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アステカ (プロレスラー)

アステカ(1970年7月16日 - )は、日本の男性プロレスラー。プロレスリング華☆激の創始者。「神獣アステカの伝説」をモチーフとした覆面レスラーである。本名は非公開。"九州の有名人"というニックネームを持つ。長崎県長崎市出身。福岡市南区在住。福岡市立花畑中学校卒。ハラキリ・ハカタのリングネームは、コミックプロレス用の別キャラクターとして使用している。白い立髪を靡かせながら宙を舞う、コスチュームも鮮やかな実力派・和製ルチャドール。単身メキシコに渡りルチャリブレの動きを学び、メキシコマットでデビュー。帰国後はインディー団体を転々とするが「茂木新団体設立」の報を聞き、レッスル夢ファクトリー入団を直談判。1997年6月8日、福岡県山川町(現:みやま市)にて華☆激を旗揚げする。現在は華☆激をアピールするべく九州の各マスコミに露出し、他団体に積極的に参戦している。さらに若手レスラーの育成にも従事している。博多ライトヘビー級王座の最多防衛記録保持者(9回)である。初代タイガーマスクに憧れてプロレスラーを志し中学時代にスクワット、高校時代にボディビルのジムに通いウエイトリフティングで体を鍛える。高校卒業後東京に行き新日本プロレスの事務所と会場を何度も訪ねるが、その度に門前払いを喰らう。やっと入門テストを受けさせてもらうが、トータル800人の受験希望者の中の20人に残るも不合格(合格者は小島聡1人)。日雇い労働で50万円貯めてメキシコに渡り、師匠・磁雷矢を頼りに練習を開始するも環境の違いに戸惑い練習についていけずすぐに帰国。運送会社の事務職で働き夕方から磁雷矢に紹介されたシュートボクシングのジムで練習する。ちなみにアマ・シュートボクシング歴が3年ある。ヘルニア治療のため帰国した磁雷矢と共に練習をするようになり、スパーリングパートナーを努めながらプロレスのトレーニーングを教わる。再び磁雷矢がメキシコに渡った後に、もう一度50万円貯めて再度メキシコに渡る。今度はトレーニングの成果もあり練習についていけるようになる。1993年5月、メキシコ・ネッサ アレナ・ドス・デ・フニオにおける、対 デリート&アポカリプシス(パートナー 磁雷矢)戦でデビュー。帰国後みちのくプロレスで日本デビュー(対・磁雷矢)。フリーとして様々な団体に上がる。一時期SGPに所属する。1995年にレッスル夢ファクトリー入団。レスラーとしてのキャリアを積む。1997年に夢ファク内の一派として華☆激を旗揚げ。所属選手として夢ファクの試合に出つつ、時折華☆激単独の自主興行をしていた。このころから華☆激のエース兼若手選手のトレーナーとして活躍する。2000年、華☆激を夢ファクから独立させる。ただし関係は続いており夢ファクの福岡大会などに出場していた。博多ライトヘビー級の初代王者になる。師匠・磁雷矢率いる、ルチャリブレ日本との抗争を繰り広げる。2001年、ドス・カラスと対戦する。この年の末に華☆激が崩壊の危機を迎える。苦渋の末、解散を宣言するも周囲の引止めにあい、団体を存続させることを決意する。11月24日に大阪プロレスタッグチャンピオンになる。パートナーはミラクルマン。2001年〜2003年まで大阪プロレス「天王山」に、他団体枠で出場。2001年は1回戦でツバサに勝って、マスコミにも注目されたが2回戦敗退。以降は1回戦負け。2001年にディアブロとのタッグで大阪プロレス・タッグリーグ戦にも参戦。2002年、新日本プロレスに参戦し、後に獣神サンダー・ライガー戦も実現させる。また、ドス・カラス・ジュニアとの縁でDEEPに参戦を果たした。和田良覚に負け、一宮章一と引き分ける。和田戦は、福岡ローカル番組「ドォーモ」で「男の生き様〜31歳 覆面レスラーの挑戦〜」と題された特集が放送された。2003年5月23日、自身のデビュー10周年大会でリッキー・フジとのダブルタイトルマッチに勝利し、第5代レッスルブレインジュニアヘビー級チャンピオンになる。この時点で博多ライトとのシングル二冠王だった。2004年、博多ライトヘビー級王座の最多連続防衛記録を樹立。2005年8月、鈴木みのると対戦する。テレビ番組「saku saku」にコスモ☆ソルジャーと共に出演。木村カエラと共演する。2007年、田口隆祐の持つIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦する。2010年4月29日、スカルリーパーA-jiに勝利し、第2代九州無差別級シングル王者となる。2010年12月26日、FTOの二代目・上田馬之介に破れ、九州無差別級シングル王者を失う。2013年7月7日、FTO主催の「第一回覆面九州トーナメント~覆面は俺たちの魂だ!!~」にて優勝する。2016年7月21日、全日本プロレス佐賀大会の試合後、控室に着いてすぐ背中と胸、下顎の激痛に襲われる。救急車を呼んでもらい、すぐに急性心筋梗塞と診断され、即手術の結果一命をとりとめる。心臓の30%が壊死した。現在は心臓の負担を減らすため体重を減らすなどのリハビリ中である。余談だがアステカとは出会った時から犬猿の仲である富豪富豪夢路が、8月7日に大橋サマーフェスティバルで行われた試合で、「生きろよアステカ」と書かれた掛け軸を掲げるパフォーマンスを行った。特技がマスク作りで、マスク職人としても有名である。自分のマスクやマントも手作りで、コスモ☆ソルジャーのジャケットなども作っている。プロレスラーとしての収入と平行して、マスクの製作・販売も、生活の収入源としている。獣神サンダー・ライガーのマスクのうち以上はアステカ製である。DRAGON GATEのスペル・シーサーのマスクもアステカ製である。過去にはスペル・デメキンのマスクなども作っている。ここ数年はザ・デストロイヤーのマスク制作を担当しており、毎年夏に納品している。

出典:wikipedia

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