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福島第一原子力発電所

福島第一原子力発電所(ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょ、英称:)は、福島県双葉郡大熊町・双葉町に立地する、東京電力の廃止された原子力発電所である。略称は福島第一原発(ふくしまだいいちげんぱつ)、1F(いちエフ)。福島県は、東北電力の事業地域で、東京電力の事業地域ではなく、「管外発電所」の一つであり、同社によれば供給区域北限の大津港駅より約80km北方に位置する。1971年3月に1号機の営業運転を開始し、2014年1月までに全機が廃止された。2011年(平成23年)3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に起因して1 - 4号機で炉心溶融や建屋爆発事故などが連続して発生し、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故と同じINESレベル7に分類される重大事故(福島第一原子力発電所事故)を引き起こした。2012年4月19日、1 - 4号機が電気事業法上も廃止。2013年12月18日、5・6号機は震災当日定期点検中であり比較的被害が少なかったが、再稼働することなく廃止を決定。2014年1月31日、5・6号機が廃止される。2015年現在、いずれの炉も廃炉の途上にある。しかし、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律に基づく1 - 4号機の廃止措置は、使用済み核燃料の除去を要するため、見通しが立っていない。全ての原子炉は、米国のゼネラル・エレクトリック社 (GE) によって設計されたものを基本としている。プラント施工工事は鹿島建設によって行われた。7、8号機については建設計画を進めていたが、2011年3月の爆発事故の影響で、2011年5月、計画を中止する旨の発表がなされた。5号機の運転開始が4号機よりも先である経緯については福島第一原子力発電所5号機の建設参照。GEは安全規制、性能向上策の進展に伴って2〜3年おきに新型のBWRを発表し、それらは当時、1965年型、1967年型、1969年型などと呼称された。その後、建設プラントの名前を取って、ドレスデン2型、ブラウンズフェリー型などと称されたこともある。1972年に新型BWRプラントを発表する際にその名をBWR-6型とし、従来発表したプラントについてもBWR1〜5という番号付けをした。なお、格納容器にはMark番号が付いている。1950年代末期の福島県浜通りは高度経済成長の波に乗り遅れ、中通りと会津地方を含めた福島県全域の産業近代化率も全国平均の270%と比較して126%と低位であった。このため、福島県庁は産業誘致のため電源開発に努力していたが、エネルギー革命によって、茨城県助川から浜通り夜ノ森以南にかけて広がる石炭産業と、浜通り夜ノ森以北の林業が衰えて来たため、新たなエネルギー源を模索していた。ただし、『とうでん』1993年11月号によれば、東京電力社内に原子力発電課(後述)が設けられた1955年頃、東京電力の電源構成は従来の水主火従からの転換が漸く始まった頃であったが、その際に登場した火力とは石炭火力を意味し、燃料として石油を使用する事はまだ殆ど検討されていなかったため、社内では折からのブームに乗った原子力の方が石油火力より実現に向けた動きでは先に手をつけたものだったという。今井孝三のルポによれば、助川〜夜ノ森では、最盛期の1961年には42の炭鉱で248万tの生産高を記録している。しかし、1969年には3炭鉱で215万トンにとどまり、事実上常磐炭鉱磐城鉱業所の管轄する2坑口からの生産がその内訳の大半を占める状態となり、中小炭鉱はほぼ消滅した状態であった。常磐炭の需要確保のため、すでに常磐共同火力発電所が設立され、1971年当時で72万kWの出力で操業をしていたが、将来的には石炭関連産業だけでやっていくことには限界があると考えられていた。東京電力原子力発電課は、設計研究を進める一方で立地について関心を強め、課員らは伊豆半島、姉ヶ崎、鹿島、東海村、水戸射爆場跡地などを俎上に上げていた。これらの内、伊豆半島は地震多発地帯であり岩盤に亀裂が多いことから避けられ、姉ヶ崎は東京湾岸で人口密集地に近いことから対象より外された。水戸射爆場跡地は日本原電も隣接地に目をつけており、東海発電所の立地点となった。立地選定活動について定量的に記載したものとしては、調査を担当した小林健三郎が『土木施工』1971年7月号に投稿した記事がある。これによれば、発電所の総建設費を設置場所に係わりなく定まる固定費(例:主要機器)と、設置場所により変動する立地費に区分し、更に立地費を10項目に区分した。更に発電所の総建設費に送電線費を加えた額を初期投資として考慮し、立地費と送電線費が最も安価となる地点を調査した。政治、社会的条件は無視したという。この結果、同社管外を含め全国より291地点を素材地点として選定、当時の原子力立地基準に適合している73地点を選定した。実際に決定した敷地は「地点番号8:長者ヶ原」としてこの73地点に含まれている。開発規模4000MWで立地費を算定すると全国平均が4530円/kWに対して当地点は2887円/kW(いずれも算定年1967-1968年度)で平均値より低くなった。なお、双葉町に増設を決定する前の開発規模4基2812MWで立地費を算定すると3809円/kWとなり、開発規模を大きくとることでスケールメリットの利益を得られる旨が指摘されている。この間、福島県庁は東電とは別に独自に原子力発電事業の可能性について調査を実施していた。松坂清作によると県庁が調査研究を始めたのは1958年である。1958年当時の福島県知事は佐藤善一郎(中通りの福島市出身)であり、後に福島県知事に転身する木村守江(浜通りの四倉出身)は当時国会議員であったが、浜通りの夜ノ森周辺の自治体より産業誘致の相談を受け、東京電力社長の木川田一隆(中通りの梁川出身)に話してみたところ、「原子力発電所が好いのではないか」との回答を得た。しかし、木村が誘致の姿勢を示すと木川田は曖昧な態度を取り、1961年になって木川田の側から用地についての取りまとめを依頼してきたという。当時双葉町長であった田中清太郎によれば、当時、放射能に対するアレルギーは浜通りに無かったものの、発電所建設の下見のため木村や佐藤善一郎(木村守江の前任知事)が視察にやってきた際は目立つハイヤーではなく、ジープを用意してきた。当時の大熊町長・志賀秀正によれば、県の企画開発課から人が来た際にも、風体を山師のように装っていたという。『福島県史 第18巻』によると外房の沿岸は砂丘地帯が連なり強固な地盤が無かった。このため、立地の適地は関東沿岸を北上し、「東海村近く」の「茨城県北部より宮城県南部の当福島県海岸は、非常に好適地」と見なしている。県庁が実施した調査の結果からは、県内の海岸地帯が(1)小名浜周辺、波立海岸周辺、松川浦周辺を除いて単調、(2)人口希薄、(3)30m程度の断崖になっていた、の3点から適地であると判断し、旧標葉郡の3か所を選定した。この調査結果は1959年の某日東電の常務会でも田中直治郎より報告され、木川田は買収を前提にお忍びで現地の視察を命じた。また『福島県史 第18巻』によると、浜通りは送電線の建設コストでも北東北の適地よりは有利であった。また、福島県庁は当初東北電力にも打診したが、当時は奥只見水力発電所の開発が終了したばかりで供給力は過剰気味であったため、乗り気ではなかったという。県庁が提示した調査結果ではいくつか不足の点があったため、東京電力は追加調査を県に依頼した。これを受け1961年に発足したばかりの県開発公社では工業用水調査、航空撮影調査、地質調査などを実施した。1963年には大熊町に原子力発電所を建設する意向が内定した。これと併行して、福島県庁は1960年5月に日本原子力産業会議に加盟した。知事の佐藤は企画開発部を動員して綿密な科学的調査を実施させた。企画開発部にて調査研究を担当したのは技師職に就いていた酒井信夫(後福島公害防止センター長)だった。当時酒井は次のような方針を立てて調査を実施した。当時酒井の関心も誕生したばかりのBWRの安全性が確保出来るかどうかに向けられており、調査の焦点もそこに絞り込まれた。原子力産業会議に県が参加したのは調査のための情報収集を目的としており、同会議を通じて各国のレポート、政府当局、電力各社の動向などをモニターし、1961年には国際原子力会議にも出席して資料収集を続けた。なお、県側の情報収集については酒井個人の役割を強調するコメントもあり当時担当した職員の一人は「酒井主査は原子力産業に関する情報を独力でかき集めていました。(中略)庁議にもかけ県首脳部の了解を得て地域開発の一環として東京電力に話を持ち込んだのです。東京電力と話し合いをしましたところ、あそこに水が出るなら、考えてもいいということになったんです。それで開発公社の資金を利用して酒井君に地下を掘らせたんです」と述べている。福島県庁より正式に誘致を申入れたのは1960年5月であったという。その後佐藤の病死により公示された選挙戦を勝利した木村守江は佐藤の方針を踏襲し、福島県は1961年9月より東京電力と交渉を始めた。9月30日には双葉町議会、10月22日には大熊町議会が誘致を議決した。発電所誘致には両町議会共全員賛成であった。もっとも、恩田勝亘によれば、町議達には東電からの猛烈な接待攻勢がかけられたとしている。1号機所在地である大熊町の当該地は、元々は長者ヶ原陸軍飛行場の飛行場跡地(旧帝国海軍の飛行場とする記述も見られる)。第二次大戦後、この土地は民間に払い下げられた。高さ30m余りの断崖で、国土計画興業が製塩のための塩田として広大な敷地を買収していたが、製塩事業は調査時点では終了していた。また、残りの予定地もまた民有地だったが、一部が農地として使用されていた程度であり、残余は山林原野であった。東京電力は調査を進展させつつ、1964年に入ると用地買収交渉を開始、二期に渡った約96万坪、320万平方メートルの買収に要した価格は約5億円で、この他社宅地その他として約8万平方メートルを買収した。このような僻地に発電所を設置した技術的な理由は、当時の日本の原子力発電所設置の考え方として「万一の原子炉設備の破壊事故により放射性物質の大気拡散時に周辺公衆に重大な災害を及ぼさない」ため、「発電所敷地を高い人口地帯から出来るだけ離すことを必要」としたからであった。東京電力は1964年12月に調査事務所を現地に設置し、気象、海洋気象地質、地震発生率、資材運搬の地理的条件、地下資源の埋蔵状況等を調査し、安全性、経済性から原子力発電所の立地が可能と決定したのは1965年10月のことであった。以下では、県と東京電力が実施した調査結果について説明していく。本発電所の立地点は相双地帯南部の海岸段丘地帯に位置し、ゆるい傾斜のある丘陵であった。東側は上述のように元々は急峻な断崖であった。地質としては下層に砂岩、その上層にある富岡層に属するシルト岩が主体であり、更にその上を砂礫からなる段丘堆積層が覆っているが、その層厚は不整合である。砂岩はかなり締まっておりN値40以上であったという。富岡層の層厚は200〜400m、間にレンズ上の砂層を挟み、その他の性状は下記の様になっている。敷地前面の海底形状は沖合600m、1000m、1300m付近に河線に平行して高低差2〜3mの不規則な起伏があり、複雑な地形であるが、海底勾配は全体として沖合450m付近まで60分の1の急勾配、それより沖合は130分の1の緩勾配となっていると言う。海底は基層である泥岩の上に深いところで2〜3mの砂層が堆積し、水深が深くなると砂層の堆積は薄くなる傾向にあった。敷地地上8mの風向分布は調査の結果次のように報告された。英国気象局方式分類による敷地の年間の大気安定度については下記のように報告された。また、80m以上に逆転層があり、80m以下が逓減である拡散上悪い気象状態の出現頻度は年間1%程度であるという。『月刊 土木技術』の記事によれば、東電が実施した取水設備、港湾設備等の土木工事の開始にあたって、1964年12月の用地取得・現地調査事務所開設と同時に地質調査、海象調査を開始し、1966年12月の防波堤築造までの2年程実施したとなっているが、「調査期間が短期間であるため防波堤の設計に役立つ十分な資料をとることはできなかった」とも記されている。当時、発電所の立地点では継続的な潮位観測を実施しておらず小名浜港のデータ(O.P. = Onahama peil 小名浜港工事基準面)が参考にされたが、その観測結果(1951年〜1961年)は次のようになっており、こうした情報を元に防波堤の設計などが実施された。波向は次のようになっており、汀線に直角な東方向が多い傾向であった。近隣他港のデータを主に参考としたとは言え、本地点での調査自体も実施されている。波浪観測は1965年2月より開始され、波高は水圧式波高計、波向はトランシットによる目視観測を実施している。1号機を選定した際、スペインにて先行して工事が進められていた同型炉の計画を活用したが、モデルとなったサンタ・マリア・デ・ガローニャ原子力発電所1号機は内陸にあり、契約業務と並行してプラントレイアウトについて検討が進められた。その結果、海側にタービン建屋を設置し、その脇の山側に原子炉建屋と主変圧器などを設置することとした。事務本館はタービン建屋の中村側に設置し、1、2号機用超高圧開閉所は両ユニットの山側、標高35mの台地上に設置した。なお、1号機周辺の敷地は上記の標高30ないし35mの台地を掘削し、標高10mで整地された。東京電力が企画した「黎明」という宣伝映画では掘削時の映像が収められている。原子炉建屋など重要度の高い建物を岩盤に直接支持させるため(岩着、後述)であったが、津波の可能性は下記に示すように建設当初より、一定のレベルまでは考慮していた。整地面レベルは津波対策に必要とされた敷地高さ4mを上回る10mとなったが、この高さが最もコストを低減するためだった(下記別節にて詳述)。『東芝レビュー』1969年1月号にて一木忠治が述べているように、整地面レベルこれら建屋をどのような位置関係で配置するかについても幾つかのパターンが考えられている。高城真(当時東京電力原子力部電気機械課)によると、タービン建屋は復水器冷却水の取水・放水を考慮して出来るだけ海岸に近いところに設置し、本発電所では「タービン発電機の軸を海岸線と平行にし横から復水器冷却海水を取り入れ、山側にタービン建屋に隣接して主変圧器を置き、発電機から主変圧器までのアイソレ母線を短くし、さらに山側にある開閉所までの電力ケーブルが短くなるよう配慮」した。なお、2号機と3号機の間には施工管理、運転管理上20mの空地が設けられた。また、発電施設を海岸沿いに設けているため、元の海岸線からどの程度海側に突き出すかについても検討され、下記の3案を比較した。この結果、a2案が最も安価であったので採用された。敷地造成工事は後述するプラント設備のように、GEとのターンキー契約の対象ではなかった。東京電力の施工範囲とされ、東京電力の指示でゼネコンが工事に従事している。工期は1966年6月1日より1967年3月末までの10か月間であるとされたが、仮設設備や梅雨の影響を考慮すると実質的には8か月半、更に道路部分の掘削はコンクリート舗装を考慮し少なくとも2か月前には掘削を完了する必要があった。1号機分として必要なスペースは170m×200mである。この敷地造成に当たり、掘削必要量は約120万立方メートルであり、地質に適合した大型機械を使用した。具体的には標高35mから標高27mの間は柔らかい土質で地下水の湧出も少ないためのモータースクレーパーを使用し、標高27mから標高10mの間は常に地下水が湧出し地盤がぬかるみやすい層であったのでウェルポイント工法で地下水を汲み上げし、仮排水路も設置しつつ、掘削にホイールローダーが使用された。埋立、浚渫のその他の仕様数値については下記の様になっている。なお、防波堤堤体材料は東京電力が材料を建設業者に社給した。付近の小河川の産骨材は殆ど乱堀されていたので、供給源は本地点南西18kmに位置する滝川付近の原石山の社有地に採掘場を設け、骨材を生産した。コンクリートブロック、テトラポッドの生産も実施した。岩質は花崗閃緑岩、輝緑岩であった。本発電所の初代所長、今村博によれば、長者ヶ原飛行場は上述のように戦時中アメリカ海軍より艦砲射撃や爆撃を受けたため、用地造成中には土捨場から50kg爆弾が発見されて山形県神町駐屯地より不発弾処理隊が派遣されたこともあったと言う。一木忠治が東芝レビューに投稿した記事によれば、整地面レベルを決定する際、通常のプラントでは建屋設備の配置、建設作業に必要な用地を経済的に造成できることが必要としていたが、原子力発電所の場合はそれに加えて、当時から次の点を考慮していたという。高潮、津波対策としては土木的には下記の2種の方法が挙げられている。しかし、防潮堤、防波堤の構築は当時信頼度の点から好ましい手段とは見なされていなかった。そのため、整地面レベルの決定に際しては、「過去の記録あるいは何らかの科学的推論にもとづく最大の高潮や津波時の海水面レベルの上昇の想定値に多少の余裕を与えて」さらに岩盤支持の問題も考慮して最低の許容レベルが決定された、としている。なお、津波の検討に使用された参考文献として小林健三郎は下記の文献を挙げている。1966年5月20日の講演にて田中直治郎は、30mの台地を23m掘削して海抜7m程度とする旨を述べていたが、同時に「GEから見積書と仕様書が出ると、配置、レベルについてはさらに多少の変更を要するので、請負業者とは打合わす必要があると思います」としていた。その後高波、津波に対して「十分安全な高さ」を考慮し上述のように海抜10mで決定、施工された。また、地下1階まであるマークIのような標準プラントでは、東芝レビューによれば整地面レベルから10m程度掘り下げたところに岩盤があるのが望ましいとされた。結局、1号機の原子炉建屋の底面は整地面より14mほど掘り下げられた高さに位置することになった。敷地地盤高がこのような形で決定したのは、定量的な比較検討を経たからで、小林健三郎は1号機の運転開始後、次のように振り返っている。それでも写真のように、小規模な港と防波堤が建設されたのは次の理由からである。復水器冷却用水の取水法を検討した際、海底パイプライン、海底隧道、桟橋、港湾の各方式を比較検討し、最も経済的であり、且つ建設資材や運開後の燃料搬入にも使用できる港湾方式を採用した(1-6号機完成時点では毎分245立方メートルとなった)。取入口の海水輸送用の鉄管は1号機の例で直径2.4mもあった。なお、港湾方式による取水は在来の東京湾岸の火力発電プラントにおいても多用されている方式でもあった。また、重量物搬入の面が重視された背景には軽水炉特有の事情も影響していると言う。つまり、当時の一般火力に比較しても蒸気条件が低いため、圧力容器、タービン、発電機のいずれもが大型とならざるを得なかった。圧力容器を例に取ると1号機で重量440t、直径約5m、高さ約19mであり、厚肉のため現場溶接は不可能であった。このため、後述のように防波堤を港湾周囲にめぐらす工事が実施された。なお、物揚場バース長は170mである。港内波高と荷役の安全から物揚場敷地地盤高はO.P.+5mである。『月刊エネルギー』に掲載された今井孝三の見学記事では、圧力容器の他、復水器、タービン、発電機、変圧器等の重量物の陸揚げに使用され、1968年10月以降1971年2月末まで、3年弱で96隻の着岸があったという。1970年代、外洋に面した立地で発電所を建設していた国は日本の他には少なく、本発電所には発展途上国だったインドや内陸に発電所を建設する傾向が大きかったヨーロッパの技術者が見学に来ていたという。海象調査や近隣地点のデータ検討の結果、設計波高として、6.5m(1/3有義波、周期16秒、波向東北東)と決定した。防波堤の平面形状については電力中央研究所に依頼して問題点の把握に努めたという。このため、中央研究所で平面縮尺100分の1、二次元実験36分の1の模型実験(防波堤の波浪遮蔽効果実験等)が実施された。防波堤設計に当たっては日本港湾コンサルタントの助言も得ている。防波堤の設計に当たっては、取水口開渠内の最大波高が50cm以下になるように計画し、南北2本の防波堤で波浪を防ぎ、この防波堤を超えた波については取水口周辺に設けた東防波堤によって防ぐものとした。建設する港については3000トン級の船舶が入港可能なように、港口幅100m、港内泊地の水深6mを確保している。防波堤外には波消用にテトラポッドを投入した。『東電社報』1969年5月号によれば付帯施設とは言え新規に港湾をひとつ建設する工事であり、築堤のために海中に埋められるコンクリート構造物だけで約58万トンにもなった。原石山からの輸送には大型ダンプ20台が毎日7往復したという。ただし、砕石運搬道路沿いの桜を伐採する問題もあり、港湾工事を総指揮していた小林健三郎は対応に苦心したという。南北防波堤共、先端部に使用するケーソンは小名浜港で建造し、合計で10個が埋設された。1個の重量は700〜800tになる。『電気情報』1969年10月号での座談会では「太平洋の荒波に面したこのような当地点に、僅か三〜四年の短期間に、総延長二四〇〇〜二五〇〇メートルの防波堤をつくるということは、東京電力は勿論のことわが国においても初めての工事です」と新規性が指摘されている。また、発電所開所後福島民報が女性社会科教室を主催し、サービスホールを訪問した際に当時の館長菊池健の説明を引く形で「津波にしても延長二千八百メートルの防波堤がたいていの波浪をシャットアウトしてしまう」などと報じている。柴田碧によれば具体的作業の面から地震動の検討について見ると、福島や敦賀発電所の時代は、個別のプラントごとに社内委員会の形で議論されたという。福島については、河角マップを元に、1936年に宮城県沖で発生した金華山沖地震時の金華山神社の記録調査などが実施され、金華山近くの内側の地震発生機構を討議したという。豊田正敏の機械学会での発表によれば、1号機の建設当時検討した歴史地震の頻度などについては下記のような結果だったという。ここでは便宜上1号機着工に合わせる形で準備所より改組され、6号機が「完成」するまで設けられていた福島原子力建設所が存在した時期の各施設の建設経過を中心に記載する。ただし、耐震設計思想については他号機と共通事項が多いため本記事でも記載する。耐震設計については、上記のような災害想定を踏まえつつ、建設当時既に通例化されつつあった、重要度分類に応じた4段階の区分を前提に実施された。なお、本発電所1号機の耐震設計仕様書作成は1965年のことであり、敦賀発電所と炉のタイプが共通していることもあって、格納容器、ダクトの仕様については簡略化されていると言う。この結果、1号機の設計用地震加速度は下記の様に申請され、そのまま認可された。ここで、上記でも触れた岩着思想について本発電所での実例を踏まえながら説明する。日本の原子力発電所では、原子炉建屋やタービン建屋は通常の建物のように杭だけを岩盤に差し込むのではなく、岩盤が露出するレベルまで土地を掘り下げ、ベタ基礎のように人工岩盤(これをマンメイドロックと称する)のコンクリートを打設し、建屋底部を半ば岩盤に埋め込んで一体化させている。本発電所にてもこの手法が取られた。これは、同じ地震では岩盤層の方が表層地盤より揺れが抑制されると言う考え方と、揺れの際に表面の柔らかい地層に施設を建設すると、不同沈下が発生して機器の異常に繋がる可能性があるため、これを防止する目的がある。福島原子力建設所建築課長の加藤恒雄は『電気情報』1969年10月号の座談会にて、岩着思想の説明を行い「一八〇ガルの地震が加わった場合に、その上にある比較的軟らかい上層とでは、地震を受けた場合の振動は、当然軟らかい層での方が大きく揺れますので、三五メートルの標高での地表ではガルは約二倍半くらいふれることになり、四五〇ガルの地震に相当する。この四五〇ガルの地震とは、当地方では経験したことの無いもので、従って基盤で一八〇ガルを採用すれば、十二分に安全である」と説明している。なお、耐震設計については東京電力で直接実施し、その結果をGEに提示して構造計算を行っている。エリア外の浜通りに発電所を建設したため、需要地である東京首都圏への送電のためには新たな幹線を建設する必要があり、最初に建設されたのが福島幹線である。後に、日本の原子力発電所ではどこも地元自治体と安全協定を結ぶことになったが、当時は関係当事者にとっても初体験のことが多く、安全協定締結もその一つであった。松永長男によれば安全協定は法律上要求されるものではないため東京電力としても最初は締結を考えていなかったという。しかし、ある日、福島県の方から構内立ち入りと放射線モニタリング評価を骨子とした協定を要求された。松永は大急ぎで協定原文を書き上げ県に提示したところそのまま了解を貰えたため、これを成文化する方針となった。またこの時福島県側からの追加提案で双葉、大熊両町にも提示するように薦められた。松永は初代所長の今村博を通じて両町に提示したところ、「そのようなわずらわしいことには関わりたくない」旨の返答があったという。また、協定の社内手続きを済ませる前に(当時原子力行政の中心を担っていた)科学技術庁に照会したところ、原子力課長の都築(当時)が「県に立ち入り検査権を認めるというのは法律違反だ。立入検査権は国が法律に基いて保有する権利で私人の契約で認めるのはよくない」と強硬に反対したという。そのため検査という言葉は調査に改められ、協定が締結されたという。この協定は同時期に進行していた関西電力の安全協定と比較され、東電方式と呼ばれた。1号機を運開した当時の原子炉規制法でも保安規定を作成する必要が記載されていた。そのため松永長男は保安規定の作成を若手技術系社員と共同して実施した。作成関係者が原子力部内の者に限られ、安全に関係するので抽象表現を控えて詳細な内容で仕上げたが、規定は科学技術庁の認可事項であるので、ドラフトを持参してチェックしてもらったところ、「詳しすぎる。余分なことが書いてある」と指摘されたという。松永は「本質は安全を守るために必要な事項を会社の内部規定として作るものであるから、規則に定めがないから、書いてはいけないということにはならない」と反論した。結果、を原子炉規制法の許認可が必要な部分と不要な部分に区分けして別々の規定とするように提案を受けたが、交渉で押し切り原案で認可された。松永は「官庁としての感覚がよく分かった」と回顧している。下記で掲載する表にあるように、原子力発電では国産化率が指標の一つにあり、これを高めることが求められた。このような動きについては東京電力も考慮しており、『月刊エネルギー』1968年3月号にて、2号機では国産化率は1号機と同レベルに留められたものの、主契約者を国内メーカーとし、建設の責任体制を取らせ、経験多面化のため国内メーカーの建設担当個所を交換させる意向を図ったとしていた。また、田中直治郎は同記事にて日本の原子力研究が先進国に対して10年の遅れがあるとし、「このような国産化の初期の段階においては、たとえ実用規模の施設であっても研究開発の色彩が強く、完全な商業用とはいい難い」「1号炉は大容量重油専焼火力に比し経済性は及ばず、2号炉以降は大容量のものはこれに比肩しうるとしても、火力発電に比し、巨大の投資を必要とするので、準備金制度等、内部資金蓄積の措置を望むものである」としている。田中直治郎によると1965年から1966年に通産省に対して提出した施設計画では、2号機は出力60万kWで、共通施設である港湾、取水設備費を按分して発電原価低減に資することを考慮し、4号機まで本発電所に設置を検討していた。ただし田中は50Hzの機種としては60万kW程度のものがメーカー各社のラインナップに無いこと、2号機以降の炉型をPWR、BWRのどちらとするかは白紙である事、コモンウェルス・エジソン社が発注したBWRが80万kWであることを踏まえ、「60万kWでは小さいような感じがしないでもない」「今後の国産化を考えていく上(中略)機種をあまり変えますと、国産化が難しい」と述べている。1967年になるとGEは受注量の急増から500、750、1000MWの3タイプの標準容量の炉を発表した。いわゆる1967年型と呼ばれるタイプであり、後にBWR-4と改称されたタイプである。上述のように東京電力は2号機をこの中から選定し、発電端出力784MWのタイプとした。2号機の商業運転開始は1974年7月18日となった。本発電所での運転が開始され、規模が拡大されるに従い、本店を含めた原子力関係部門も逐次拡大整備されていった。1号機、2号機の運転開始は労働組合側にとっても新規性のある出来事であったため、『東電労組史 第2巻』では運転開始に当たって取り決めた諸規程、人員配置、体制その他について詳しく記載されている。下記に人員配置について示す。増設により関係人員が増加していることが読み取れる。発電直については運転開始当初から当時の火力発電と同じ3交替制を採用している。2号機と同型だが、主契約者は東芝に変わり、国産化率は約90%であった。中村良市によると、オイルショック後の需給落ち込みを理由とし、本発電所でも建設工期の繰り延べが実施された。1975年1月15日、中村の元に電源計画課長より呼び出しがあり、5、4、6各号機をそれぞれ約1〜1.5年工期延長してもらうため、工程表を翌日までに提出するように求められ、徹夜で工程表を引き直したという。延期を求められた時点で各号機の状態は下記のようになっていた。ただし、6号機は設計の遅れをこの延期で取り戻すことが出来たという。双葉町に配慮し、4号機より先に5号機の方が着工することで進められ、1971年12月に着工された。5号機の設計は基本的には2・3号機を踏襲したものだが、着工後、電力需要状況悪化により1975〜1976年の約2年間、長期保管期間を挟んだため、この期間を最大限利用して国内外の先行BWR機の貴重な経験を及ぶ限り盛り込むことができた」と述べている。結果、建設には76か月の期間を費やしている。なおオイルショックの際に早期投入を企図したのとは反対に、このような運転開始延期が響き、1977年の夏は供給力不足が懸念された。結局、1977年の定期検査では原子炉給水ノズルに熱疲労割れも発見され、1〜3号機が停止し、発電所全体の稼働率は19%まで落ち込んだ。この出来事は元バブコック日立社員田中三彦の証言により明らかとなった。4号機の主契約者は日立製作所とされ、『電気新聞』でこれが報じられたのは1971年6月の第55回電調審後のことだった。東京電力から日立が70万kW以上の原子炉を受注するのは初であった。この理由として「四号機で日立が担当しないと東電の原発計画はすぐに出力一一〇万kWの大容量に、更に五十二年度からは出力百五十万kWユニットに出力拡大が計画されているので、四号機を受注できないと日立は自主技術開発の足場を固める上で東芝に遅れをとることになる」という事情を解説している。4号機の原子炉圧力容器はバブコック日立呉第2工場で製造された。当時日本で最高レベルの技術を持つ工場であり、1974年1月にはアメリカ向けに、同国の厳しい審査をパスして原子炉圧力容器を出荷する成果も挙げていた。しかし、1974年6月、本発電所4号機用の原子炉圧力容器の製造工程の最終段階に当たる最終焼鈍という過程にて、当時の関連法規で規定した許容範囲を超えて容器が楕円形に歪んでしまった(人の目では判別不能なレベルであるが、計測すると楕円となっていた)。圧力容器を再製作した場合、工程遅延と損費発生の問題があり、パブコック日立はクリープリラクゼーションの原理を応用し、高温下にて内部から突っ張り棒(ステー)にて真円になるよう応力をかけ、容器にかかる力を軽減して矯正する計画を立てた。後に原子力撤廃の立場を明確にする田中三彦はその検討計算のため当時使用料が高額だったIBM370の使用許可を貰い、計算に当たったという。矯正作業は仏滅を避けて実施され、歪みは規定の範囲内に収まった。しかし、発注者の東京電力はこの作業を知らされることはなく、矯正後の検査で最初に立ち会ったという(後に公表されてから、朝日新聞の取材に対して東京電力は申し入れは受けていたとも回答している)。世間一般に対してこの話が公表されたのは、1988年『BOX』誌主催の反原発シンポジウムの席上であった。日立は技術的に問題ない旨のコメントを出したが、田中は下記を指摘し「後遺症」に対する懸念を表明している。ただし4号機自体は先行機で生じた不具合改修の成果を盛り込んだため、1978年8月31日に定期検査入りで停止した際、当時の日本のBWRで最長の283日間の連続運転記録を打ち立てている。基幹送電設備についても発電所の出力増大により潮流が増大することに対応して福島東幹線が建設され、1976年6月に完成している。なお新福島変電所に到達した福島幹線、福島東幹線は変電所–本発電所間に増設された新双葉線を含め、最終的に次のように分割、接続された。6号機は当初BWR-4を継続して建設する計画だったが、1976年以降の電力需要、技術開発状況、系統容量の面から電気出力を100万kW以上に増大する事とし、併せて日本原子力発電東海第二発電所の建設と道筋を揃えてBWR-5、格納容器にMark IIを採用した。6号機は1979年10月に運転開始し、発電所内に同居していた福島第一原子力建設所は廃止された。12月には関係者700名が出席し完成式典を挙行した。ニクソンショック、第一次オイルショックによる狂乱物価の影響で、建設費は高騰し、中村良市は1974年6月には現場から工事費が足りないので何とかしてくれと泣きつかれたという。しかも6号機の場合は計画稟議をとっただけで、実施稟議も申請前の状態であったのに、この要求が出される程、当時のインフレーションは急であった。結局5、4号機も更改稟議の決裁を貰い、当初実施予算と比較すると実際の建設費は下記のようになったという。1979年3月28日スリーマイル島原子力発電所事故が発生し、東京電力は事故対応策を提案し、本発電所に対しても緊急点検、県による視察、同種の事故への体制強化策などが段階的に講じられたが、その中には以前から社内で指摘されていた事項も含まれていた。本発電所の冷却系統配管、炉心シュラウド、ジェットポンプ等において、ステンレスが大量に使用された。当時使用されたのはSUS304と呼ばれる種類である。経済企画庁総合計画局は2号機が電調審で早期決定を見た際にはハダムネック、サン・オノフレ、インディアン・ポイント2号機、ドレスデン2号機、ブラウンズフェリー等の先行運開予定BWR-4プラントの経験が「貴重な資料となろう」と結んでいる。しかし、これらの内ドレスデンなどで応力腐食割れが発生したにもかかわらず、目立った対策はすぐにはとられなかった。後にはシュラウド交換の原因にまでなったが、当初は懸念材料として社外向けの技術誌『火力発電』1968年12月号への投稿記事で記述する程度にとどまった。名嘉や菊池のようにGEの技術力を評価する者がいる一方で、その反対のエピソードもある。本発電所で運転に従事していた豊田正敏によれば、応力腐食割れ対策を東京電力が究明した際、当初GEは「応力腐食割れが起こる確率は低く、特に二十インチ以上の配管は心配ない」と主張したという。しかし、内外の専門家の意見を聞き、東京電力はGEの主張するほど発生確率は低くなく、二十インチ以上の配管でも発生すると判断した。対策としては豊田の東大第二工学部時代の同期生であった安藤良夫のアドバイスで、大規模改修をしなくても溶接個所の配管内面が圧縮応力になるように、配管内面を水冷し表面から高周波を当てる高周波誘導加熱応力改善法を東芝、日立と開発して乗り切った。1号機の運転開始から数年すると、応力腐食割れ対策を施したSUS316が原子力発電にも使われるようになってきた。このため、改良標準化計画以降の原子炉はSUS316を使用するようになり、容易に交換可能な部分については既存の炉でも交換工事が順次実施された。ただし、稼働率の回復時期(対策工事完工時期)については当時見通しの甘さがあった。『電気情報』1977年4月号に収載された座談会記事(座談会実施は1976年11月)にて、当時東京電力原子力保安部の職にあった豊田正敏は、1974年から75年に発覚したトラブル(米国の同型機で発覚した再循環系バイパス管のヘアクラック(応力腐食割れ)、2号機のチャネルボックス損傷)に対策を講じたことを根拠に、日本国内全般の原子力発電所を包含してではあるが「五一年度以降は比較的良好な稼働率が得られる見込み」としていた(一応、同対談に出席していた中部電力の安井恒政より1977年までを含んで「ここ一両年のうちに解決される」と追加説明が入っている)。この対談で指摘された低稼働率とは50%以下を指す。しかしながら、本発電所の1976、1977年の稼働率は最悪の状態を記録し、1, 2号機については下記のような成績に終わっており、持ち直し始めたのは1978年度に入ってからであった。1980年に『投資経済』が取材した際の回答によれば、初期に発生した応力腐食割れの内、配管については順次定期検査時に交換していった。交換された配管は材料、溶接法を改善したもので、この作業が加わる事で定期検査日数が10〜20日ほど延びるものの、1981年度中には交換予定箇所は全て交換済みとなる見込みとの回答であった。また、4号機以降では先行機の経験をフィードバックして最初から改善策を盛り込んだため、配管において応力腐食割れ問題は起こっていなかったという。更に、運転法も改善され、起動時に脱気運転を行う事で炉水中の溶存酸素を減少させるように工夫されたという。東京電力は負荷追従運転について、1972年8月22日に開催された労使間の経営協議会にて「環境・資源問題に対処する電力資源活用の推進」とする総合的な施策を提案し、火力発電は大気汚染源であるので汚染物質の含有量が少ない「貴重な良質燃料の有効活用」がその軽減には必要であるが良質燃料は高価で生産量が少ないことが難点であるため、「原子力についても高利用率運転を行ない、これにより火力特に湾内火力の発電量を軽減し、公害防除と良質燃料の有効活用をはかる」とされた。1979年になると、夜間や休日に出力を下げる負荷追従運転、AFC(自動周波数制御)運転について当時の東京電力原子力開発本部長、豊田正敏は「昭和60年代前半」(1980年代後半)には必要である旨述べており、当面は1、3号機を対象に実証試験を実施する計画を立てていた。その後、運転員の負荷を軽減するため、本発電所の3、5号機に出力調整装置が設置され、計算機シミュレーションで解析を行いつつ、実証実験は段階的な実施となった。しかし、本発電所においても試験目的以外での負荷追従運転が実施されたことは無い。コーストダウン (coast down) 運転が導入された。榎本聰明が『とうでん』1982年10月の座談会で述べたところによると、これは燃焼が進んで定格出力が出せなくなり、従来の手順では制御棒を挿入る時期に達していても、敢えて制御棒を挿入せずに出力を従来より緩やかに下げる運転方法であり、操作回数を減らすことも出来る。「操作のため出力を下げるより損失が小さい間は」この運転法が優れているという。『とうでん』1983年3月号によれば、この頃本発電所で原子炉起動方法も改善し、6号機の起動に最初に適用した。原子炉の起動当初は制御棒を段階的に引き抜いていくことで出力を上げていくが、急速に出力を上昇させた場合、ある閾値以上の出力では、その出力変化が急だと燃料を破損することがある。そのため、燃料の一部でも閾値に達したら、制御棒での操作から、出力変化の緩やかな流量操作に移行する。従来、予測計算の精度が粗く、経験の蓄積が無かった頃は制御棒を2グループに分け、1グループずつ操作していたが、計算精度の向上と経験の蓄積を元に、出力分布が平坦になるような新しい操作法を採用すれば、前述の原則に反することなく出力を上昇させられることが判明し、監視用計算機で監視しながら制御棒の引き抜き手順を変更した。これにより従来100%出力への推移に約9日かかっていたものを約5日と4日間短縮し、3,960万kWhの増加電力量を得た。この操作方法は3号機、5号機と他の号機でも採用していった。各原子炉プラントの建設後も運転に伴い発生する放射性廃棄物の処理は1980年代まで大掛かりな改良が続けられた。東京電力は低成長時代への対応策として1980年6月に「80年代経営の基本路線」を定め、具体的な構想として「第3次業務機械化」を推進した。こうした状況の中、東京電力は原子力部門にて、3段階のフェーズに区切って20のサブシステムから成る原子力発電業務の総合電算化の計画(「原子力管理業務総合機械化計画」)を構想し、1985年度から3か年をかけて開発を進めることとした。当然、本発電所にもホスト用の計算機、端末が社内LANと共に導入され本店の大型ホストコンピュータと接続された。1989年1月、福島第二原子力発電所3号機にて再循環ポンプに異常振動が発生し、同機は最終的に運転を停止した。その後の調査で、水中軸受リングと呼ばれる部品が破損し、周辺部品の破片と共に炉内を循環していたことが明らかとなった。ほぼ同一の設計は本発電所の再循環ポンプにも見られたことなどから、東京電力は再発防止策として下記4点を実施、県と地元町も立入り調査を実施した。なおこの頃になると日本の原子力発電は品質管理の徹底を重ねてシステムとしての信頼性を高めてきたという認識が原子力を容認する者の中で当然視される風潮があったが、『原通』(2805号)はこの事故の対応を取り上げた際、近畿大学原子力研究所の柴田俊一の「過去に起こった原子力事故をみると、いつも新しいパターンで起きている。(中略)原子力発電については本格化してから、たかだか30年位のものであるし、これで新しいパターンの現象がもう出てこないとは言い切れない。やはり新しいパターンは出るかも知れないという緊張感だけは失ってはならない。」というコメントを引用し、品質管理・マニュアル偏重の姿勢に警鐘を鳴らしている。下記に述べる強化ベント検討の件はこの再循環ポンプ事故対応、信頼回復策を取っていた時期と期間が重複している。チェルノブイリ原子力発電所事故後、西側各国でも既存原子力発電所の安全性について見直し機運が高まり、事故から2ヵ月後の1986年6月、アメリカ合衆国原子力規制委員会 (NRC) 内にてMark Iのシビアアクシデント対策の検討が提唱された。1987年、米NRCはという報告書を出し、確率論的安全評価手法を導入して同国の幾つかのサイトをモデルに安全評価を実施した。この中でBWRプラントに対する電源喪失リスクが高いことが指摘された。NRCの検討過程で問題となったのは同格納容器の容積の小ささで、全交流電源喪失事象が発生し、炉心の冷却設備が機能不全に陥った際、格納容器内に水蒸気が溜まり内圧が上昇、最悪の場合水蒸気爆発に至ることが懸念され、この対応策として強化ベントを施設することが考案された。検討作業結果は1989年1月に5項目の提案として纏められ、その中で「耐圧性を有するウェットウェルからのベント能力の確保」として明記された。その後、1989年7月5日にNRC決定がリリースされ、強化ベントについて次のように決定した。このNRC決定に対して、当初東京電力は否定的で次のようなコメントを出した。なお、『福島民友』も上記東京電力のコメントを報じたが、資源エネルギー庁から次のようなコメントを得ている。なお、上記決定は仮に強化ベントを追設しないとした場合、他に有効な安全策を提示することを求めており、事実上強化ベント設置を義務付けるものであった。更に、米国でNRC決定が出された時点で西ドイツやスウェーデンでは強化ベントの設置を進めている段階にあった。『福島民友』は義務付けに対しては産業界から反発の声も出ると報じていた。一方、NRCによると「多くのMark-I型プラント所有者は耐圧強化ベントを設置する方向で考えている」状況であった。NRCの決定を受け、日本側では資源エネルギー庁が1986年8月14日より「セイフティ21計画」を省議決定し、同計画の中でシビアアクシデント規制対応の体制を構築し、後のAM手順書に至る事故時の運転マニュアル整備に着手した(この当時欧米ではベント手順を含むマニュアルが整備されていることに対応したもの)。ここで、AMは2段階のフェーズに分けられ、強化ベントはシビアアクシデントに拡大してもその影響を緩和するフェーズIIに区分された。なお、1990年1月に資源エネルギー庁は国内の代表的なBWR-4プラントとして本発電所を選定し、全交流電源喪失時の耐久能力要求時間、耐性時間を試算し資料として添付した。また確率論的安全評価 (PSA) も実施したが、当時の国内プラントの運転実績から炉心損傷確率そのものが一桁近く小さく、そのケースの1つであるベント操作に至る事故発生確率が小さい値であったため炉心損傷確率の低減効果は小さいと評価された。このため結論として「(欧米と)同様の対策を直ちに反映させる必要性はないものと考えられる」とされた。その後同庁はフェーズIのAMは整備したがフェーズIIについては強化ベントの有効性を確認したものの、設備対応が必要のことから導入を躊躇した。その後、1992年に「発電用軽水型原子炉施設におけるシビアアクシデント対策としてのアクシデントマネジメントについて」が原子力安全委員会にて決定された。一方、1999年までIAEAの事務次長を務めた原子力工学専門家ブルーノ・ペロードは、1992年に東京電力に対して、福島県に設置されているMark I型軽水炉の弱点である格納容器や建屋を強化し、水源を多重化し、水素爆発の防止装置をつけるように、などと提案したが、東京電力の返答は、GE社から対策の話が来ないので不要と考えているというものだった(下記のように限定的な対策は実施に移された)。『読売新聞』はフィルター付きベントの設置を進めていたフランスと対比し「シビアアクシデント対策というと、『原発はそれほど危険』と反原発運動に利用されるとする政府の懸念がある」と匿名の日本国内研究者複数が指摘したとしているが、代表的な反原発運動家の高木仁三郎は『朝日新聞』に対し「対策の遅れは、積極的にやりたくないという業界の意向を反映したもの。(中略)こうした姿勢こそが問題」としている。また、反原発運動が当時の日本以上に盛んなドイツなどでフィルター付きベントが設備されたことについて「チェルノブイリ事故で盛り上がった反原発運動を鎮める狙いもあった」とむしろ原子力に対する疑いの目が安全強化を促した旨のコメントも報じられている。このように強化ベント設置などの過酷事故対策について日本では東京電力他電力各社、行政共消極的であったが、1992年7月28日、通産省は従来方針を転換、1993年末を目途に各電力会社に過酷事故対策について検討を行うよう文書で通達した。1994年2月1日には電力業界による検討結果の骨子が明らかにされ、原子力安全委員会の承認を得た上で1995年より定期検査を通じてBWRに強化ベント追設等の工事を実施することとなった。もっとも、『朝日新聞』が「方針転換」と報じたことに対して電力業界は『電気新聞』を通じて次のようなコメントを出し反発した。1994年3月29日、東京電力は、このような動きの中、通産省から要請された過酷事故対策の概略を福島事務所で公表し、3月31日に通産省に「アクシデントマネジメント検討報告書」を提出、1996年の定期検査より着手するとした。対策完了は2000年で、費用は1プラント当たり約10億円が見込まれた。1994年10月24日、同省は検討結果を妥当なものと判断した。1995年12月、原子力安全委員会はこの対策案を妥当とした。1996年から着手という計画は遅延したものの、本発電所における最初の工事は6号機で1998年2月の定期検査に合わせて実施された。東京電力にとって初の対策工事でもあった。2000年までに実施完了の目標は変更されなかった。本発電所において対策工事が完了した時期は不明だが、電力各社は2002年5月29日、原子力安全・保安院に全プラントの対策工事が完了した旨報告している。なお、この追設にGE・ニュークリアエナジーは関与していない。本発電所の原子炉が6機体制となった際、非常用ディーゼル発電機は複数の炉で共用するものを含めて合計10台設置されていた。これらは各種注水系・ポンプ等に代表される「工学的安全施設」の電源として機能するため、岩着した構造物に設置することとされ、また、数千kWの出力を持つ非常用発電機は重量物でありそれ自体の振動もあるため、1〜5号機ではタービン建屋の地下階に設置されていた。その他の理由として、GEが1号機の建設をターンキーにて請け負った際、米本国でハリケーンによる暴風で倒木などが舞い上がり、建屋に突き刺さることを懸念して地下に配置した設計をそのまま導入したという事情もあるとされる。また、これらが各プラントに付属する設備として分散配置されているが、建設時より1994年までは、専用の非常用発電機が1台しか配置されておらず、2台目の非常用発電機は隣接するプラントと共用となっている場合があり、福島原発事故独立検証委員会は2号機の2台目が1号機と共用されている例を挙げている他、このような関係は上記3号機の設計で述べたように3・4号機でも見られた。NUREG-1150が出された後の1992年、ブルーノ・ペロードも助言の際、非常用ディーゼル発電機の増設に言及した。このような交流電源喪失への対応策の強化として1994年、外部電源喪失時の起動失敗の確率を低減するため、東京電力はアクシデントマネジメント策と呼応して3台の増設を申請し、それぞれ2号機、4号機、6号機に増設する形となった(下記に表で一覧化)。この際、増設したディーゼル発電機は原子炉建屋やタービン建屋とは別棟(共用プール建屋)に収納された。なお、既存の10台は水冷式でディーゼル発電機の冷却を海水を取水して実施、そのためのポンプが海岸沿いに設置された。増設された3台は空冷式であった。空冷式としたのは、海水ポンプが機能を喪失しても非常用発電機として運転を継続できるように考慮したためであった。この内6号機の増設非常用発電機は1階の配置だが、他の増設非常用発電機に比べても高い位置に設置された。この理由は鈴木篤之によると「たまたまスペースが無かったから」で、それに対しインタビュアーの田原総一朗が「高いところへ置くと決めると、日本のすべての電力会社がそうしなければならなくなるけれども、たまたま六号機は、場所がなかったから高いところに設置することができた、と」と述べ、鈴木は同意している。また、1〜2、3〜4号機にはシビアアクシデント対策として電源融通用のケーブルが敷設されたが、それらが繋がる金属閉鎖配電盤は浸水対策を考慮していなかった。なお、1978年6月、地震により2号機用の送電線碍子が破損し送電を停止したことがあった。舘野淳は1999年に初出した著書でこれを取り上げ、碍子は材質的に破壊されやすいため所外からの交流電源喪失の要因となり「大事故に繋がる恐れがある」と警告している。本発電所の使用済燃料貯蔵施設容量は後の世代の原子力発電所に比較し小規模だったが、1990年代に貯蔵施設の増設を行って他発電所に比較しても遜色ない水準となった。運転開始から20年程の年月が経過したことで、本発電所の定期検査工程は、トラブルや改造工事の入らない場合でも標準で90日余りを擁していたものが、機械化の進展、実績の積み重ねなどにより1990年代にはBWR-4で76日に短縮されていた。1990年代、本発電所の稼働率は順調に推移し、当時の世界的な平均値と比較しても高位の値を記録していたが一方で、からの情報で海外では30-40日程度で検査を実施する事例についても知ることとなり、東京電力は現状の信頼性を確保することは前提としつつ、各原子力発電所にて定期検査日程を60日に短縮する目標を掲げ、一部のプラントで実施に移した。最初に実施されたのは1995年に本発電所4号機のケースである。各工程での短縮は下記のように計画された。今後継続して実施することを前提としているため3交替作業はとらず、一部に2交替作業を導入するに留めた。短縮に当たっての課題は、初期のプラントであるため機器点検スペースが手狭で、設備も後発プラントに比較すると整っていない条件がネックとなり、下記のポイントを主として解決した。応力腐食割れ対策については交換可能な部分については上述のように1980年代初頭までに手がつけられていた。一方、シュラウドは容易には交換可能ではなかったため交換出来ない状況が続いたが、上述のようにシュラウドについて応力腐食割れが進行し、1994年に2号機のシュラウドに亀裂が生じるなどのトラブルも生じてきた為、対策としてシュラウドの交換技術を1990年代に数年かけて確立し、1997年6月より1年ほどの工程で3号機にて世界初のシュラウド交換工事が実施され、その後1990年代末に各号機のシュラウド交換工事を順次実施する計画が立てられ、2000年代にかけて2, 5, 1号機も順次実施された。1987年4月23日5時15分に福島県沖でM6.5の地震が発生した。本発電所での揺れが当時の警戒値である220Galを超えてスクラム信号を発することは無かったが、1、3、5号機では平均出力レンジモニター (APRM) で通常値の98%から118%まで上昇し「警戒値を超えたため」停止したと説明された。原因は不明であった。一方で4、6号機も運転中だったがこちらは停止しなかった。高木仁三郎は下記のような問題点を指摘している。その後も本発電所や東北電力の女川原子力発電所にて、停止基準以下の加速度の地震でも原子炉が自動停止する事態が起きた。この原因究明を電力6社と日立、東芝の共同研究により実施してきたが、地震発生時に燃料

出典:wikipedia

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