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大寧寺の変

大寧寺の変(たいねいじのへん)とは、天文20年8月28日 - 9月1日(1551年9月28日 - 9月30日)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。天文10年(1541年)、大内氏の傘下の毛利氏を攻めた尼子氏は敗退した(吉田郡山城の戦い)。これを契機に、周防の戦国大名である大内義隆は、大内家臣団でも武功派である陶隆房らの主導のもと、天文11年(1542年)に大軍を率いて尼子氏の本国・出雲への遠征に臨んだが、月山富田城に籠もって徹底抗戦する尼子晴久を攻めあぐねる(第一次月山富田城の戦い)。ついには、越年した天文12年(1543年)2月に大内軍は総崩れとなり、大将・義隆は周防に敗走、甥で養子の大内晴持に至っては敗走途中の揖屋浦で溺死するなど、大内方は散々な結果を迎えた。これにより、勢力の回復を図ろうとして活発化する尼子氏に対して、安芸・石見・備後などでは大内諸将や毛利元就らが対抗して出陣するなど、慌ただしくなっていた(布野崩れ、神辺合戦など)。一方の義隆は、出雲遠征を主導した陶隆房ら武功派を国政の中枢から遠ざけた。出雲での大敗が極端なまでの厭戦気運を助長したばかりでなく、政務を文治派の寵臣・相良武任に一任して政務から遠ざかり、学芸・茶会などに没頭、公家のような生活を送るようになり、国内治政さえ顧みなくなった。さらには多額の出費を賄うため、年貢の増徴も行われたため、土豪や領民も増税に苦しむようになった。このため、大内家の主導権を巡って武功派の陶隆房・内藤興盛ら(ひいては、武任の偏重に反発する大内家の評定衆全体)が、文治派の相良武任を敵対視するようになった。天文14年(1545年)になると険悪関係は深刻度を増し、相良武任は隆房を恐れるあまり大内氏を辞仕、出家後に肥後に隠棲して身の安全を図った。隆房らの巻き返しを受けての武任ら文治派の失脚の影響と言われる。しかし、天文17年(1548年)には義隆の要請を受け大内家に再出仕した。この頃、豊前守護代である重臣杉重矩が、不穏な動きをする隆房について義隆に進言したが聞き入れられなかったとされる(相良武任申状)。天文18年(1549年)2〜5月に、大内氏と毛利氏の同盟を強化するための義隆の計らいで、元就が息子たちを連れて山口を訪れて義隆に謁見する。しかし、毛利に近づくための陶の招きとも言われており(相良武任申状)、隆房の嫡男・陶長房を通じて密書のやりとりがあったとも言われる。また、この長期の滞在の間に隆房と吉川元春は義兄弟の契りを結んだ。天文19年(1550年)になると、武任と隆房との対立が決定的となり、武任暗殺まで謀られるに至るが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかし、隆房が謀反を起こすという伝聞が流れるまでになり、義隆の側近である冷泉隆豊は義隆に隆房の誅殺を進言するほどだった。武任は、美貌で評判だった自分の娘を陶長房に嫁がせることで和睦を図ろうとしたが、隆房が家柄の違いを理由に縁談を拒否し、融和案は決裂した。8月24日付けで隆房は、毛利元就・隆元宛と吉川元春宛に2通の密書を書き送りが、「杉や内藤と相談し、義隆を廃し、義尊に跡目を継がせたい」として協力を求めているのが、隆房が謀反を示す最初の史料とされる(吉川家文書)。また、元就を通じて隆房の意向は、天野隆綱など他の安芸国人にも伝えられており、隆房への協力の見返りに所領を与えることが約束されていた(天野毛利家文書)。9月15日に仁壁神社・今八幡宮で行われた例祭での参詣を義隆は急遽欠席し、右田隆次を代参させた。これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂で、義隆側が警戒したものと考えられている。翌16日に義隆は隆房を呼び出して詰問するが、隆房は無実を主張した。他方、武任は同日(16日)に再び大内家から出奔し、石見の吉見正頼の元に逃げていた。11月下旬より隆房は、病気と称して居城若山城(周南市)に籠もり、年が明けた2月の修二月会大頭役の勤めも果たさなかった(隆房が同役を勤めることは前年から決まっていた)。この時、義隆も隆房らの謀反を恐れて、自ら甲冑を着けて居館に立て籠もり、さらに隆房に詰問使を送るなどしたことから、義隆と隆房の仲は最悪の事態を迎えた天文20年(1551年)1月、出奔していた武任が、筑前守護代の杉興連によって身柄を確保された。この一連の騒動で義隆から責任を追及されることを恐れた武任は、相良武任申状において弁明し、「陶隆房に謀反の疑いがあると主張したのは(普段より隆房と不仲であった)杉重矩である。しかし、その注進が受け入れられなかった重矩は、(隆房の怒りを買わないように保身のため)讒訴を自分(武任)がしたとすり替えて隆房に近づき、対立していたはずの隆房に寝返った。両名は内藤興盛と共に何か画策している」という根も葉もない讒訴を行なった。つまり、隆房が謀反を起こそうとしており、その対立が生じた責任を杉重矩1人に押し付けて、自らには責任が無いと申し立てたのである。どちらかというと義隆擁護派であった重矩が隆房の謀反に協力するようになったのは、隆房を疑わない義隆に失望したとも、相良武任申状で讒訴されたことを知ったからともされる。4月に義隆は、武任を周防に連れ戻して出仕させた。それに対抗するように隆房らは翌5月、大友義鎮の異母弟・大友晴英(義隆の姉の子=義隆の甥)を大内新当主として擁立する旨に協力を願う密使を大友氏に送る。北九州における大内領の利権を割譲する代わりに、晴英を貰い受けることで、晴英の快諾と義鎮の許諾を得ている。8月10日、武任は隆房を恐れて、大内家から三度目の出奔して筑前に逃走する。8月20日、隆房は興盛らと共に挙兵。陶軍は最初に東の厳島の神領と桜尾城を接収、呼応して出陣した毛利軍も佐東銀山城や近隣地域(広島市安佐南区)を接収して、山陽道の要衝を押さえた。8月28日に若山城から出陣した陶軍は、隆房率いる本隊が徳地口から、陶家臣の江良房栄・宮川房長率いる別働隊が防府口から山口に侵攻した。山口に入ったのは同日正午頃で、杉・内藤の軍勢も呼応して陶軍の陣営に馳せ参じた。陶軍は兵力5,000〜10,000と言われる。これに対して、義隆の対応は非常に鈍かった。23日には陶軍の山口侵攻の噂で騒然としていたとされるが、豊後大友氏からの使者等を接待する酒宴を続けており、隆房出陣前日の27日には能興行を行っていた。隆豊は杉重矩邸への討ち入りを提案するが、義隆は「杉と内藤は敵にはならないだろう」と答えたと伝わる(大内義隆記)。隆房の侵攻を伝える注進が届いてようやく義隆は、大内氏館・築山館を出て、多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺に退く。本堂に本陣を置き、嶽の観音堂・求聞寺山などを隆豊らが固めたとされるが、一緒に逃亡した公家たちや近習らを除けば、義隆に味方した重臣は隆豊くらいであり、兵力も2,000〜3,000人ほどしか集らなかった。組織的な抵抗もほとんどできず、空となった大内氏館や周辺の近臣邸は、火をかけられたり、宝物を略取されたりした。前関白の二条尹房は興盛に使者を送り、"義隆は隠居して義尊を当主とする"という和睦斡旋を懇願するが、拒否されている。法泉寺の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、翌29日には山口を放棄して長門に逃亡。法泉寺には、陶隆康が殿として残って討ち死にしている。なお、継室のおさいの方は、山口宮野の妙喜寺(現在の常栄寺)に逃れた。義隆は、足を痛めながらも明朝には長門仙崎にたどり着き、海路で縁戚に当たる石見の吉見正頼を頼って脱出を図ったが、暴風雨のために逃れることができなかった。引き返した義隆らは長門深川の大寧寺に入り、隆豊らと共に戒名を授かると、9月1日の10時頃に自害した(中国治乱記)。隆豊は義隆の介錯を務めた後、陶軍の中に突撃して壮絶な討死にしたと伝えられる。また、義隆の嫡男・大内義尊は従者と共に逃亡するが、2日に陶方の追っ手によって殺害された。ただし、義隆の次男(義尊の弟)である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛の孫(興盛の娘の子)であることもあり助命された。さらに、義隆を頼って京より下向していた二条尹房や前左大臣三条公頼(武田信玄正室・三条の方の父)、そして継室おさいの父官務家小槻伊治らの公家も殺害された。特に、前権中納言持明院基規は悲惨な最期だったとされており、義隆を取り巻いていた公家達は、謀反を起こした隆房ら武断派の憎悪を買っていたと思われる。相良武任と、武任を匿っていた杉興連ら義隆派は、隆房が筑前に送り出した野上房忠の軍勢により花尾城で攻め殺される。武任の首は、隆房によって山口で晒された。9月4日、元就は東西条の大内領に兵を進め、義隆派の平賀隆保が籠もる頭崎城を攻めた。隆保は頭崎城から逃亡して、槌山城の菅田宣眞の元に入った。元就は、吉川・小早川・宍戸らと共に軍勢4000で槌山城を攻め、11日に降伏させた。10月、陶氏と姻戚関係にあった石見七尾城主の益田藤兼が、義隆方の吉見正頼を攻撃。しかし、吉見氏の支城能登呂山城攻めは、吉見家臣・下瀬頼定の防戦により失敗した。また、相良武任の子である虎王を捕らえて殺害している。天文21年(1552年)1月に隆房は、杉重矩を長門万倉(宇部市)の長興寺で自害に追い込む。これは、重矩が義隆に隆房を讒訴していたことを知ったため(変後に相良武任申状を入手した)と言われている。同年3月には、大友晴英を山口に迎えた。新たな大内家当主として家督を継がせた晴英を、大内義長と改名させると、隆房自らも新たな主君・晴英(義長)へ忠誠を誓う証として晴賢へと改名。こうして、晴賢は義長を傀儡の当主として大内家の実権を掌握した。陶隆房らが謀反を起こした理由については、以下の点が指摘されている。

出典:wikipedia

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