國際活映株式會社(こくさいかつえい-、1919年12月6日 設立 - 1925年 倒産)は、大正時代に東京に存在した日本の映画会社、通称は国活(こっかつ)。巣鴨と角筈(現在の西新宿)に撮影所を持ち、量産を図るが、早期に瓦解する。1919年(大正8年)12月6日、小林喜三郎が設立した。資本金は1,000万円(当時)、社長に岡田文次を迎え、小林は常務取締役におさまり、関屋親次も常務取締役とした。日本橋区箱崎町(現在の中央区日本橋箱崎町)の砂糖商で同月13日に鉱業投資ファンド「大北炭砿」の取締役に就任した熊取谷七松、おなじく砂糖商で同年11月に中央生命の取締役に就任した桑山伊作といった「大正バブル」紳士を設立時の取締役にしている。かつて1914年(大正3年)に大阪の山川吉太郎とともに「天然色活動写真」(天活)を設立したが、天活の東の興行を委任された「小林商会」で映画製作を開始、天活から大量の俳優引き抜きを行なって対抗勢力たろうとした挙句に1917年(大正6年)に負債を抱えて倒産した小林が、1919年3月、D・W・グリフィス監督の超大作無声映画『イントレランス』(1916年)の「10円興行」でみごと復活、その資金で設立したのが同社である。1920年(大正9年)1月、「天活」の本社機構と「巣鴨撮影所」を買収、設立第一作は吉野二郎監督、枝正義郎撮影の『忍術四天王』で、同年の暮れも押し迫った12月29日に浅草公園六区の大勝館ほかで公開された。天活最終作品はその3日後の翌1920年(大正9年)1月1日に八丁堀大盛館ほかで上映された田村宇一郎監督、大森勝撮影の『呪いの猛火』であった。福宝堂時代からの小林の盟友山川吉太郎は国活には参加せず、同年5月、「天活」の「大阪支社」と「小阪撮影所」を「帝国キネマ演芸株式会社」(帝キネ)に改組した。小林は「常盤商会」時代に自らが建設した「日暮里撮影所」(1913年 - 1919年)をついに閉鎖、「巣鴨撮影所」を稼動、1920年前半を「吉野・枝正」、「田村・大森」の2つの監督・撮影タッグでまわした。それと平行して南豊島郡淀橋町大字角筈字十二社(現在の新宿区西新宿、京王プラザホテル近辺)に「角筈撮影所」を新設、同年後半からは同所での製作を開始した。「国活角筈」第一作は、日活向島撮影所出身の細山喜代松監督を起用、女優林千歳を映画デビューさせた『短夜物語』であった。同作は同年7月1日、撮影所のお膝元の新宿に同年5月にオープンした新宿武蔵野館ほかで公開された。「女形」の新派役者を受け入れた「巣鴨」で時代劇を、時代の趨勢である新劇の「女優」を出演させた現代劇を「角筈」で、という棲み分けを行なった。開所時の角筈撮影所の概要は下記の通りである。同社は外国映画の輸入配給も手がけていたが、小林の手法にはトラブルが多く、1920年には、横浜・山下町の「平尾商会」が正式輸入し同地の大正活映が配給したアルベール・カペラーニ監督、アラ・ナジモヴァ主演のアメリカ映画の大作『紅燈祭』(1919年)を上海からの闇ルートで中古プリントを入手、『赤燈籠』として競合公開した。1920年と1921年には巣鴨・角筈フル稼働で、2年間で120本近い作品を量産するが、1920年いっぱいで田村宇一郎に逃げられ、1921年10月には吉野二郎と沢村四郎五郎に逃げられる。2人のメイン監督、主軸スターに松竹蒲田撮影所に移籍され、1922年からは如実に減産していく。「吉野・四郎五郎」ラインの定番時代劇が崩壊、新しく久保田清一および大井新太郎の主演2本軸で量産しようとするが、持久できなかった。同年内には「角筈撮影所」は閉鎖、「巣鴨撮影所」一本体制となる。1923年(大正12年)、松竹蒲田で監督となった新劇の村田実に『父の罪』を撮らせるが、国活での村田作品はこの1作に終わり、役者の水島亮太郎にも監督デビューさせたが、両者ともに日活向島撮影所へと去る。小沢得二も同様、1本きりで松竹下加茂撮影所へ去る。1922年の暮れに撮影技師に昇進した持田米三も翌年3月いっぱいで去る。同年の3月をもって作品の供給が停止する。1924年(大正13年)の暮れ、京都の小笠原プロダクションから引き抜いた俳優の内田吐夢に2本(前篇・後篇)出演させ、1925年(大正14年)の正月の3本で村越章二とともに監督に抜擢、合計5作を突然リリースして、製作は終了となる。同年倒産する。国活には、天活巣鴨以来、撮影部に円谷英二がいた(1919年入社、1920年に助手から撮影技師に昇進)。円谷はのちに国活巣鴨で出会った俳優衣笠貞之助、撮影技師杉山公平とともに、1925年の「衣笠映画聯盟」の設立に参加した。キネマ旬報映画データベースに見られる配給作品の一覧である。日本での公開順。
出典:wikipedia
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