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滋野氏

滋野氏(しげのうじ)は、「滋野」を氏の名とする氏族。信濃国小県郡の氏族。姓(カバネ)は朝臣。清和天皇の第4皇子貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄(現:長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことに始まるとされる。また、同じ清和天皇の第2皇子貞固親王(さだかたしんのう)や貞秀親王を祖とする説もある。しかし、貞保親王が信濃国に下向したことを裏付ける確かな記録はなく、更に善淵王とその父目宮王の存在も立証されておらず、後述する楢原氏(紀氏)系滋野氏の末流とも、国牧の管理者である大伴氏の流れとも考えられている。承平8年(938年)、平将門に追われ東山道を京に脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃御牧の牧監(管理者)滋野氏の下に立ち寄っており(旧知の間柄とも伝わるが、正確な関係は不明)、滋野氏のみならず小県郡司他田真樹らの信濃国衙の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。その後滋野氏は、善淵王の玄孫にあたる滋野則広の嫡子・重道の代に海野を名乗り、その子の代に根津氏・望月氏に分かれ、以後信濃国小県郡や佐久郡を中心とする名族として栄えたとされ、鎌倉時代には信濃全域から上野国吾妻郡にまで滋野氏流を名乗る支族が広がっていった。また滋野氏流を名乗る諸族のうち、海野氏・根津氏・望月氏は特に「滋野三家」と呼ばれ、滋野党を始めとする嫡流の家柄とされた。滋野氏は『尊卑分脈』には記載されておらず、吉川弘文館刊行の「日本古代氏族人名辞典」によると「滋野氏は、紀(直)氏と同系氏族」とされており、紀伊国造と同系の楢原氏が最初と思われる。いくつかの資料から、始めは楢原造で、次いで伊蘇志(いそし)臣となり、延暦17年(798年)に滋野宿禰(家訳)となったのが「滋野姓」の初見となる。その後弘仁14年(823年)に家訳と子の貞主が滋野朝臣を賜って滋野氏となったとされる。また、同族の名草宿禰安成が仁寿2年(852年)に滋野朝臣と改姓した記録もある。滋野貞主は、娘を仁明天皇の女御とするなど朝廷内で一定の地位を認められていたようで、最後は正四位下で相模守を兼ねた。弟の滋野貞雄も、仁明天皇の子文徳天皇の後宮に娘を入れて悦彦親王(惟彦)をもうけ、最後は従四位上となっている。この貞雄の孫とされる滋野恒蔭が貞観10年(868年)に信濃介に任ぜられ、続いて貞主の次男・滋野善根も貞観12年(870年)に信濃守に任ぜられ、滋野一族と信濃の関係が生じる。天暦4年(950年)には、恒蔭の孫にあたる滋野恒信が牧監となって信濃国小県郡新張に住し、海野幸俊を名乗ったともされる。この項の滋野氏(以下、信濃滋野氏)が祖と称する貞保親王と、上述の信濃と関係を持った楢原氏系滋野氏との直接的な関係は未だ判明していない。信濃滋野氏の嫡流と称する海野氏の家系図では、貞保親王と貞雄系統の女(恒蔭の娘)との間に生まれのが善淵王の父である目宮王としており、上述の滋野恒信(海野幸俊)と目宮王は従兄弟となる。他に、光孝天皇の子源国紀(國紀)の子にも滋野姓を名乗る者(滋野公忠)がおり、光孝源氏の支流として伝えられている。こちらも楢原氏系滋野氏や信濃滋野氏との関係は不明。信濃滋野氏の系図は、海野氏や根津氏・望月氏の三家やその支族に伝えられた物(この時点で信頼性に疑問符が付く)しかなく、その多くは戦国期に散逸している。戦国期を生き抜いき近世大名として立藩した根津氏や海野氏流を名乗る真田氏などの資料も、信頼性が疑問視されている。検討が必要であるが、根津氏支族とされる浦野氏の浦野文書には同じ家でありながら複数の系図が残されており、信濃滋野氏起源の系図も存在する。同書には永禄9年(1566年)に清和天皇後胤滋野親王二十六代浦野美濃守友久として絵馬を献上した記録が残され、貞保親王の孫が治療のため小県郡の沓掛温泉に滞在したと記載されている。

出典:wikipedia

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