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藤原伊尹

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿。右大臣藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた。しかし、その翌年に早逝。子孫は振るわず、権勢は弟の兼家の家系に移る。父の師輔は右大臣として村上天皇の天暦の治を主導した実力者だった。妹の中宮安子が村上天皇の後宮に入り、東宮憲平親王、為平親王、守平親王といった有力な皇子を生んでいる。天慶4年(941年)従五位下に叙される。 村上天皇の時代の天暦・天徳年間に蔵人に補任され、美濃介・伊予守など地方官を兼任した。ところが天徳4年(960年)に父が急死する。この時伊尹は従四位上蔵人頭兼春宮権亮兼左近衛権中将で、弟の兼通・兼家もそれぞれ従四位下中宮権大夫、正五位下少納言に過ぎず、九条流は衰退の危機を迎えた。しかし憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目では参議に進み、康保4年(967年)には従三位、続いて上臈4名を飛び越して権中納言に転じる。その間に弟の兼通・兼家を相次いで蔵人頭に送り込むことに成功、村上天皇との関係を強化した。同年、村上天皇が崩じて安子所生の憲平親王が即位(冷泉天皇)。伯父の実頼が関白太政大臣となったが、天皇との外戚関係がなく力が弱かった。その一方で伊尹は天皇の外伯父として権大納言に任じられ、翌安和元年(968年)正三位に昇る。伊尹は冷泉天皇に娘の懐子を女御として入内させ、師貞親王が生まれている。冷泉天皇には狂気の病があったため長い在位は望めず、東宮にはとりあえず同母弟の為平親王か守平親王が立てられることになった。そして選ばれたのは年少の守平親王だったが、これは為平親王の妃が左大臣 源高明の女子であり、将来源氏が外戚となることを藤原氏が恐れたためだった。さらに翌安和2年(969年)には源満仲の誣告により高明は謀反の咎で突如失脚、大宰府へ左遷されてしまった(安和の変)。この陰謀の首謀者は諸説あるが伊尹が仕組んだという説もある。同年冷泉天皇は守平親王に譲位(円融天皇)。東宮には冷泉天皇の皇子で伊尹の外孫である師貞親王が立てられた。天禄元年(970年)には右大臣を拝す。同年摂政太政大臣だった伯父の実頼が薨去すると、天皇の外伯父である伊尹は藤氏長者となり摂政に任じられた。翌天禄2年(971年)には太政大臣に任じられ、正二位に進む。ここに伊尹は名実ともに朝廷の第一人者となったが、それから程ない翌天禄3年(972年)に病に倒れる。死期を悟った伊尹は上表して摂政を辞し、まもなく薨去した。享年49。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。伊尹の後任の関白には兼家が有力だったが、中宮安子の遺言によってその兄の兼通が任じられた。永観2年(984年)、円融天皇が譲位して師貞親王が即位した(花山天皇)。外伯父となった伊尹の子の中納言義懐が朝政を執るが、花山天皇は兼家の策謀によって出家させられ一条天皇に譲位、外祖父の兼家が摂政となった(寛和の変)。絶望した義懐は出家遁世、これ以後の伊尹の系統は振るわなくなってしまった。性格は豪奢を好み、大饗の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせたことがある。父の師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、伊尹はこの点は守らなかった。和歌に優れ、天暦5年(951年)梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰和歌集』の編纂に深く関与した。『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に38首が入首。家集『一条摂政御集』(『豊蔭集』)がある。書家として名高い藤原行成は孫であり、そこから世尊寺家を輩出した。『大鏡』において、伊尹の若死についての以下の逸話がある。※日付=旧暦

出典:wikipedia

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