高島 忠夫(たかしま ただお、男性、1930年7月27日 - )は、日本のタレント・俳優・司会者である。本名は高嶋忠夫(読み同じ)。所属事務所は東宝芸能。兵庫県武庫郡(現神戸市東灘区御影町)で、姉妹弟のいる4人きょうだいの長男として出生。祖父は大地主で不動産収入があり、そのため父は琵琶師匠を称していたが弟子もおらず、生涯定職についていない家だった。神戸一中に進学。同じクラスに作家の小松左京と國弘正雄がいた。小松とは、一緒にバンドを組んでいたこともある仲。六・三・三制になり、神戸一中五年から神戸高三年へ。しかし神戸高を退学。1年間ジャズに没頭した後、関西学院高等部へ今で言う「水泳推薦」で入学。高校では団鬼六がボーカルだった軽音楽クラブに所属した。。1951年に映画会社新東宝のニューフェイス「新東宝スターレット」の第1期生として芸能界入り。スターレット同期生は天知茂、久保菜穂子、小笠原弘、松本朝夫ら18人。映画界入りしたことで関西学院大学は2年で中退した。本名の高嶋忠夫から芸名を高島忠夫として、21歳で上京して東京暮らしを始める。俳優座で俳優の勉強とボイストレーニングをし、このときに歌の才能が認められて、本格的に歌の練習をやるよう勧められる。1952年の映画『恋の応援団長』でデビュー。同年に『チョイト姐さん思い出柳』で初主演し、以後新東宝で主演級の歌うスターとして活躍。高島の映画出演は1950年代から1960年代が中心で100本以上の出演作の大半がこの時期のものである。特に『坊ちゃんシリーズ』の主役は当たり役となった。作曲もこなし、1958年には「東京ダーク・ムーン」をフランク永井に提供している。その後、「君はミュージカルスターになれる」との菊田一夫の誘いで東宝に移籍。東宝ミュージカルのほか、コミカルな演技が印象的な『キングコング対ゴジラ』や「日本製の本格的ミュージカル映画」として後年評価された『君も出世ができる』などの東宝映画や、東宝系列の宝塚映画に出演するようになる。1963年には日本初のブロードウェイミュージカルとして上演された『マイ・フェア・レディ』に出演して評判となる。女優の寿美花代とは、1961年に寿美が司会のテレビ番組『季節のミュージカル』にゲスト出演したことから知り合い、2年間の交際を経て、1963年に結婚。『ごちそうさま』で長く夫婦で共演していた。結婚後、長男・道夫をもうけるが、1964年に生後5ヶ月で当時17歳の家政婦によって殺害されるという事件に見舞われる(高島忠夫長男殺害事件)。1968年、東映動画の『アンデルセン物語』では声優をこなし、ミュージカル仕込みの明朗なテノールの歌声を披露している。東宝移籍後は壮年にさしかかるとバイプレーヤーとして脇に回り、『土曜ショー』の司会者をしたことをきっかけにテレビの仕事が増え始め、1970年代からは本格的にテレビに進出して司会業を行う。料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』などの司会業の他、『ゴールデン洋画劇場』では映画解説をつとめ、いずれも長期に渡る人気番組のホスト役として活躍する。1970年代半ばには暴飲暴食によって、糖尿病を発病。一時は体重が120kg近くになったが、和食中心の食事にして3年後に体重を70kg台に落とした。1980年代後半に次男の高嶋政宏、三男の高嶋政伸がともに俳優としてデビュー。以降は芸能一家の代表格として親しまれる。1993年からは家族4人共演でファミリーコンサートを定期開催した。1995年に実家が阪神・淡路大震災で被災して全壊。糖尿病を発症して以後、一時禁酒したがダイエットに成功した頃より飲酒を再開。不眠症で酒と睡眠薬に頼って眠る日々で、アルコール依存症になっていた。1997年から1998年にかけて26年間続けて愛着のあった仕事である『ごちそうさま』の司会交代や母親が入院(2000年死去)したこと等々がきっかけで、1998年に重度のうつ病を発症し、レギュラー番組の『ゴールデン洋画劇場』『暴れん坊将軍』など4本を降板して治療にあたる。降板にあたっては糖尿病であると説明していた。翌年に症状が改善したことから仕事復帰し、復帰初仕事のトーク番組『徹子の部屋』の出演の際にうつ病だったことを告白した。しかし無理がたたって再発し、再び療養していたが、2003年ごろから徐々に芸能活動を再開、2007年春から完全復帰。以降は家族とともにうつ病への理解を深める活動を行っている。高島の闘病生活は2007年6月にドラマ化された(ドキュメンタリー・ドラマ「うつへの復讐 〜絶望からの復活〜」、日本テレビ、6月26日放送)。さらにパーキンソン病を発症し、2010年には不整脈のため心臓にペースメーカーを取り付ける手術を行った。2013年6月18日には「カスペ!」(フジテレビジョン)で「独占密着!真実の高島ファミリー「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」~寿美花代・献身愛で闘う夫の病~」と題して、5年ぶりにテレビ出演を果たした。明るく楽しいキャラクターをセールスポイントにし、妻の寿美とはおしどり夫婦のイメージ通りに夫婦喧嘩をしたことがなかった。次男の政宏によれば、鬱病を発症するまでは家庭でもテレビなどと同じように明るくテンションが高かったという。そのため、長い躁状態から鬱状態になったのではないかと推測している。新東宝時代も、調子のいい男とみられたり、ぼんぼんという感じだったという。一方で関西弁だからと、井上梅次の映画の配役から外されたことがあった。家族ともども世界的シンガーであるフリオ・イグレシアスの大ファンで、1985年8月に『クイズ・ドレミファドン!』にフリオが出演して以降、家族ぐるみで付き合いがある。音楽番組やバラエティー番組では、よくフリオ・イグレシアスとのエピソードを披露している。2010年のフリオ・イグレシアスの7年ぶりのコンサートに、観客の立場ながら同行していた。前述の「カスペ!」の密着取材においても、フリオの台湾公演で再会した模様を取り上げ、普段は倒れないようにと持っていた杖を使わず、自力で立ち上がり、ステージ終了後にも楽屋裏で対面した。
出典:wikipedia
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