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十河城

十河城(そごうじょう)は、讃岐国山田郡蘇甲郷にあった日本の城(平城)。現在の城跡は称念寺という十河氏ゆかりの寺となっており、称念寺一帯が本丸と考えられている。十河城は高松市の南部に位置し、春日川上流より南側にいくつもの丘陵があり、十河城もその丘陵上に築城された。大正初期の整地で、城の遺構の大半が失われてしまったため、現在は門扉のみをとどめている。なお、城門前立札よると、「南北朝時代から桃山時代まで約230年間十河氏の居城だった。西に池、東は断崖、南に大手があった。十河氏は景行天皇の末流で山田郡を領した。三好長慶の弟一存が養子に入り鬼十河と恐れられ、讃岐一円を制した。その養子存保が、長宗我部軍3万5千とこの城で戦った。のち秀吉から2万石に封ぜられたが、九州で戦死し廃城となった。寺があるのは本丸跡である。」とある。代々の城主であった十河氏とは、讃岐国山田郡を支配していた、植田氏の支族で1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に細川清氏の陣に最初に馳せ参じたのが、十河吉保でこの時の様子を『南海通期』によると、とあり十河吉保がこの地の惣領となった。これにより南北朝時代に十河氏によって築かれたと考えられている。以後8代目の十河景滋には子供がおらず、三好元長の子、三好長慶の末弟十河一存を養子に迎え入れる。十河一存は「讃岐守鬼十河」といわれた勇猛な武将であったが、この時はまだ幼少であったため三好存保を迎え入れ十河城の城主となった。しかし、1561年(永禄4年)に十河一存が急死(前年の有馬温泉での落馬が原因といわれる)、1562年(永禄5年)には三好実休が久米田の戦いで討死、その翌年には長慶の嫡男の三好義興が病死。有力な一族が次々に死亡する不幸に見舞われた三好長慶は、実弟である安宅冬康を無実の罪で誅殺するなど往年の覇気を失い、その後間もなく死去した。長慶の死後、三好政権の実権は松永久秀と三好三人衆が握るが、永禄の変や家中分裂によって畿内が混乱に陥る中で東からは織田信長が足利義昭を奉じて上洛、西からは長宗我部元親が阿波へ侵攻し、三好氏は急速に弱体化していく。長宗我部元親、香川親和連合軍は、兵をあげ讃岐国に侵攻してきた。天正10年(1582年)8月6日、香西佳清が立て篭もる藤尾城に攻め入ったが香川之景の仲介の基、香川親和軍に降伏した。香西佳清隊1千兵を味方に加えた香川親和軍は、同月11日に讃岐国分寺を1万1千兵で出軍、十河城を取り囲んだ。当時十河存保は勝瑞城におり、十河存之が城代として城を守っていたが、1万の大軍との報が入ると、長期戦を覚悟し城兵を1千兵迄絞り込み、兵糧三ヶ月分を積んで、籠城戦の準備を整えた。香川親和軍は平木周辺に着陣し、十河城周辺の麦薙、苗代返しを行った。この時の様子をとあり、領民が難民となって故郷に逃亡するものも多かったと記している。その後香川親和軍は十河城の四方を囲み、攻城のために作道をしたが、城中には多数の鉄砲があり、四方の櫓から撃ち作道は中止となった。長宗我部元親軍は十河城との間合いを2町まで詰め、大筒を2挺用意し十河城の櫓を打ち崩し、籠城戦も難しくなってきた。しかしこの時前田城の城主前田宗清が夜討ちをかけ十河城を援護した。『四国の古城』によると「忍者戦術に出て敵をなやませた」とし、夜討ちや抜け穴、長宗我部元親軍の陣地に忍び込み食料を奪い取ることもあり、遠地で兵站もままならず長陣になると長宗我部元親軍も疲弊し始めた。一方勝瑞城では同時期中富川の戦いとなったが敗れ、十河存保は同年9月21日の夜半、勝瑞城から虎丸城に落ち延びていった。十河存保は虎丸城に入るととし羽柴秀吉に援軍を要請した。これに応えた羽柴秀吉は淡路国洲本城の城主仙石秀久に救援を命じた。その間十河城では、長宗我部元親軍は岩倉から山越えし香川親和軍と合流し総勢3万6千兵まで膨れ上がり、再び攻城戦となったが落城させる事は出来なかった。そして冬となり監視の部隊を置いて長宗我部元親軍は一旦土佐国に撤兵し、第一次十河城の戦いは終了する。翌天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉の命をうけた仙石秀久軍が動き出した。淡路島から小豆島に渡り、喜岡城、屋島城を攻城したが、攻めきれず撤退した。また小西行長軍も香西浦に押し寄せたが長宗我部軍の反撃が凄まじく、上陸できないまま撤退した。同時期、長宗我部元親の本隊も動き出した。阿波国から大窪越えし田面山に陣を張り虎丸城の攻城に取り掛かった。与田、入野周辺で合戦となったが十河存保軍の反撃が凄まじく、止む無く虎丸城周辺の麦薙、苗代返しを行い兵糧攻めとした。その時仙石軍が引田城に入城したとの報にふれ、香川之景隊を引田城に出軍させ引田の戦いとなった。この戦いで敗れた仙石軍は船で淡路国に撤退した。十河存保は虎丸城を撤退し十河城に入城した。学習研究社の『長宗我部元親』によると「一説には虎丸城は翌十二年七月に落城したとも伝えているが、詳細は定かでない」としている。一方秀吉は、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康連合軍と戦いを続けている。この時家康は元親に味方し淡路国に進軍するように呼びかけた。この動きに即応した秀吉は大坂城へ帰城し防備を固める。秀吉の帰城を知った家康は元親へ直ちに進軍するように催促したが、伊予国で土豪衆の動向や毛利氏の侵入への警戒、そして十河城が落城していなかったことから、元親は家康の要望には応えられずにいた。四国平定を急いだ元親は、十河軍に属していた寒川氏、由佐氏の調略に成功し、彼らを用いて雨滝城をはじめ十河城の支城を次々に落城、そして翌天正12年(1584年)6月11日、元親は十河城をついに落城させ、第二次十河城の戦いは終結する。しかしその前日6月10日夜に十河存保は城を抜け出して落ち延びていた。この時の様子を『讃岐の古城跡と豪族たち』と『十河郷土史』によると、十河存保と十河存之は長宗我部元親に降伏を申し出、屋島から備前国そして堺へ落ち延び羽柴秀吉の配下になったとしている。長宗我部軍の同盟者であった織田信雄は、十河城落城の報を知ると、香宗我部親泰へ送った書状に、とあり、十河城が落城した事に喜びを述べている。十河城は長宗我部家の手に落ち、長宗我部親武が城主となったが羽柴軍が讃岐国に侵攻すると、1585年(天正13年)には撤退、讃岐国には仙石秀久が領主となり十河存之は2万石を与えられ十河城を復権された。しかし翌1586年(天正14年)九州征伐に従軍し、島津氏との豊後国戸次川の戦いにて討死すると、十河城も廃城となる。十河城は東西が川と谷(鷺池)にはさまれた舌状の微高地(標高42m、比高10m)に所在し、主郭部分は、鍵型の土塁に囲まれた部分に方形居館があり、周囲に曲輪を付属させていた。北側には大きな堀切と土橋があったと思われ、その北側には大きな曲輪があった。主郭には現在称念寺が建っている。鷺池とは城の西側にある細い谷をせき止めたものであったことが『南海通記』にみえる。またとあり、大手は南側にあり、三方は深い田となっており土塁を5重に築いていた事がわかる。仁王門から香川県道30号まで下り坂となっているが、その間には数段の帯曲輪があり、それぞれに土塁が築かれていたと思われている。また城の西側にある鷺池は堀の一部と考えられており、また香川県道30号の東側にも水路があるがこれも城の堀であったと思われている。城郭の大部分は、宅地、田畑となり城跡を思わせる遺構は今日ほとんど見ることはできない。

出典:wikipedia

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