、ハミルトンの評伝があげられた。この他トム・ウルフの小説の熱烈なファンで、イスラエルの作家ナタン・シャランスキーの本を盛んに周囲に勧めていたことが伝えられている。動物愛好家として知られており、愛犬のバーニーをはじめ、豚、猫、猿、トカゲなど複数のペットを飼育している。また、昆虫収集に熱心である。特にホワイトハウス内で同居していた愛犬のバーニーは、テレビで一緒の姿を映されることも多いためアメリカ国内ではつとに有名である。大の野球ファンとして有名で、1989年からはテキサス・レンジャーズの共同オーナーも務めていた。当時のテキサス・レンジャーズ監督は2005年11月15日に大阪国際空港でジョージ・W・ブッシュを出迎えたボビー・バレンタイン。大統領時代も度々メジャーリーグベースボールの始球式を行っている。2009年11月3日、東京ドームで行われたプロ野球日本シリーズ第3戦(日本ハム-読売ジャイアンツ)の始球式にも登場した。2002年にメジャーリーグベースボール選手会のストライキが濃厚になった時にはストライキの中止を求めるコメントを出した。その結果、ストライキは直前で中止された。
出典:wikipedia
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