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ドリトル先生シリーズ

ドリトル先生(ドリトルせんせい、)シリーズは、20世紀前半にアメリカ合衆国で活動したイギリス出身の小説家、ヒュー・ロフティングによる児童文学作品のシリーズ。ロフティングは第一次世界大戦においてイギリス陸軍・アイリッシュガーズ連隊の志願兵として従軍した際に、動けなくなった軍用馬の射殺処分に遭遇して心を痛め、この体験から動物の言葉を解する獣医師の物語のインスピレーションを得たとされる。ロフティングは従軍先から2人の子供に宛てた手紙で、動物語を話すイギリスの田舎町に住む「ドリトル先生」の短い物語を挿絵付きで書くようになり、これが1920年に刊行された第1作『ドリトル先生アフリカゆき』の原型となった。シリーズは全12巻で、他に番外編が2巻存在する。各巻は必ずしも時系列通りに並んでいるわけではなく、いわば「時系列シャッフル」的な手法が採られている。第3巻『郵便局』をどの時期に置くかは諸説あるものの(当該記事の概要を参照)、少なくとも第1巻『アフリカゆき』、第4巻『サーカス』、第6巻『キャラバン』、第11巻『緑のカナリア』は確実に、そしておそらくは第3巻『郵便局』も第2巻『航海記』(冒頭部分は1839年と明示されている)でドリトル先生が助手の「トミー」ことトーマス・スタビンズと出会うよりも以前の出来事である。第7巻『月からの使い』から第10巻『秘密の湖』までは巻数と時系列が一致しており、時系列上は『秘密の湖』が最終巻となる。刊行順の最終巻『楽しい家』はロフティングの生前に未発表となった短編8話をジョセフィン夫人とその妹のオルガ・フリッカーが整理し、オルガが補作を行った短編集である。第1作『アフリカゆき』が1920年に米国で刊行されて以降、シリーズ作品は老若男女を問わず高い人気を博したが作者のロフティング自身は次第にマンネリ化を感じ、一度は1928年刊の第8作『月へゆく』で主人公のドリトル先生を月世界へ置き去りにしたまま完結を図るつもりであった。しかし、読者から先生の帰還とシリーズ再開を求める声が多く寄せられたことから5年の空白期間を経て1933年刊の『月から帰る』で正式にシリーズを再開した。ロフティングの没後、米国では1960年代後半より『アフリカゆき』第12章における黒人描写について、人種差別や偏見の助長に繋がるとして問題視され(詳細はドリトル先生アフリカゆき#作中の表現についてを参照)、1970年代にはシリーズの大部分が絶版となっていた。また、『航海記』に登場するクモザル島の住民は「インディアン」だが、インディアンの社会文化に関する描写が不正確で、彼らの文化を誤解させるステレオタイプの典型となっている。(ドリトル先生航海記#作中の民族表現についてを参照)1967年にはオルガ・フリッカーの編著で『ドリトル先生物語選集』(Doctor Dolittle, a Treasury)が刊行されているが、本編に比べると知名度は高くない。その後、1986年のロフティング生誕100周年を機に問題とされた箇所の改訂作業が進められ、パトリシア&フレデリック・マッキサックの手で遺族の了承を得て該当箇所を修正した改訂版が1997年より刊行されている。日本では、2001年に黒人差別をなくす会が岩波書店に対して上記の描写に加え『秘密の湖』で固有名詞のニジェール川(Niger river)を「ニガー川」とするなどの誤訳を挙げて回収を求めたが、岩波書店側は該当する誤訳などの「不適切」とされた箇所については修正に応じたものの、回収措置は執らず作品が執筆された時代背景に関する編集部の考え方を別紙で説明し、読者に理解を求めている。米国では上記の理由で長く絶版状態が続いたこと、またロフティングの母国・イギリスではシリーズ全巻ともロフティングが米国へ移住した後に書かれたものであるため「ロフティングは米国の作家」と言うイメージが強い為か本シリーズも「過去の作品」として扱われることが多く、現在では米英よりも日本、そしてポーランドや旧ユーゴスラビアなどかつての東側諸国において人気が高いと言うことである。本作の主人公を由来とする「ドリトル先生」は、主に二通りの意味で人物の愛称や異名に使用される場合がある。一つは動物と自由に会話ができる、あるいは会話までは行かなくとも高度な意思疎通が可能な(少なくとも、周囲からはそう見られている)人物に対して、もう一つは極めて腕の良い獣医師を評して使用される。ドリトル(Dolittle)という姓は本来の英語に即した発音であれば「ドゥーリトル」であるが、日本では大槻憲二が1925年に第2巻『航海記』を雑誌連載した際に、表題を『ドーリットル博士の航海』としている。その後、第1巻『アフリカゆき』を最初に翻訳した井伏鱒二が『文學界』1940年11月号で同作の冒頭部分を「童話 ドリトル先生物語」として紹介した際に「ドゥーリトル」と言う発音が日本語に馴染まず特に子供には発音しづらいことと、だからといって"Dolittle"と言う姓をその由来である"do little"、つまり「わずかな働き」からの意訳で「やぶ先生」とするわけにもいかないことからあえて「ドリトル」という表記を採った経緯について述べている。これ以後、ほとんどの日本語訳では井伏訳を踏襲して「ドリトル」としているが、1960年代から1970年代に刊行された英和対訳の学習教材では「ドゥリトル」という表記も見られる。ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』の登場人物で映画『マイ・フェア・レディ』ではオードリー・ヘプバーンが演じたイライザ・ドゥーリトル(Eliza Doolittle)や1942年のドーリットル空襲で知られるジミー・ドーリットル(Jimmy Doolittle)はいずれも"Doolittle"で"o"が一つ多い。シリーズ作品の時代設定はおおむね1830年代後半から1840年代前半のヴィクトリア朝初期に設定されており、先生はイングランド南西部の港湾都市・ブリストルからやや離れた場所のスロップシャー州(Slopshire)に属する田舎町・沼のほとりのパドルビー(Puddleby-on-the-Marsh)にある屋敷に住んでいるとされる。パドルビーは架空の町であるが、その風景はイングランド東部・ノーフォークの湖沼地方をモデルにしたともされている。ドリトル家の屋敷には先生の先祖が園遊会やローンボウルズ(玉転がし)をしたという広い庭があり、たくさんの動物たちが住んでいる。先生は博物学者であり、腕の良い医師として妹のサラ(Sarah)と暮らしていたが、屋敷の動物たちが患者に迷惑をかける騒動が相次いで人間の患者は誰も寄り付かなくなってしまった。そんなある日、先生はオウムのポリネシアから「動物語」の存在を知らされ、英語を始め人間が使う複数の言語を話せるポリネシアの手ほどきを受けて、動物たちと話すことができるようになる。動物と話せるお医者、と言う評判を聞き付けた近所の動物たちが、治療のために屋敷に押し掛けて来るようになり、先生の暮らし向きは再び良くなるが、サーカス団からワニを引き取ったことで、町の人々はペットや家畜を連れて来るのをやめてしまう。こうした有様に、ついにサラは怒りを爆発させ、兄に愛想を尽かして出て行ってしまう。先生がこうなってしまったのは自分達のためである、と気づいた動物たちは会議をひらき、能力を出し合って、先生を手伝い始める。ベッドメイクを始めとする家事はアヒルのダブダブ、会計はフクロウのトートーが担当することになった。動物たちの楽しみは、夕食の後に暖炉の前で顔を揃えて身の上話をすることである。そして、先生が所用や航海で長く家を空けるときは動物たちも同行し、その能力を活かして先生を手助けする。主人公のドリトル先生に関してはジョン・ドリトルを、その他の登場人物や動物に関する詳細はドリトル先生シリーズの登場キャラクターを参照。以下に挙げるキャラクターの名称は原則として井伏鱒二訳の岩波版ドリトル先生物語全集に準じて原文の名称をカッコ内に併記するが、特に必要な場合は河合祥一郎訳の角川つばさ文庫版における名称を本文中に記載する。以下の動物たちが持ち前の能力(オウムの物真似は元より犬の嗅覚、フクロウの聴覚や暗視力、どこにでも潜り込めるネズミなど)を生かして先生を助けたり、意外な知識を披露したりするのが各作品の見どころとなっている。シリーズは全12冊と番外編2冊。挿絵も作者であるロフティングの自筆画が使われている(日本では岩波書店版のみ)。また、日本語版の表題は原則として岩波書店版に準じる。刊行年は米国(1 - 9巻と番外編はF・A・ストークス社、10 - 12巻はJ・B・リッピンコット社)とイギリス(全巻ともジョナサン・ケープ社)の原書、日本語訳(主に岩波書店)の初刊についてそれぞれ記述する。上記の他、誕生日に合わせて1日ごとにイラストと『月から帰る』までの本編中の台詞を添えた"Doctor Dolittle’s Birthday book"(ドリトル先生のバースデー・ブック)と言う本が1935年に刊行されているが、日本語訳は未刊行となっている。原書は米国のリッピンコット・ウィリアムズ・アンド・ウィルキンス、イギリスのジョナサン・ケープとも絶版となっているがイギリスでは米国で絶版になっていた期間もPuffin Booksから刊行され、米国では1997年以降に問題とされた箇所を修正した改訂版がランダムハウス系列のRed FoxやYearling Booksから刊行されている。日本における最初の翻訳は、大槻憲二が博文館の雑誌『少年世界』1925年1月号から12月号まで第2巻『航海記』を『ドーリットル博士の航海』の表題で連載したものであるが、単行本化はされなかった。この連載では、小笠原寛二の挿画が使われている。第二次世界大戦中に児童文学作家の石井桃子が、近所に住んでいた井伏鱒二に本作を薦め、井伏が石井の下訳を基に第1巻『アフリカゆき』を翻訳した。この訳は『ドリトル先生「アフリカ行き」』の表題で石井が設立した白林少年館から1941年に出版されたが、ほどなくして白林少年館は倒産してしまう。その後、講談社の雑誌『少年倶楽部』において『航海記』を『ドリトル先生船の旅』の表題で連載していた井伏は陸軍に徴用され、本書の翻訳は一時中断した。終戦後、帰国した井伏は引き続きシリーズ各巻の翻訳を継続し、1962年に全12巻の翻訳が完成した。井伏訳は児童文学作品であることを考慮し、全編にわたって読みやすい口語の文体を採用しており、名訳として評価が高い。しかし翻訳作業が行われた時期が古いこともあり、トリュフを「松露」と訳すなど、現代においては馴染まない訳語を使っていることも多い。この井伏訳は岩波少年文庫と愛蔵版ハードカバー『ドリトル先生物語全集』として現在も版を重ねている。2000年代までは井伏訳が唯一の全巻(番外編を除く)訳であったが、2008年に原作者・ロフティングの日本における著作権の保護期間が戦時加算分を含めて満了したことを受け、2011年5月より河合祥一郎の新訳版が角川つばさ文庫から順次、刊行されている。河合訳では井伏訳の「オランダボウフウ」を原文通り「パースニップ」としたのを始め、井伏訳では、前述した「松露」のようにもっぱら意訳されていた、日本に馴染みの薄いイギリス風の料理や菓子、食材の名称を出来るだけ原文から忠実に訳し、あとがきで料理に関する解説を加えている点とポンドやシリング、ペニーなどの通貨単位を現代基準の日本円(概ね1ペニー=100円)に換算している点が特徴である。なお、前述の"Pushmi-pullyu"は井伏訳「オシツオサレツ」を踏襲せず「ボクコチキミアチ」と訳している。この新訳では岩波版と異なりロフティング自筆の挿画でなく、日本のイラストレーター・pattyが新規に描いたイラストを使用している。河合訳以外で2008年以降に公表された新訳は、大半が第1巻『アフリカゆき』と第2巻『航海記』のもので、小林みき訳(ポプラポケット文庫)や、麻野一哉訳などが存在する。なお、番外編『ガブガブの本』は、光吉夏弥が一部エピソードのみを抄訳した『たべものどろぼうと名たんてい』が1957年に光文社より刊行されたものの、岩波版には採録されず、『アフリカゆき』巻末の石井桃子による解説でも言及されていなかったが、2002年に南條竹則が全編を訳して国書刊行会より出版された。「ドリトル先生」は、実写映画やアニメシリーズとして多数映像化されている。米国で製作された映像作品では、先生はどれも肥満体の設定が改められて痩身のキャラクターとなっている。『不思議な旅』と同じ20世紀フォックス製作でエディ・マーフィが「黒人のドリトル先生」を演じる『ドクター・ドリトル』と『ドクター・ドリトル2』、その続編として製作されたオリジナルビデオでが父・ジョンの能力を受け継いだ娘のマヤ・ドリトルを演じる『ドクター・ドリトル3』『ドクター・ドリトル4』『ドクター・ドリトル ザ・ファイナル』がある。いずれもロフティングが「原作者」としてクレジットされているが、舞台は現代のアメリカであり、「ドリトル」という名前と「動物と話せる医者」という設定上の共通項以外、原作と全くの別物である。

出典:wikipedia

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