小平事件(こだいらじけん)は、1945年(昭和20年)から1946年(昭和21年)にかけて、東京とその周辺で発生した連続強姦殺人事件である。小平義雄事件とも称する。加害者の名字が事件名の由来であるため、小平市はこの事件と関係はない。太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職口の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で行われた連続事件である。初めの強姦・殺人事件から1年以上を経た1946年(昭和21年)8月17日、7人目の被害者女性が遺体となって発見されたが、直前にこの女性と会っていた小平義雄(こだいら よしお。当時41歳)が逮捕され、犯人であると判明した。小平が他の事件への関与も自供したことから、連続強姦殺人事件が発覚した。小平は事件10件について起訴され、3件が無罪、7件が有罪となった。1948年(昭和23年)11月16日、小平に対する死刑判決が確定し、翌年10月に執行された。1905年(明治38年)1月28日生まれ。子供の頃から吃音症であった。1923年(大正12年)6月に横須賀海兵団に入団、海軍軍人となったが、戦地として赴いた中国(山東出兵)においても婦女暴行や妊婦の殺害などを行っていたという。1924年5月海軍三等機関兵曹として退役。その後小平は結婚したが、浮気相手である女性に子供を産ませていた。1932年(昭和7年)7月、それを知った妻が小平から離れて実家に戻ったところ、逆上した小平は妻の実家を襲撃、鉄棒で義父を殺害し、6人を負傷させた。この殺傷事件で小平は懲役15年の有罪判決を受けたが、二度の恩赦によって1940年(昭和15年)に仮出所した。逮捕後の取り調べおよび公判での本人質問の際に「戦争の時にわしよりむごいことをした連中を大勢知っていますが、平和なときにわしだけひどいことをした者はいないと思います。全く人間のすることじゃありません」と答えた。一審から上告審を通して弁護人は小平本人の希望で元司法次官、元大審院部長の三宅正太郎博士が弁護人を務めた。また公判時には当時は幅広く許可されていた法廷内での写真撮影及び新聞記者によるインタビューには一切応じず、常に深編み笠を被って顔を隠し続けた他、一審における判決公判時には本人及び三宅正太郎弁護人による『法廷内での写真撮影及び取材活動の一切の禁止』を求める申し立てが裁判長によって認められた。この申し立てが認められた事がその後の裁判所内における撮影、録音の禁止、取材活動の制限に繋がったと指摘されている。死刑判決直後は粗暴な態度が目立った小平であったが、面会に来た妻が自責の念を泣いて告白したことや、また教誨師との交流を通じて、次第に態度を改めていった。1949年(昭和24年)10月5日に死刑執行。当日、教誨師に対し「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と言った。そして、「自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うしてください」とする遺書と「亡きみ霊、赦し給へし過去の罪、今日を最後に深く果てなん」という辞世の句を残した。映画化作品と犯人役の一覧である。
出典:wikipedia
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