


ぶら志゛る丸/ぶらじる丸(- まる、"BRASIL MARU/BRAZIL MARU")は、大阪商船、商船三井客船が所有し運航されていた貨客船および、洞雲汽船およびパナマのタモウ・ラインが所有し商船三井の手により運航されている鉄鉱石運搬船。大阪商船所属の初代はあるぜんちな丸級貨客船の二番船として西回り南米航路に就航して移民輸送に活躍したが、太平洋戦争中に潜水艦の雷撃により劇的な最期を遂げた。大阪商船および商船三井客船所属の二代目も貨客船であり、南米航路に就航したあとは海上パビリオンとして活用された。洞雲汽船およびタモウ・ライン所有の三代目は世界最大級の鉄鉱石運搬船であり、笠戸丸による移民輸送100周年を期して命名された。なお、船名表記については初代がぶら志゛る丸(正確には漢字の志そのものではなく、それをもとにした変体仮名のである)、二代目がぶらじる丸、三代目がポルトガル語表記で「BRASIL MARU」である。三代目の表記は初代のアルファベット表記と同じであるが、二代目は「BRAZIL MARU」と英語表記である。ぶら志゛る丸は三菱長崎造船所で1938年(昭和13年)10月15日に起工し1939年(昭和14年)8月2日に進水、12月23日に竣工した。基本的な仕様は姉妹船あるぜんちな丸とほぼ同一であり、一等食堂レイアウトでは村野藤吾ら建築家が参加し船内装飾もあるぜんちな丸と同様に日本趣味に統一されたものとなったが、一等食堂壁面は染織家山鹿清華が手掛けた総絹糸織の「手織綿」で彩られ、「日光」、「鎌倉」、「宮島」と日本の観光地の名前が付けられたスイートルームや特別室が配された。また、一等ラウンジの天井部分は、「あるぜんちな丸」とは違ってビームがむき出しのまま間接照明が配された形となった。これは設計担当の大阪商船工務部長の和辻春樹の発想であり、和辻曰く「ビームは船特有の持ち味だから、むしろ、あからさまに出して効果を出したら」ということとなり、通例では覆い隠すビーム部分に間接照明を配したのである。「世界にも類を見ない試み」かどうかはさておいても、装飾面においてはあるぜんちな丸とは決定的に異なる特徴となった。1940年(昭和15年)1月11日、ぶら志゛る丸は処女航海で横浜港を出港して処女航海の途に就く。しかし、あるぜんちな丸の処女航海中に勃発した第二次世界大戦の影響もあり、3航海を終えた時点で西回り南米航路からは撤退し、大阪大連線(大連航路)に移されたが、大連航路での活躍期間も短く、1941年(昭和16年)9月4日付で日本海軍に徴傭される。当初は一般徴傭船としてトラック諸島、サイパン島、クェゼリン環礁などへの輸送任務に従事。徴傭船になったあと、特別室「鎌倉」と「宮島」が霊安室に変身した。次いで1942年(昭和17年)5月1日付で特設運送船に入籍。入籍後、ぶら志゛る丸はあるぜんちな丸とともに第二連合特別陸戦隊(大田実大佐)指揮下の呉第五特別陸戦隊を乗せ、ミッドウェー島(MI)まで輸送することとなった。5月28日、ぶら志゛る丸は第二水雷戦隊(田中頼三少将)などの護衛の下にサイパン島を出撃して、一路ミッドウェー島に向かった。しかし、攻略部隊は6月4日になってB-17やPBY カタリナの雷爆撃を受け、翌6月5日にはミッドウェー海戦が生起して第一航空艦隊(南雲忠一中将)が壊滅し、作戦が中止になったため攻略部隊も反転せざるを得なかった。6月13日、ぶら志゛る丸は大宮島(グアム)に帰投。間を置かずアリューシャン方面の戦いに投入されたあるぜんちな丸とは違い、ぶら志゛る丸は横須賀に向かい、7月4日に到着。7月18日にはソロモン方面への航空資材と人員の輸送のため大阪と釜山に寄港したのちにラバウルに向かったが、途中で航空母艦に改装されることが決まり、輸送任務は打ち切られトラックで待機となった。8月4日14時、ぶら志゛る丸は便乗者240名を乗せてトラックを出港し、北水道を通過して横須賀へ向かった。しかし、出港後7時間足らずの20時50分ごろ、の推定地点を航行中、船体に衝撃を受ける。そのころ、トラック沖で哨戒にあたっていたアメリカの潜水艦グリーンリング (") がの推定地点で針路338度、推定速度16ノットから18ノットで航行するぶら志゛る丸を発見しており、浮上攻撃で艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、すべて外れたことを確認。グリーンリングでは「命中せず」と判定したものの、実際には不発魚雷が当たっており、ぶら志゛る丸では防水扉を閉鎖した上で速力を上げ、警戒を厳重にした。グリーンリングは一度は振り切られるも、翌8月5日未明にぶら志゛る丸を再び発見し、の推定地点で魚雷を3本発射。魚雷は2本がぶら志゛る丸に命中したことが確認され、ぶら志゛る丸は機関室が使用不能となって左舷へ傾斜する。やがて船首が45度の角度で持ち上がりはじめ、ぶら志゛る丸の大野仁助船長がブリッジに立って三度「天皇陛下万歳」を高唱して万歳をしたあと間もなく海中に没した。ぶら志゛る丸の救命ボートは、辛うじて第17号乙艇、第18号乙艇、第19号乙艇と第7号カッターのみが海上に降ろすことが出来、第17号乙艇には乗員53名、第18号乙艇と第19号乙艇には乗員52名、そして第7号カッターには乗員44名が乗艇し、このうち第7号カッターは決死隊として早期救助を求めるべく別行動をとることとされた。しかし、4艇が集結していたその時、攻撃を終えて捜索中だったグリーンリングが接近し、第19号乙艇乗艇の乗員1名を捕虜とした。グリーンリングはこの捕虜を尋問し、撃沈したのがぶら志゛る丸であることを確認した。4艇の運命はさまざまではあったが、結果的にはいずれも救助された。しかし、その漂流日数はいずれも10日以上で、第19号乙艇が10日、第7号カッターは11日、第18号乙艇は20日、そして第17号乙艇は実に25日間も漂流し続けて救助を待ちわびたのであった。別行動の第7号カッターを先発させて、残る3艇は櫂をマスト代わりに、衣類を帆代わりにして帆走を開始した。また、乗員のうち3名は便乗して漂流していた4名の女性タイピストに席を譲り、自らは海中に消えていった。やがて第7号カッターは8月15日にの地点で特設砲艦第二号長安丸(東亜海運、2,631トン)に発見されて救助され、第19号乙艇は8月16日にナモヌイト環礁オノー島に到達し、乗艇者は後刻トラックに帰還。残る第17号乙艇と第18号乙艇は依然として漂流を続けていたが、8月16日に分離してしまった。度重なるスコールの襲来に悩まされ、また発見した航空機も期待通りに艇を見つけてくれることなく飛び去る日々が続き、非常用乾パンも乏しくなってアホウドリを喰らう状況となったが、艇の生存者は神仏の加護を信じて希望を捨てなかった。とはいえ次第に生存者の体力は衰えていき、第17号乙艇では8月25日に水夫長が衰弱死して水葬に付された。一方の第18号乙艇も3名が亡くなったが、8月24日にの地点で特設駆潜艇第十拓南丸(日本水産、343トン)に救助された。第17号乙艇も8月27日に航空機が近接し、翌8月28日に航空機によって通信筒と食料を投下。そして、8月29日朝にの地点で、第7号カッターと同じく第二号長安丸に救助された。ぶら志゛る丸は昭和17年9月15日に除籍・解傭された。第二次世界大戦後、日本の海運業界および造船業界は計画造船によって再建が進められた。他方、大阪商船は1950年(昭和25年)11月にGHQの許可の下に南米航路を貨物船のみで再開しており、2年後の1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を契機として、南米移民が国策として復活することとなった。南米移民輸送を「歴史的大任」と自認していた大阪商船は、再び移民船を差し立てることを計画し「さんとす丸」(8,280トン)など3隻を就航させるが、「さんとす丸」以下の就航船はもとが貨物船で、貨客船への転換が決まってから特別三等船室を急遽増設したため、貨客船とはいっても船客設備は所詮は「付け足し」であった。大阪商船では本格的な移民客船の計画を構想していたが、1954年(昭和29年)度第9次計画造船で貨客船が計画され、大阪商船に割り当てられることとなった。これが、二代目の「ぶらじる丸」である。二代目「ぶらじる丸」は新三菱重工業神戸造船所で1953年(昭和28年)10月27日に起工し昭和29年4月6日に進水、7月10日に竣工した。「さんとす丸」に続いて平甲板型の船型を持っていたが、三等客室に充てられた甲板室全体と船首楼は切り離されていた。、最上甲板に一等船室、食堂と喫煙室が配され、上甲板に特別三等船室と食堂、エントランスを配した。1948年のSOLAS条約に適合した安全確保の設備も完備していた。竣工後まもなく、「ぶらじる丸」はブラジル移住者603名とその他船客293名を乗せて神戸港を出港し、処女航海の途に就く。タイミングよく外務省に移民局が開設されて移民輸送は華やかに復活するはずであったが、不十分な施策ゆえに移民の数は伸び悩み、予定されていた「ぶらじる丸」の姉妹船建造計画は一時棚上げされた。やがて「さんとす丸」の大改装や二代目「あるぜんちな丸」(10,863トン)の竣工で大阪商船の移民船隊は5隻となり、ホノルルへの寄港の開始や往航での工業製品の輸送、復航での鉱物や農産物の輸送で一時的には好調を保ったが、「あるぜんちな丸」就航の翌1959年(昭和34年)以降は、日本において高度経済成長期(第一次)に差し掛かったことや受入国側の状況の変化と、それにともなう移民の数の減少などで移民輸送は衰退の一途をたどる。折からの海運集約との関係もあって運輸省から移住船部門を切り離して新会社を設立するよう催促され、1963年(昭和38年)に日本移住船(現:商船三井客船)が設立され、「ぶらじる丸」を含む5隻の移住船は新会社に移籍した上で、大阪商船の裸用船として南米航路に就航し続けた。しかし、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを経て移民の退潮は一層大きくなって年間1,000名を下回るようになり、「ぶらじる丸」は1965年(昭和40年)8月に三菱神戸造船所で船客定員半減に合わせた改装を行った。また、「あるぜんちな丸」ともども航海回数も年3回と削減された。運航形態そのものもクルーズ客船のはしりのような感じとなって移民から大きく離れていくこととなったが依然として収入は上がらず、親会社の大阪商船三井船舶に用船に出されて船客スペースのみを商船三井客船が販売するという有様であった。やがて、第1回「日中青年友好の船」としての航海を最後に、1973年(昭和48年)9月限りで引退。引退した「ぶらじる丸」は1974年(昭和49年)7月1日から三重県鳥羽市に係船され、ブラジル展示館やレストラン、おみやげ店が入居する海上パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」となった。その後、1996年(平成8年)1月に同パビリオンが営業不振で閉館後、1月20日に「お別れ会」が開かれた。解体のため上海へと曳航されたが、広東省湛江市に本拠を持つ「湛江海上城市旅遊娯楽」の張華生会長が買収し、湛江市に係留の上、海上パビリオン「湛江号海上城市」として利用されており、アミューズメント施設やレストランが入居するが、外装や操舵室はそのまま残されている。新日本製鐵(新日鐵)(当時)の製造拠点のうち、大分製鐵所は喫水の深い船でも入港が可能というメリットがあり、このことから商船三井側が新日鐵からの「大分製鐵所に横付けが可能な30万トンクラスの運搬船を使用して原料調達を行いたい」という要望を受け入れて建造を決断した。しかし、30万トンクラスもの船舶の運用方法では入港地が限られて従来の三国間輸送は難しく、日本(大分製鐵所)とブラジルのを直接運航することとなった。シャトル輸送の形態をとることに関しては異論もあったが、「新しいオペレーションを構築する」という意図のもとに理解が得られた。船名は、日本とブラジル間のみをシャトル輸送することと、2008年が「笠戸丸」による移民輸送100周年にあたっていたことから「BRASIL MARU」と命名されたが、その用途から正式に命名されるまでに商船三井内部で「ぶらじる丸」と呼ばれていた。船主は洞雲汽船とパナマのタモウ・ラインであり、船籍はパナマに置かれている。商船三井は運航を担当している。「BRASIL MARU」は三井造船千葉事業所で建造され、2007年12月7日に竣工。同型船には「TUBARAO MARU(つばろん丸)」がある。竣工後は新日鐵と20年超にわたる長期契約を締結し、同社の製鉄所向けの鉄鉱石をブラジルから運搬している。2012年5月には、留学生として「ぶらじる丸」でブラジルに渡った経験があるUCC上島珈琲の上島達司会長が君津製鐵所で荷役中の「BRASIL MARU」を訪問した。構想の時点から新日鐵が深くかかわっているが、建造でも新日鐵の協力で日本の造船業界では初めて疲労強度改善処理(UIT/Ultrasonic Impact Treatment)を導入し、鉄鉱石が主貨物であることから浮力に余裕を持たせた船型を開発して、総体的に船体強度を高めている。日本とブラジル間のみのシャトル輸送が主ではあるが、日本最大の鉄鉱石の輸入相手国であるオーストラリアへの寄港も念頭に置かれた船体設計となった。また、環境に配慮した燃料タンク構造やディーゼル機関を導入した。これらの点が評価され、2007年度の日本船舶海洋工学会選定「シップ・オブ・ザ・イヤー」の大型貨物船部門を受賞した。
出典:wikipedia
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