今城 誼子(いまき よしこ、1908年(明治41年) - 1993年(平成5年)2月12日)は、1971年まで香淳皇后付の女官を務めた人物。今城定政子爵の女子。 女子学習院高等科卒業、1929年より当時の皇太后(貞明皇后)に出仕、「浜菊掌侍」という源氏名で呼ばれた。皇太后は宮中祭祀に熱心で、旧来の皇室の慣習を厳格に守る人物であり、今城は出仕中に強くその考えに傾倒したものと思われる。1951年の皇太后の崩御後、当時の侍従次長・甘露寺受長の紹介で香淳皇后に出仕することとなった(女官昇任は1953年4月10日)。皇后の信頼が極めて厚くなり、それを背景に宮中で強い影響力を振るうに至ったが、入江相政(1969年〈昭和44年〉 - 1985年〈昭和60年〉まで侍従長)ら昭和天皇付の側近と対立、最終的には昭和天皇の支持を得た天皇側近たちによって、1971年(昭和46年)、自主退職に追い込まれる。入江は1965年(昭和40年)以降、その日記で「魔女」というニックネームで今城のことを記述しているほど、彼女を忌み嫌っていた。入江が今城について問題視したのは、下記の点などについてである。1971年4月、入江はついに皇后の抵抗(一時は欧州訪問への同行を拒むほどであった)を押し切って、訪欧に随行する女官の人選から今城を排除する。5月には宮内庁長官の宇佐美毅が昭和天皇に今城の問題点を洗いざらい奏上、続いて、欧州訪問の「お供がいけないといふのに置いておけないといふ理由で罷免のお許を得る」という事態になり、遂に今城は同年7月29日をもって依願退職することとなった。今城がこの間、香淳皇后はもちろん高松宮妃喜久子までも動かし、入江側についた北白川祥子女官長の更迭などを画策したが、昭和天皇が入江を支持したため、今城の画策は失敗に終わった、と入江は日記の中で述べている。今城は皇后から当初の退官予定日だった1971年6月30日に、「この度御上にざんげんする者あり残念なことですが退職させる様な事になりましたが良き時期に再任します 昭和四十六年六月三十日 良子」という拇印入りの手紙を拝受したり、退官後の新居が完成する迄の間、赤坂御用地内に仮住まいを許されたが、香淳皇后がこの仮住まいに電話をかけていることが知られると、宮内庁から電話を撤去されてしまった。再任は空手形に終わったが、御用地からの引っ越しの朝、三笠宮妃百合子御手づからのおにぎりが届けられるなど、香淳皇后を始めとする一部の皇族は、今城を皇室に忠誠を尽くす者と捉えていたようである。入江相政日記の公刊や今城の遺族の証言によってこうした解釈が明らかにされて以降、今城のことがジャーナリズムによって皇室の裏話として時折り取り上げられることがある。多くの場合、入江日記で与えられた「魔女」というニックネームも紹介される。訪欧情報の漏洩の事実関係は不明であるが、今城が新興宗教と関わっていると考えた入江をはじめとする宮内官僚たちにとって、皇族までも利用して訪欧随行や留任のために工作したり、退任後一年近く官舎へ居座ったり、退去時にトラブルがあったと受け止められた今城の一連の行動や、今城が皇后自筆の再任を約束する親書を入手したことなどは、非常に好ましくないものであった。だが、今城と新興宗教との関わりが無根拠であったように、入江の今城に対する見方にも誤解がある可能性もある。また今城とは対照的に、その日記に宮内庁で当直勤務中に飲酒した事実などを記載して憚らないなど、宮中において軽率な行動をとっていた入江が、昭和天皇の健康への配慮から祭祀簡略化を急ごうとしていたことの是非をめぐっては未だ議論がある。 なお、最も信頼する側近の女官を失った香淳皇后は気落ちしたためか、その後心身の衰えが一際目立つようになったという。
出典:wikipedia
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