西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年(昭和9年)12月18日 - 2010年(平成22年)11月7日)は、プロデューサー、アニメーション監督。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ)。アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』などを企画製作した。東京府東京市小石川区原町(現・東京都文京区白山)に生まれる。父親は東大法学部卒で日本興業銀行勤務、父方の祖父は薬学者で東京女子薬専(現・明治薬科大学)校長を務めた西崎弘太郎、母方の祖父は海軍大将、父の妹は日舞の西崎流家元の初代西崎緑。1947年、父の命令で開成中学校を受験したが失敗し、家出して4日後に帰宅。私立武蔵高等学校に入学し、1953年卒業。文学座の舞台『欲望という名の電車』の杉村春子の演技に感動し、1955年に文学座の研究生となり、端役で舞台を踏んだものの、2年後に自動車事故で怪我をして俳優は断念した。また2度の東京大学受験に失敗して父親から一度は勘当される。4年間の浪人生活を経て、1957年、日本大学芸術学部演劇学科に入学。1959年8月に大学を中退したとする資料もあれば、1957年に日本大学を卒業したと伝える資料もある。1958年頃より食べることに困って、六本木のジャズ喫茶の司会をやり、ジャズ解説などで生計を立てるようになる。当時の愛称はザーキ。その後は、マネージャーとして、ダン池田とアフロキューバン、東京マンボ、ミュージカル・アカデミーの全国巡業に帯同した。1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る。1963年10月、オフィス・アカデミーを設立。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌ぎ、創価学会の顧問弁護士だった山崎正友と水産品を扱うシーホースという会社に出資して共同経営した。ショー製作の本数は約200本。1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた。帰国後の1970年には手塚治虫の知人からの紹介で、手塚と個人契約を交わしてマネージャーを務めるようになり、手塚作品のテレビへのプロモートを行った。1971年2月頃より、手塚が社長の虫プロ商事に企画制作部長として就任。多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図ったが、急進的な改革は専横状態となって人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る。1972年、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同年にオフィス・アカデミーの社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする。続いて手塚治虫の『ワンサくん』の映像化権を取得。仕事のない虫プロダクションは自社での『ワンサくん』の制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される。個人プロデューサーとして、1973年1月より瑞鷹エンタープライズのテレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』を製作。同年4月より虫プロ制作で『ワンサくん』を放送した。放送終了後の11月に役員を務めた虫プロが倒産。虫プロの再建運動を進めていた労働組合と交渉して、1974年6月に和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある。この頃、手塚治虫とはトラブルから絶縁状態になる。1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した。1979年、徳間康快と角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫。同時期には吉田喜重監督による実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)をプロデュースして、メキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている。1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹や山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた。角川とともに「日本映画界の革命児」とも言われて脚光を浴びた。しかし出資していた山崎正友経営のシーホースが経営悪化に陥り、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、資金繰りに追われるようになり、1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った。前述の『汚れた英雄』の映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した。活動の拠点をオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として再出発し、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』でいったん終焉。『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が1985年に劇場公開されるが、配給収入の推定は2億円と大失敗となり、借金を抱える結果に終わった。初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演のバイク映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が1987年に公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した。経営破綻したレンタルビデオの童夢の事業を1987年から引き継いだが営業不振によって1990年代になって資金難に陥る。1991年にジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワークが倒産。さらに1997年にウエストケープ・コーポレーションとともに西崎個人も破産。この過程で資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む製作した作品の著作権を失う結果を迎える。1997年末と1999年には覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕された。1999年に下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる。服役中、自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴。翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立。一連の事件では、2003年2月に懲役5年6ヶ月の実刑判決が確定。刑務所で服役した後、2007年12月に釈放。2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督。。2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された。。2010年12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した。没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。1997年12月2日、東京都渋谷区の宮下公園前の路上で運転していた乗用車から、覚醒剤50グラム、ヘロイン6グラム、大麻8グラムが発見され、覚せい剤取締法などの違反容疑で警視庁渋谷署に逮捕された。覚せい剤取締法等違反で起訴されて、1998年6月に一審で懲役2年8月の実刑判決を受ける。西崎側は判決を不服として控訴。。1999年2月1日、警視庁銃器対策課と静岡県警により、銃砲刀剣類所持等取締法、火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕される。容疑は、自宅のワゴン車に擲弾発射器付き自動小銃、小銃用実弾を約1800発、擲弾を約30発、覚せい剤20グラムを所持していたというもの。続けて5月12日には自動小銃の密輸容疑で再逮捕。西崎が所有するイギリス船籍の外洋クルーザーオーシャンナイン号へこれらを隠していたが、清水港のドックに入れる際に隠すため、自宅に移し替えていたとみられる。健康上の理由での保釈中の犯行だった。取り調べに対して、海賊対策のために10年前に香港で購入したと供述したが、警察は武器の密輸と転売で利益を得ようとしたのではないかとみていた。この事件の公判でフィリピン海域に出没する海賊対策のためと、同船で尖閣諸島へ上陸した石原慎太郎を警護する必要から、フィリピン沿岸警備隊の司令官から購入したと主張するも、1999年6月9日、覚せい剤取締法等違反事件は最高裁で上告棄却、懲役2年8月が確定。2000年10月25日、銃砲刀剣類所持等取締法・覚せい剤取締法・火薬類取締法・関税法違反事件の一審で懲役5年6月の実刑判決を受ける。西崎は不服として控訴。。西崎は不服として上告。2003年2月20日、上告棄却。懲役5年6月が確定し収監。2007年12月19日、刑期を終えて出所。
出典:wikipedia
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