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ループもの

ループものとは、タイムトラベルを題材としたSFのサブジャンルで、物語の中で登場人物が同じ期間を何度も繰り返すような設定を持つ作品のこと。いわゆる「時間もの」の一種。昔からある物語の類型のひとつだが、日本のオタク文化やジュブナイルものでは頻出する設定であり、半永久的に反復される時間から何らかの方法で脱出することが物語の目標となるものが多い。過去の自分に戻って人生を再挑戦するという類型の物語が一つのサブジャンルとして確立したのは、ケン・グリムウッドの小説『リプレイ』(1987年発表)が世界的なヒット作となって以降であるが、類似する筋立ての作品は『リプレイ』以前にも日本を含む各国の作品に散見される。複数回のループが行われるわけではないものの、自分の人生の過去に戻って別の世界を疑似体験するというアイディアは1946年公開のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生!』ですでにみられ、1965年発表の筒井康隆の小説「しゃっくり」ではループ期間が10分間と短いものの世界が一定期間を反復し続ける設定がなされている。また、藤子・F・不二雄は1991年の漫画『未来の想い出』の冒頭で、「若返って人生をやり直す」という題材自体はゲーテが19世紀に発表した『ファウスト』以来、使い古されたものであることを登場人物に指摘させている。評論家の浅羽通明は「ループもの」の発生過程について、近代以前には抽象的であった時間の概念が、機械式の時計の普及やテレビ番組の定時放送によって計測可能な概念として意識されるようになるにつれて、それ以前からあった物語の類型に時間の要素が結びついて発生したのではないかと考察している。一般的なタイムトラベル作品、つまり物理的なタイムトラベルにおける過去への時間跳躍では、自分の肉体ごと過去の世界に移動することになるため、過去の自分に遭遇することもありうる。例えば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がそうであるように、そのことによるタイムパラドックスが作品のテーマのひとつとして扱われる作品も多い。他方、『リプレイ』のように自分の意識が過去の自分に戻る(または世界全体が過去のある時点に戻る)と設定されている作品では自分自身との遭遇は起こらず、(時間跳躍している人物の視点から考えれば)過去改変に伴うタイムパラドックス(親殺しのパラドックスなど)が発生しないことになる。もうひとつの相違点として、現在から過去への時間跳躍は発生するが、過去から現在への時間跳躍は発生しない(通常の時間経過によって過去から現在に至ることになる)という点がある。肉体の移動を伴わずに過去への一方通行的な時間遡行を繰り返すという意味でのループものとは厳密には異なるが、意識を過去に遡行させて歴史を改変することを繰り返し自分の望む現実を確定させようとするタイプの物語として映画『バタフライ・エフェクト』やドラマ『プロポーズ大作戦』がある。また、意識が過去の自分に一方的に移動するのではなく、一時的に未来に移動すると設定されているもの(小説『フラッシュフォワード』)もある。日本のオタク文化におけるループものの先駆的・古典的な作品として1984年公開の劇場アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が挙げられる。この作品以降、オタク文化ではループものの作品が多数制作され、それらはしばしばオタク自身の姿を写したものとして論じられる。オタクはしばしば漫画・アニメといったコンテンツを一方的に消費するだけでなくそれらを元にした二次創作物(同人誌・MADムービーなど)を発表しているが、そのような行為自体が原作となる物語を反復しているともいえる。批評家の東浩紀は、ループものがオタク文化で特に好まれている理由として、成熟拒否的で幼児性に固執しがちと論じられるオタクにとっては同一期間を反復して過ごし続けるループものの主人公は感情移入しやすい存在なのかもしれない、と推測している。社会学者の大澤真幸は、反復に対して終わりを告げるということは偶有性(. 他でもありえたかもしれないという感覚)を必然性(こうでしかありえなかったという感覚)に置換するという「第三者の審級」を確認する操作にあたるとした上で、ループものの作品が大量に制作され好まれているという事実は現代社会において決着をつけることに困難を覚えるということ、つまり「第三者の審級」の撤退を示唆しているのではないかと述べている。ループものの作品は、セカイ系と呼ばれる一群の作品と親和性を持つ。セカイ系とは1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』をきっかけとしてオタク文化を中心とした広範囲で発生した作品群で、非主体的な主人公の自意識の吐露が繰り返され、主人公とヒロインの関係性(近景)がそのまま世界規模の大問題(遠景)に直結して描かれるという特徴がある。セカイ系作品にしばしばループ構造が導入されている理由(あるいはループものがセカイ系として論じられる理由)としては、ループものの作品ではループからの脱出の鍵として主人公とヒロインの恋愛感情のような個人的な関係性が設定されていることが多くそれがセカイ系の構造(近景と遠景の直結)と一致すること、そしてしばしば世界がループしていることを自覚しているのは主人公だけであると設定されているため必然的に心情・自意識の吐露が激しくなることが挙げられる。現実感覚を喪失した世界をシステム面で描くとループものに、シナリオ面で描くとセカイ系になると対比することもできる。2000年代に入ると、セカイ系の影響を受けながらライトノベルや美少女ゲームの分野にループ構造を備えた作品が散見されるようになる。東浩紀は、そういった作品においては単なるSF的ガジェットとしてループ構造が導入されているだけではなく、それが「ゲームの比喩」としてのメタフィクショナルな面を持っていることを指摘し、それを(作家・評論家の大塚英志が提示した「自然主義リアリズム/まんが・アニメ的リアリズム」を意識して)「ゲーム的リアリズム」として論じた。コンピュータゲームの中でも特にアクションゲーム・シューティングゲームなどでは、プレイヤーはゲーム内での主人公(あるいは自機)を操作し、敵に倒されたりトラップにひっかかったりしてミスをしたらあらためてやりなおし(リセット可能な死)、その試行錯誤を経て少しずつ先に進んでいくという醍醐味があるが、このような発想と類似した「失敗(死)を繰り返しながらループからの脱出を目指す」という設定がゼロ年代のループものの作品には取り入れられている場合が多い(後述の『All You Need Is Kill』『ひぐらしのなく頃に』のほかアニメ映画『時をかける少女』など)。この背景には、ライトノベルの起源のひとつとしてテーブルトークRPGのリプレイをノベライズしたものがあることが挙げられる。大塚英志は、(手塚治虫の「まんが記号説」をうけて)記号の集積でしかない漫画表現においていかに「(リセット不可能な)現実の死」を描くかということがまんが・アニメ的リアリズムの課題であるとして、ゲームのような(リセット可能な死を前提とした)小説を低く評価したが、東浩紀によれば一回性の生を描くためにこそ複数の生を体験しうるプレイヤーの視点を導入するゲーム的リアリズムの発想が効果を生むのだという。評論家の大森望は、ゲーム的リアリズムの議論はライトノベル・美少女ゲームに限らず日本の本格ミステリーについても適用できる、と述べている。一方、評論家の浅羽通明は前述の東、大澤、宇野らによる分析を批判的に取り上げつつ、反復に逃避するようなプロットは『浦島太郎』のように古くからある仙境淹流譚の変形に過ぎず、ループものの類型は古今東西の作品にも広く見られることを指摘し、こうした日本におけるループものの流行を特別視してオタク文化と結びつける議論は、自分の専門分野内だけで議論を完結させがちな論者たちの見識の狭さを示しているだけではないかという、懐疑的な見解を述べている。ループものには幾つかの分類法があるが、浅羽通明はループものに留まらない他のジャンルと比較するための分類法として、ループものを以下の4種類に分類している。これは受け手の感情移入の対象となる登場人物(主人公)が時間のループをどのように受け止めて行動し、受け手にどのような形で願望の充足や不安の解消といった作用をもたらすのかという観点による分類である。この分類では、登場人物が物語の進行に従ってこれらの状態を遷移する場合や、受け手がどの登場人物の視点に立って作品を読み解くかによって解釈が変化する場合もある。ループもの、あるいはループ構造を持つとして言及される作品として以下のものが挙げられる。

出典:wikipedia

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