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旭富士正也

旭富士 正也(あさひふじ せいや、1960年(昭和35年)7月6日 - )は、青森県つがる市出身で大島部屋所属の元大相撲力士、第63代横綱。本名は杉野森 正也(すぎのもり せいや)。現役時代の体格は身長189cm、体重143kg。得意技は右四つ、寄り、掬い投げ。現在は、年寄・9代伊勢ヶ濱親方。ネット上ではよく組長と呼ばれている。血液型はB型、趣味は音楽鑑賞、映画鑑賞。近畿大学・通信教育課程卒業。木造町立木造中学校、私立五所川原商業高等学校在学中は相撲部に所属。高校時代の長野県で行われた第33回国民体育大会では、少年の部の団体優勝に貢献した。高校卒業後も相撲の名門である近畿大学(大阪府東大阪市)に入学したが、近大相撲部の合宿所での団体生活に馴染めない等の事情により、2年時に相撲部を退部、近畿大学も一旦退学していた(のちに、現役力士時代に近畿大学の通信教育部に再入学して卒業、学位は学士)。暫くは故郷の青森に戻り、漁業に従事していたが、その一方で相撲の稽古も一人で続けていた。その光景を当時の大島親方(元大関・旭國)の目に止まってスカウトを受ける。一度は断ったものの、その後大島部屋への入門を応諾したきっかけは、旭富士が初土俵の時点で大島部屋がまだ創設丸1年と歴史の浅い小部屋で、関取が一人も所属していなかったという理由もあると言われている。後年本人が光文社のインタビューで、漁が休みの日におじの薦めで東京見学へ行って相撲部屋を見学したことが角界入りのきっかけと明かしており「大島親方に『ハンコを出せ』と言われ、出したら勝手に使われて入門が済し崩し的に決定した。騙して部屋に置けば何とかなるとでもおじは思っていたのだろう」と入門に至るまでの経緯も詳しく語った。同じインタビューでは、入門時点で自身が20歳と部屋の所属力士最年長であったためやりやすかったとも話していた。相撲甚句歌手の北脇貴士曰く入門当初は役所広司のような風貌であったという。1981年(昭和56年)1月場所初土俵。実質無条件(体重別選手権に上位入賞する程度)であった幕下付出基準を満たす前に中退したため、20歳でありながら前相撲から始めるという当時としては珍しい角界人生の幕開けだった。それは本人も自覚しており「初土俵から1年で十両」と目標を持つことで力士寿命の面で損をしている点を補っていた。本名の杉野森で取った前相撲では格の違いを見せ、3月場所は序ノ口優勝。5月場所から四股名を「旭富士」と改めた。これは師匠・大島親方の現役時の四股名・旭國と、入門当時に頭角を現した「昭和の大横綱」第58代横綱・千代の富士にちなんで名づけられたという。もっともこれは若名乗りの名で、大島親方やタニマチは幕内に昇進したら大島の現役時代の四股名を継がせ、2代目旭國を名乗らせる予定でいたが、タニマチが宴席で「早く幕内に上げて、親方の名前を継がせなきゃ」と切り出した際、本人が「自分の名前を大きくしたいから」と断り、大島親方は憤慨しつつも結局許され、最後まで旭富士で通したという逸話が伝わっている。旭國は1967年(昭和42年)3月場所で幕下優勝を果たしているが、その場所に三段目で優勝した人物が「旭冨士」という、静岡県出身で時津風部屋所属の力士だった。前述の目標より1場所遅れたものの、新十両まで7場所と十二分なスピード出世を果たす。1983年(昭和58年)3月場所新入幕、前頭10枚目で8勝7敗と勝ち越し。ちなみに大乃国(のち第62代横綱)もこの場所新入幕で、後の横綱2人が同時に幕内昇進する場所となった。翌5月場所は初の上位挑戦となる前頭4枚目まで上昇、3日目に当時新大関の朝潮と初顔合わせの対戦でいきなり殊勲の星を挙げたが、同場所は結局4勝11敗の負け越しに終わった。なお1983年9月場所13日目の大関・若嶋津戦では前袋を掴まれて寄り切られた挙句、審判がその反則に気付かなかったというハプニングに見舞われている。続く11月場所、小結昇進。新三役を射止めた際には入門時と同じように年齢的なハンデを志の高さで補うつもりで「5年で大関」と目標を語った。この時は関取衆から笑われたといい「大学時代の実績が皆無なのに目標だけは高いから、それは笑うはず」と本人も自覚していた。しかし同場所は3日目大関・北天佑を破るも6勝9敗。前頭4枚目の翌1984年(昭和59年)1月場所3日目、第61代横綱・隆の里戦で右足首を捻挫する怪我により途中休場、同年3月場所は幕尻(前頭14枚目)まで降下してしまう。非力ながら前さばきが良く、懐の深さを生かした柔軟な体つきが持ち味で、新入幕当時から将来の大関候補と期待されていたが、当初は三役に定着できず伸び悩んだ。しかし、バーベルトレーニングなど体力面の強化が実り、地力が徐々にアップした。1984年7月場所で第55代横綱・北の湖を破り初金星。同年11月場所では幕内では初の2ケタ勝ち星の11勝4敗を挙げ初の三賞となる敢闘賞を受賞。1986年(昭和61年)1月場所には新関脇で、それ迄一度も勝てなかった千代の富士にやっと初勝利するなど、11勝4敗の好成績を挙げ初の殊勲賞を受賞。この年以降2度平幕に落ちた以外は三役に定着。2度目の関脇復帰となった1987年(昭和62年)3月場所で10勝5敗を挙げると以後、10勝5敗、11勝4敗、12勝3敗と安定した成績を収め、同年9月場所後に待望の大関昇進を決めた(直近3場所合計33勝12敗)。幕内から三役時代には技を活かして勝つ相撲が多く、技能賞を5回も受賞している。新大関の1987年(昭和62年)11月場所では11勝4敗の成績を挙げる。大関2場所目の翌1988年(昭和63年)1月場所は初日から13連勝し、14日目に第61代横綱・北勝海に敗れ初黒星を喫したが、千秋楽結びの一番では大の苦手としていた横綱・千代の富士を下し、14勝1敗で念願の幕内初優勝を果たした。次の横綱候補に名乗りを挙げ、翌3月場所で初の綱獲りに挑んだが、初日にいきなり苦手の栃乃和歌戦で黒星発進、終盤で共に優勝決定戦進出の横綱大乃国・北勝海に共に敗れて12勝3敗で惜しくも綱獲りは失敗に終わった。その後も7月場所の11勝以外は全て12勝を挙げる安定ぶりで、同1988年の11月場所では自身初の年間最多勝(73勝)を受賞。場所を通してみれば常に安定した成績を収めていたが、終盤まで優勝争いに加わるもここ一番で敗戦というパターンが続いて、あと一歩で優勝を逃すという場所が続いた。1989年(平成元年)1月場所では、初日から3場所連続全休明けの北勝海と共に12連勝。13日目に大乃国に敗れついに1敗するも、14日目に最大の難敵・千代の富士を破った。そして千秋楽、一人14戦全勝だった北勝海を寄り倒し、共に14勝1敗同士の優勝決定戦へ進出するも、決定戦では逆に北勝海に寄り倒されてしまい優勝同点に留まる。翌3月場所では13勝2敗の成績を挙げ優勝次点だったが、中盤の連敗と千代の富士戦が千秋楽休場による不戦勝だったことも響いて綱獲りならず。さらに5月場所も13勝2敗で優勝決定戦に進んだが、その決定戦では再び北勝海に呆気なく送り出されて、又しても優勝同点に終わってしまう。このように1989年1月場所から5月場所の連続3場所で40勝5敗、優勝同点2回の好成績を収めており、横綱昇進の基準である「大関で2場所連続優勝、又はそれに準ずる成績」に該当し、横綱になって当然の筈であった。だが1987年11月場所後、優勝経験が一度も無しのまま横綱昇進した同門(立浪一門)の第60代横綱・双羽黒(立浪部屋)が不祥事で廃業したことから、当時は横綱昇進基準厳格化の声が高まっており、その煽りをまともに受ける格好で不運にもことごとく昇進が見送られた。横綱推挙を見送られ続けたショックからか旭富士は暴飲暴食に走り、次の7月場所には大関昇進前に発症した持病の膵臓炎を悪化させてしまう。その影響からなる稽古不足も祟ってか、中盤辺りから崩れて8勝7敗に終わり、綱獲りは完全に白紙に戻されてしまった。この病はその後も約1年近く苦しみ、7月場所から翌1990年(平成2年)3月場所まで5場所連続で8・9勝の1桁勝ち星に終わるなど、それまでの活躍が嘘のように不振が続いた。慢性膵炎の治療により食事制限が課され、野菜と米だけで15日間乗り切らざるを得なくなった場所も1度経験したという。当時29歳の年齢もあり、好角家やマスコミ陣などから「横綱昇進は絶望的」と見られ、「悲運の大関」で終わるかとも思われていた。それでも病気は徐々に回復していき、1990年(平成2年)5月場所ではその他横綱・大関陣らと共に初日から7連勝。中日に千代の富士に敗れるも14勝1敗で、14場所ぶり2度目の優勝を遂げ、三度横綱候補に名を挙げるようになる。30歳で迎えた翌7月場所は3日目に平幕の両国に苦杯を喫したが、4日目から11連勝して単独トップに立つ。そして千秋楽結びの一番では、宿敵の千代の富士を倒して14勝1敗で3度目の優勝を2連覇で果たし、場所後に苦労の末ようやく横綱昇進を達成した。この千代の富士との対戦、二人が土俵際投げの打ち合いになり、旭富士が千代の富士の頭を押えつけながら掬い投げで下した。「取組の直後、極度の疲労により20分から30分の間吐き気に襲われた」と当時の様子を後に本人が述懐している。なお旭富士の大関在位の17場所中、負け越し・角番は一度も無かったが、横綱昇進者では武蔵丸の32場所に次ぐ長期記録となっている。昇進伝達式ではこれまで膵炎で何度も入院した経験もあって「健康に留意して相撲を取ります」との文言を口上に採用した。横綱土俵入りは、人数が少なく「短命」のジンクスが有る不知火型を敢えて選んだが、これは所属する立浪一門が代々不知火型を採用していた(羽黒山・吉葉山・双羽黒)という事情もあった。土俵入りの指導は一門外の佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)が行った。また昇進伝達式後によく行われる騎馬に乗っての記念撮影では、珍しく部屋の関取衆(旭道山・旭豪山・旭里)が組んだ騎馬に乗った。新横綱の1990年9月場所は初日から12日目まで12連勝を達成。先場所から24連勝を記録したが、13日目で大関霧島に初黒星を喫した。そして千秋楽結びの一番は北勝海と横綱同士13勝1敗での相星決戦となったが、北勝海に敗れて13勝2敗の優勝次点に留まり、惜しくも旭富士の3連覇はならなかった。翌11月場所では優勝争いに名を連ねる12勝3敗を挙げるも序盤で2敗しており、14日目には千代の富士に敗れた直後31回目の優勝を許す形となった。それでもこの年は2年ぶり2回目の年間最多勝(70勝)を受賞。翌年1991年(平成3年)1月場所と、続いて3月場所も序盤での取りこぼしが見られ11勝4敗に終わるなど、横綱昇進以降はやや成績下降の状態が続いていた。横綱5場所目の同年5月場所、横綱陣は初日から北勝海と大乃国が全休、さらに千代の富士も3日目の相撲を最後に引退したため、4日目から旭富士だけの一人横綱となる。5日目安芸ノ島に敗れたものの、その後は連勝を続け14日日で13勝1敗、14連勝で単独首位の大関小錦を追う展開になった。千秋楽結びの一番、旭富士は本割りで小錦の両廻しを掴みがぶりながら寄り切り、二人は14勝1敗同士の優勝決定戦にもつれ込む。そして決定戦でも旭富士は立合い左への変化から、最後は肩透かしで巨漢の小錦を見事に横転。本割り・決定戦の連勝を果たし、大逆転で旭富士が4度目の幕内優勝を飾った。旭富士にとって横綱昇進後では初めての優勝だったが、これが現役最後の優勝ともなった。翌7月場所は優勝候補筆頭と言われたが、初日で新小結・貴花田に敗れ、その後も膵臓炎の再発で大きく崩れてしまい8勝7敗。なお、この場所千秋楽の北勝海戦が、日本出身力士の横綱同士による最後の対戦となっている。又これが旭富士の現役最後の千秋楽まで皆勤場所となった。9月場所は2日目の若花田に、右手一本の上手投げで吹っ飛ばされる等散々の内容で6日目より途中休場、平幕時代の1987年1月場所から続いた連続勝ち越し記録も、28場所でストップした。翌11月場所も慢性膵炎と脊椎分離症のため全休した。そして復帰した1992年(平成4年)1月場所、病が回復しないままで進退を賭けて臨んだものの、初日・曙、2日目・安芸ノ島に良い所無く連敗。最後の相撲となった3日目・若花田にも下手投げで敗れて3連敗を喫してしまい、同場所限りで現役引退を表明。引退会見では「気力の限界で、もう力が出ないので引退させていただきます」と力が抜けるように言い放つ。在位数は僅か9場所の短命横綱に終わった。引退相撲は、1992年9月場所後に行われた。当時は横綱空位だったため、同じ大島部屋所属の幕内力士だった太刀持ち・旭道山と露払い・旭里を従えて、旭富士として最後の横綱土俵入りが披露された。断髪式では、止めバサミを大島親方が入れると、感極まって旭富士は大粒の涙を流した。引退後、四股名の「旭富士」を年寄名として5年期限の年寄を襲名。その後、若いころから目をかけてくれた同じ青森県出身で同じ一門の安治川親方(元関脇陸奥嵐)が病気を理由に廃業する意向を示したことから、引退相撲の後に、後継者として大島部屋から安治川部屋へ移籍する。1993年(平成5年)春に年寄「安治川」と安治川部屋を継承し、旭富士親方改め安治川親方となり、その後は陸奥北海らを関取に育てあげた。又大相撲ダイジェスト(テレビ朝日系列)では、力士に対して厳しい解説が話題を呼んだ。スーツ姿で指導し話題となった貴乃花親方とは対照的に、当時の安治川親方は「廻しの切り方などを実際にやって見せられるから」と40代半ばに入っても廻しを締めて稽古場に下りて稽古をつけていた。部屋を受け継いだ直後には、相撲雑誌のインタビューに答えて、陸奥北海や春日富士に稽古をつける際、どれだけ力を入れるかを「こうですね」と笑いつつ実際に動作をしてみせたこともある(春日富士に胸を出し、転がす時の方が少し力が入っている)。なお、部屋継承後の直弟子で関取の安美錦、その兄安壮富士は、彼の従兄弟の息子である。2007年(平成19年)5月場所後、安治川部屋(当時)と同じ立浪一門である宮城野部屋から、一門では旭富士以来17年ぶりに白鵬が横綱に昇進した。5月31日には白鵬に対し、不知火型の横綱土俵入りを指導。その土俵入りに「オレよりも上手。足腰の構えが低くて、格好良いよ」と絶賛していた。2007年11月30日、日本相撲協会は年寄「安治川」(4代)の、「伊勢ヶ濱」(9代)への名跡変更を承認。結果暫く断絶していた伊勢ヶ濱部屋を再興し、名門復興へ歩み出した。2011年(平成23年)、従兄弟半の安壮富士の大相撲八百長問題への関与の責任として、委員から主任へ降格。2012年(平成24年)1月30日の理事選挙に立候補したが、落選した。同年9月場所後、モンゴル出身の愛弟子で大関・日馬富士が第70代横綱へ昇進が決定。日馬富士も伊勢ヶ濱親方と同様横綱土俵入りは不知火型を選択。しかし指導の際、土俵入りを数度間違える日馬富士に対し「一つ一つ動作を決めないと、流れでやると決まらない。(白鵬より)時間が掛かり過ぎ、イメージして来なかったのかな。相撲を十番取る位の気迫がなければ」と辛口の評価だった。なお、同年11月場所は白鵬・日馬富士の二人共不知火型を披露したが、複数の現役横綱が不知火型を継承することは大相撲史上初めてのケース。2013年1月31日、理事補欠選挙に立候補し、無投票で当選した。同年2月4日の職務分掌で、大相撲本場所の審判部長に就任した。2013年11月場所4日目に吐き気等の体調不良を訴え、日本相撲協会は胃の検査を理由に伊勢ヶ濱が千秋楽まで休場することを発表した。同場所後の12月7日に退院、体重は10kg痩せて95kgとなっていた(病名は膵炎)。退院後は通院せず薬の服用で回復に努める方針が示され、同月20日の理事会から公務に復帰した。2014年1月31日の理事選挙でも当選し、審判部長に留任となる。2015年5月27日には、横綱日馬富士と同じモンゴル出身の照ノ富士が大関昇進を果たした。2016年1月29日の理事選挙で3選し、3月30日の職務分掌で、審判部長から大阪場所担当部長に異動となった。 (カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数)

出典:wikipedia

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