熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。熊野参詣道ともよばれる。紀伊半島に位置し、道は三重県、奈良県、和歌山県、大阪府に跨る。熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。このような「道」が世界遺産として登録された他の例には、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(文化遺産、スペイン)がある。道が世界遺産として登録されること自体はまれである。熊野古道の遺構の特徴として、那智山にある大門坂など舗装に用いられた石畳が残っていることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。また、江戸時代に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。熊野古道の中には、国道や市街地のルートと重複していて吸収されてしまったものもある。こうしたことが生じるのには紀伊半島の地理が関係している。すなわち、紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われている。このため、古来より交通開発が困難であり、交通路に適する場所は限られている。現在もこの事情は同様であり、結果として、現代の主要な交通路は古人の拓いた道に並行し、さらには上述のように重複することになる。世界遺産に登録されたものが熊野古道の全てではないことにも留意する必要がある。これは、熊野詣それ自体の盛衰もあって正確なルートが不明になっている区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートがありそのすべてが対象となっていないこと等による。なお、そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもある。熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。熊野三山は、天皇から貴族、庶民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集め、皇室で参拝したのは、908年(延喜7年)の宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる。熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで、1281年(弘安4年)の亀山上皇の熊野御幸まで、その期間は374年間、94回行われた。熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野御幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を行っている。源氏や平氏にも信仰され、平安・鎌倉時代の僧侶であった一遍や文覚も参詣した。室町時代になると、貴族のほかに武士や庶民の間でも熊野詣が盛んになり、「蟻の熊野詣」とまでいわれるほど、凄まじいほどの参拝者の大群であったといい、熊野三山の繁栄も頂点に達し、熊野参詣道も広域道路として整備された。江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ。1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。熊野古道(特に紀伊路、中辺路)には大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山までに100近くの熊野権現を祭祀した末社である九十九王子があった。参詣者は、九十九王子で休憩しながら熊野三山まで歩いた。現存するものは少ない。
出典:wikipedia
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