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レストハウス (広島市)

広島市平和記念公園レストハウス(ひろしましへいわきねんこうえんレストハウス)は、広島県広島市の平和記念公園内にある観光案内所兼休憩所。元安橋西詰めに位置する。すぐ南に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館がある。2010年現在、市が所有し、株式会社エムケイ興産が指定管理者として運営管理している。1945年広島市への原子爆弾投下により被爆。現在爆心地から最も近い現役使用されている被爆建物であり、特に原爆被災の中心となった中島地区でただ一つ残った戦前からの建造物であり(原爆ドームは厳密には中島地区の外に位置する)旧中島町を説明する看板が付近に立っている。鉄筋コンクリート造で地上3階地下1階建。ここを元々管理していた財団法人広島観光コンベンションビューローが2階以上に入り、1階の土産物店では広島名産品や広島東洋カープ公認グッズも売られている。1929年、建築家・増田清の設計により、大阪に本店のあった「大正屋呉服店」の店舗として中島本町(当時の町名)に建てられた。当時は3階までショーウィンドウを備えたモダンな雰囲気の店として市民に親しまれていたという。しかし、太平洋戦争勃発後に経済統制が強化された影響で1943年に閉店した。こののち建物は広島県燃料配給統制組合によって買い取られ、組合事務所として使用されることとなり、「燃料会館」と呼ばれた。原爆投下時、燃料会館は元安橋を挟んだ対岸の爆心地から西南に約170mの至近距離に位置していた。被爆によって屋根が下がり、梁や床が破損して内部は全焼したが、頑丈な作りであったためか全壊は免れた。当時建物内には朝礼を済ませたばかりの組合員37名がいたが、原爆炸裂に伴う放射線と熱線・爆風のため、29名が即死したとみられている。即死を免れ建物を脱出した8名についても、原爆が炸裂した瞬間に地下室に下りていたため奇跡的に軽傷で済んだ野村英三(当時47歳)を除きその後の消息は不明で、脱出後に急性放射線障害などで死亡したと推定されている。戦後もしばらくは燃料会館として使用されていたが、1957年には広島市に買収されて「東部復興事務所」となった。さらに1982年に改装されて市観光協会の事務所となり、「レストハウス」と名称を改め現在に至っている。建物内に創建当時の面影はほとんど残されていないが、地下室だけは被爆当時のまま保存された。ただ、平和公園内という性格上派手な宣伝や利用が難しいことで、観光案内所や休憩所ということが分かりづらくなっており、屋内も手狭なことから、観光利用の面では使いづらくなっていった。それが後述の市の改修理由の一つとなった。被爆から50年目の節目を控え、市は改めて市内の被爆建物を調べ直した。結果、1994年に「老朽化が進行し現状保存ではレストハウスとして使用できない」とする調査結果が出たことから、1995年に丹下健三監修のもと地上部分を取り壊しレストハウスを新築、地下室のみを保存するという構想を打ち出した。これに市民団体が反発し、現状保存に向け署名を集め要望書を提出したが、平岡敬市長は方針を変えなかった。さらにユネスコや文化庁も改修に反対した。特にユネスコは、レストハウスを含めた平和公園一帯は世界遺産である原爆ドームの緩衝地帯であるため現状保存させるべきと意見し、更には建て替えるのなら原爆ドームを世界遺産登録から外すと仄めかした。これら抗議活動を重く見た平岡市長は計画を1999年まで延期すると発表した。1999年、平岡が市長を退任、その後市は財政難を理由に再延期を発表した。以降数年市民が抗議活動を行った結果、現在は改修事業自体が凍結された状況である。2006年から指定管理者制度を導入した。2014年2月に、広島市は被爆70周年事業の一環としてレストハウスの改修を決定。耐震改修のほか休憩スペースなどの改装を計画。

出典:wikipedia

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