トゥヴァ共和国(トゥヴァきょうわこく、、トゥバ共和国とも)は、アジアの中央部に位置し、ロシア連邦を構成する共和国の1つ。東はブリヤート共和国、南はモンゴル国、西はアルタイ共和国、北西はハカス共和国、北はクラスノヤルスク地方、北東はイルクーツク州と接している。この地域は、クラスノヤルスク時間帯の標準時を使用している。時差はUTC+7時間で、夏時間はない。(2011年3月までは標準時がUTC+7で夏時間がUTC+8、同年3月から2014年10月までは通年UTC+8であった)鉱工業、畜産、毛皮獣捕獲非鉄金属、希金属、石炭、アスベスト、鉄鉱、金、銅、イリジウム、雲母、岩塩、グラファイト、大理石、マグネサイト、硫黄北はサヤン山脈によってハカス共和国、クラスノヤルスク地方と接し、南はほぼ()によってモンゴル国と接する。国内を流れるほとんどの河川はエニセイ川の水系である。主要河川はウルグ=ヘム川(、上エニセイ河)と、その左岸支流の()である。さらに上エニセイ川は、クズル市で合流する(、Bii-Khem、大エニセイ川)と(、Kaa-Khem、小エニセイ川)よりなっている。共和国には多くの湖が存在する。サヤン山脈と、タンドゥ山脈に挟まれた大きな盆地ともいえる地勢で、「盆地」の平均標高はほぼ1000m。最低標高は、ウルグ=ヘム川(上エニセイ河)がクラスノヤルスク地方に流出する550mで、最高地点は3,976mの( - )である。トゥバ人64%、ロシア人32%が住む。この地域は、清代の(漢字表記:唐努烏梁海)に相当する地域で、元滅亡後はオイラトのジュンガル・ホンタイジ国とのに支配される複雑な歴史を送ってきた。清代になると、オイラトと東モンゴルを支配するハルハに対して清がタンヌ・ウリャンハイを巡って争った。1755年に乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を滅亡させて、清がタンヌ・ウリャンハイを併合した。しかし、緩衝国となっていたジュンガルが無くなったことでロシアの進出が始まった。1727年のキャフタ条約を切っ掛けに、清朝が国境警備兵をサヤン山脈から()に移していた。1839年になるとロシア帝国がこの地域に入植を開始し、サヤン山脈に2つの金鉱山を開いた。それでも1911年の辛亥革命まで名目上は清の領土であったが、ロシア帝国はトゥバ人の分離主義運動を扇動しトゥバを形式的に独立させ、その後1914年にロシアの保護領とした。1917年のロシア革命に伴う混乱は、トゥバを再び独立させた。1921年に、ロシア共産党によって一般的にはタンヌ・トゥバと呼ばれているトゥバ人民共和国(露:')が建国された。トゥバ人民共和国は、1944年にソビエト連邦に自治州として編入され、1961年にはトゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国として自治共和国に昇格した。1992年3月31日にトゥバ共和国はロシア連邦条約に調印し、ロシア連邦の連邦構成主体となってからは、共和国の名称もロシア語表記の 'からトゥバ語表記の に変更された。中華民国は、現在でもトゥバが自国領であると主張しており、最近まで発行されていた官製の「中華民国全図」には、自国領として中華人民共和国統治区域・モンゴル国などに加えトゥバが含まれていた。当時の地図では「唐努烏梁海」という表記であった。政府議長(首相)は、ショルバン・カラ=オール(2007年から)。直轄地が2都市と17地区からなる。
出典:wikipedia
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