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デビッド・ロイド・ジョージ

初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵、デビッド・ロイド・ジョージ(, 、1863年1月17日 - 1945年3月26日)は、イギリスの政治家、貴族。1890年に自由党議員として政界入り。1905年以降の自由党政権下で急進派閣僚として社会改良政策に尽くす。彼の主導によりイギリスに老齢年金制度や健康保険制度、失業保険制度が導入された。第一次世界大戦中の1916年12月に総辞職したアスキス首相に代わって首相に就任。強力な戦争指導体制と総力戦体制を構築してイギリスを勝利に導いた。パリ講和会議に出席するなど戦後処理も指導し、戦間期のヴェルサイユ体制の構築に大きな役割を果たした。1921年にはアイルランドの大英帝国自治領としての独立を認めた(アイルランド自由国)。1922年に大連立を組んでいた保守党の離反で総辞職に追い込まれた。首相退任後は自由党の没落もあって権力から遠ざかっていったが、政治活動は衰えず、ケインズ主義経済政策を確立して公共事業の拡大を訴えた。また晩年には反独派から親独派に転じた。1863年にイングランド・マンチェスターに生まれる。幼くして父を失い、ウェールズ・の母方の伯父のもとに身を寄せる。伯父は非国教徒のウェールズ愛国者で自由党を支持する中産階級者だった。ロイド・ジョージもウェールズ民族主義の影響を受けて、国教会・保守党・大地主に対する反抗心を培って育った。小学校卒業後、1878年から弁護士事務所で書生として働く。1884年に弁護士資格を取得し、弁護士事務所を独立開業する。弱者のための弁護活動を多く行い、とりわけ国教会の墓地への非国教徒の埋葬が拒否された事件における非国教徒の弁護活動でウェールズ民族主義者として名を馳せるようになる。1890年にの補欠選挙に自由党候補として出馬し、庶民院議員に初当選する。議員生活初期の頃は自由党議員としてより、ウェールズ選出の議員として行動することが多く、ウェールズの教会を国教会から独立させることを盛んに訴えた。また地主に打撃を与えることを目的に禁酒運動にも取り組んだ。1899年には老齢年金に関する庶民院特別委員会の委員となり、老齢年金制度導入の提言を行ったが、同年に勃発した第二次ボーア戦争のため実現しなかった。同戦争への反戦運動を主導し、それによって知名度を上げる。1902年にはバルフォア教育法への反対運動を主導した。1905年12月にヘンリー・キャンベル=バナマンを首相とする自由党政権が成立すると通商大臣として入閣した。1908年4月に首相がハーバート・ヘンリー・アスキスに代わると大蔵大臣に転任する。1908年7月には制定を主導し、70歳以上の高齢者に年金を支給する無拠出老齢年金制度を創出した。その財源確保のため、自由帝国主義派閣僚が訴えていた海軍増強に反対した。社会保障費やドイツ帝国との建艦競争によって増大した財政支出を補うため、1909年4月には所得税の累進課税性強化、相続税増額、土地課税など富裕層から税金を取り立てる「」を議会に提出する。保守派や地主貴族から強い反発を招き、11月に貴族院で否決されたが、や議会法の法案提出を挟んで、1910年4月に成立させることに成功した。1911年にはの制定を主導し、これによりイギリスに健康保健制度と失業保険制度が創出された。1912年にはがの建設を受注した件でインサイダー取引を行ったという疑惑を受けて政治生命を失いかけたが、なんとか乗り切った()。第一次世界大戦が勃発した直後には参戦に反対していたが、まもなく参戦派に転じた。反戦派最大の大物閣僚である彼の転向によってアスキス内閣は参戦を決定した。1915年5月に自由党・保守党の大連立によるアスキス挙国一致内閣が成立すると新設されたに就任し、軍需産業への政府介入の強化に務めた。さらに1916年6月に敵対していた陸軍大臣キッチナー伯爵元帥が死亡すると代わってに就任する。好転しない戦局や軍部が議会政治家の言うことを聞かない状況に焦燥し、優柔不断なアスキス首相を戦争指導から遠ざけて強力な戦争指導ができる政府を樹立する必要性を痛感するようになった。1916年12月、保守党党首アンドルー・ボナー・ローの支持を得て、自分を委員長とした少数閣僚による軍事委員会を作ることをアスキス首相に要求した。アスキスが応じないのを見ると辞職を表明した。保守党閣僚たちも辞職を表明したため、アスキス内閣は総辞職に追い込まれた。組閣の大命を受け、自由党ロイド・ジョージ派と保守党に支えられたを組閣し、大戦後半戦を主導した。総力戦体制を強化すべく、を新設して食料配給制に移行した。を新設して商船の政府統制を強化し、商船を船団にして海軍に護衛させ、ドイツ海軍の無制限潜水艦作戦に対抗した。西部戦線の膠着状態を破るための塹壕突破兵器として戦車の開発も急がせた。また女性の銃後の活躍を認めて、戦時中の1918年2月に普通選挙と30歳以上の婦人に選挙権を付与する選挙法改正を行った。ロシア革命によりロシアの政権を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボルシェヴィキ政権が1918年2月に独断でドイツと講和して戦争から離脱すると、アメリカや日本などとともに反ソ干渉戦争を開始した。戦後には干渉戦争への関心を無くすも、反共主義者の陸軍大臣ウィンストン・チャーチルや保守党からの強い要望で1919年秋までは続行した。1920年のソビエトのポーランド侵攻でもポーランドを支援したが、ポーランド侵攻が失敗に終わった後の1921年には世界に先駆けてソビエトと通商条約を締結した。1918年11月にドイツ政府が連合国との休戦協定に応じたことで第一次世界大戦は終結した。戦勝気分の冷めぬうちにと12月にも解散総選挙を行った。政権派の候補にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ロー連名の推薦状(クーポン)が手交されたため、クーポン選挙と呼ばれた。選挙の結果は政権側(とりわけ保守党)の大勝に終わった。1919年1月からパリで行われた講和会議に出席し、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンやフランス首相ジョルジュ・クレマンソーらとともに会議を主導してドイツに付きつける講和条件を決定した。6月にドイツ政府にこれを飲ませてヴェルサイユ条約を締結したことで戦間期のヴェルサイユ体制が構築された。オスマン帝国に対してはセーブル条約を結ばせて同国の支配していたアラブ地域を英仏で分割した。イギリスはパレスチナとイラクを獲得した。これにより大英帝国は中東をかつてないほど強力に支配することになった。アイルランド独立を目指すシン・フェイン党に対しては白色テロをもって厳しく弾圧したが、融和的態度も示し、1921年10月にはシン・フェイン党幹部と交渉してアイルランドに大英帝国自治領アイルランド自由国としての独立を許した。1921年10月のワシントン会議には外相アーサー・バルフォアを派遣したが、アメリカの圧力に屈する形で日英同盟を事実上破棄した。1922年8月から9月のチャナク危機にはトルコとの開戦も辞さない強硬姿勢を貫いて外交勝利を得たものの、再度の戦争を嫌がる国内世論から批判を集めた。この事件はロイド・ジョージの「ワンマン政治」にかねてから不満を抱いていた保守党議員から離反されるきっかけとなり、10月19日には保守党社交界における保守党議員の投票で大連立解消の決議がなされた。ロイド・ジョージはこれ以上の政権運営不可能と判断してただちに総辞職した。退任後、自由党が労働党の後塵を拝する第三党に没落していくことに危機感を抱き、自由党アスキス派との関係改善に乗り出した。1923年12月の解散総選挙では両派合同して選挙戦に臨んだものの第三党の状態から抜け出すことはできなかった。1926年末にアスキスが政界引退すると代わって自由党党首となったが、旧アスキス派のロイド・ジョージ不信は根強く、これを機に多くの自由党員が自由党を離党したため、自由党が再び大政党となるのは難しい情勢となった。ジョン・メイナード・ケインズをブレーンとするロイド・ジョージは1920年代末からイエローブックやオレンジブックを発行して公共事業による有効需要増加と雇用創出を訴えるようになった。第二次世界大戦後に先進資本主義国で主流となるケインズ主義の先駆けであったが、この段階では保守党からも労働党からも相手にされることはなかった。保守党に操られたラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣に協力したがる自由党議員が多いことに失望して、1931年に自由党党首職を辞した。以降は政界の一匹狼となったが、引き続き公共事業拡大を訴え続けた。1933年1月にドイツで公共事業拡大による失業対策を訴えるナチ党が政権を掌握したことも好意的に見ており、以降親ナチス派として行動した。もっともドイツが対外進出路線を強めるとネヴィル・チェンバレンの融和政策を批判するようになった。第二次世界大戦中の1940年5月に彼が庶民院で行った演説がチェンバレン失脚・チャーチルの首相就任の一因となった。1944年末にドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵に叙されるも1945年3月26日には死去した。【↑目次へ移動する】1863年1月17日にイングランド・マンチェスターに生まれる。父は教師ウィリアム・ジョージ。母はその妻でウェールズ・出身のエリザベス(旧姓ロイド)。姉にメアリーがおり、後に弟ウィリアムが生まれる。父ウィリアムは1864年に教職を退き、ウェールズ・に小規模な農場を購入して一家でそこへ移住したが、同年のうちに肺炎で死去している。路頭に迷った母エリザベスは三人の子らを連れて、ラナスティムドゥイで靴屋を営む兄リチャード・ロイドのもとに身を寄せた。後年ロイド・ジョージは貧しい家庭で育ったかのように語っていたが、実際にはロイド家は割と恵まれた中産階級の家庭だったようである。伯父は道徳心ある非国教徒であり、ウェールズ愛国者だった。伯父は地主の不興を買うことを恐れず自由党支持を公言したので、伯父の店は村における自由党の選挙活動の非公式本部として使われることもあったという。1865年に非国教会(国教会ではないプロテスタント)の「キリストの弟子」派の洗礼を受けた。1869年にラナスティムドゥイにある国教会が管理する「国民学校」の小学校に入学した。成績は優秀だったが、国教会信仰を押し付けられることには強く反発する学生だったという。国教会の礼拝に参加させられそうになると、他の反国教会派の学生とともに礼拝から抜けだしたという。子供の頃の愛読書はヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』であったといい、弱者に対する共感をこの著作から培ったという。また地主から土地を追われた小作人の子供たちが小学校から去らねばならなくなる光景をしばしば目撃し、地主への憎しみを募らせたという。子供の頃から大人を驚嘆させるほどの論客だったといい、子供たちの間でもリーダー的存在だったという。当時イギリスの子供たちは普仏戦争の影響でよく戦争ごっこして遊んだが、その遊びでロイド・ジョージはいつも指揮官役だったという。村は牧歌的そのもので、ロイド・ジョージもよく野や山を駆け回って遊んだが、そこでも「軍隊」を編成しては大地主の果樹園から木の実を盗むなどしたという。【↑目次へ移動する】15歳の時の1878年7月、近隣のにある弁護士事務所「ブリーズ、ジョーンズ・アンド・カソン(Breeze, jones & Cusson)」で書生として働くようになった。ここの所長であるブリーズ夫妻はロイド・ジョージを我が子のように可愛がってくれたといい、ロイド・ジョージはその好意を無駄にすることなく、仕事しながら法学書を読みあさったという。勉学の合間を縫って政治活動にも積極的に参加し、農民運動や禁酒運動に携わった。また地元新聞に政治論文を投稿し続け、1880年11月にはソールズベリー侯爵の演説を批判した彼の論文がはじめて新聞に掲載された。自由党の運動員としての活動も1880年から開始した。1882年6月の日記を見る限り、この時期、彼は軍隊に入隊していたようである。1884年に弁護士試験に合格して弁護士資格を取得し、で弁護士事務所を開業した。1887年には弟ウィリアムも弁護士資格を獲得し、二人で弁護士事務所を運営するようになった。独立弁護士となった後も政治活動に熱心だった。ウェールズ小作農に働きかけて、カーナーヴォンシャー農民組合を結成させることに貢献し、後にはその書記長を務めた。またの10分の1教区税反対運動にも参加した。さらに中央政界の自由党新急進派ジョゼフ・チェンバレンの影響を受けて都市の労働者階級にも社会改良政策による保護が必要と考えるようになったという。弁護士としての仕事も弱者のためのものが多く、治安判事に徹底的に反抗した。地元の国教会がオズボーン・モーガン埋葬法に違反して土地の寄進者(地主)との契約を盾に非国教徒のメソディスト式埋葬を拒否した事件で非国教徒の弁護を行ったことでウェールズ民族主義の英雄として名を馳せるようになった。1888年1月24日にはクリクキエスの名士リチャード・オーウェンの娘と結婚している。【↑目次へ移動する】1880年代後半にはウェールズの急進的政治活動家として著名になっていたロイド・ジョージは1888年夏にもの自由党候補者に選ばれた。また1889年には創設されたばかりのカーナーヴォン州議会の参事会員(Alderman)にも選出されている。1890年4月にカーナーヴォン・バラ選挙区でがあり、保守党候補である大地主と議席を争った。選挙戦でロイド・ジョージはソールズベリー侯爵内閣アーサー・バルフォアが主導するアイルランド弾圧政治を批判し、自由党党首ウィリアム・グラッドストンのアイルランド自治の方針に賛意を示した。そしてウェールズも宗教の自由のため立ちあがる必要があることを訴えた。またウェールズの土地制度や労働法の不公平さを批判し、土地譲渡・土地税・土地借用の負担を軽減することを公約した。さらに禁酒や地方自治強化の方針も示した。そして「丸太小屋で育った人間の夜明けがついに始まったことをトーリー(保守党)はいまだに悟っていない」と宣言した。しかし当時の自由党は分裂状態であり、加えてロイド・ジョージ自身も選挙区の自由党組織にあまり気を使わなかったので苦しい選挙戦を強いられた。ウェールズ民族主義の高揚に後押しされて18票差という僅差で保守党候補を破って初当選を果たしたものの、この時の苦戦の反省でロイド・ジョージは地元選挙区に気を配るようになり、以来55年にわたってこの選挙区から当選し続けることができた。【↑目次へ移動する】1890年4月17日に庶民院に初登院した。6月13日のではソールズベリー侯爵内閣が推し進める填補法を「酒類販売業者を擁護する法案」と批判し、この法案の提出者である保守党議員ランドルフ・チャーチル卿と自由統一党議員ジョゼフ・チェンバレンを糾弾した。ほとんどの新人議員は処女演説では無難な演説をしておくものだが、ロイド・ジョージはその慣例を守らなかった。とりわけ当時時代の寵児だったチェンバレンを批判したことはロイド・ジョージの勇名を轟かせるに十分な効果があった。マスコミからも絶賛され、『』紙は「カーナーヴォンの新議員の処女演説は驚嘆に値する。彼の前途は注目するべきであろう」と書いている。【↑目次へ移動する】ロイド・ジョージの初期の議員活動は、自由党議員としてよりもウェールズの議員としてのものが目立つ。1891年の10分の1教区税法案には強く反対し、自党の修正案にさえ反対票を投じている。1892年4月の牧師懲戒法案にも党首グラッドストンの意向に背いて反対した。ロイド・ジョージがこの法案に反対したのは国教会が「浄化」されてしまったらウェールズ国教会の腐敗ぶりを訴える主張に説得力がなくなり、ウェールズの宗教的独立が遅れてしまうと懸念してのことであったという(もちろん公にそのようなことを言うわけにはいかず、表向きは「問題が山積しているのに、このような小さな問題を審議している場合ではない」という理由を掲げていた)。1892年6月末にで地元選挙区に帰ったロイド・ジョージはウェールズ国教会にウェールズ国民の要求を受け入れさせようと訴えた。7月8日の投票、10日の開票の結果、ロイド・ジョージは2154票を獲得し、保守党候補に196票差で勝利した。総選挙全体の結果も自由党の辛勝となり、8月には自由党議員ハーバート・ヘンリー・アスキスの提出した内閣不信任案が可決され、第二次ソールズベリー侯爵内閣は総辞職し、グラッドストンが4度目の組閣の大命を受けた。グラッドストンに睨まれるロイド・ジョージには何のポストも与えられず、しかもロイド・ジョージの盟友だったトム・エリスが大蔵省政務次官に任じられたので、ロイド・ジョージは議会内で孤立した格好となった。だが、ロイド・ジョージの活動が衰えることはなく、1893年にはウェールズの教会を国教会から独立させる法案をめぐってグラッドストン政権の「手ぬるさ」を批判した。貴族院で否決されることが分かりきっている法案だったのでグラッドストン政権もこの法案に本気で取り組んでいなかったのである。ロイド・ジョージはウェールズ教会独立を訴える演説をウェールズ各地で行って世論を喚起した。その結果、グラッドストンの後を受けて首相・自由党党首となったローズベリー伯爵も無視できなくなり、1895年には内務大臣アスキスが再びウェールズ教会を国教会から外す法案を提出した。ロイド・ジョージはこの法案の審議で「ウェールズ人民が腐敗した国教会の支配のために被った損害」を次々と指摘し、また前保守党政権を批判してバルフォアと論争になったが、これを論破した。一方で法案の「手ぬるさ」も批判し、しばしばアスキス内相に対する妨害も行った。同年6月にローズベリー伯爵内閣が陸軍予算をめぐる問題で躓いて総辞職したためウェールズ教会独立法案も流産した。保守党党首ソールズベリー侯爵が三度目の大命を受け、保守党・自由統一党連立政権(統一党政権)が発足した。同政権は庶民院の過半数の議席を持っていないので、すぐにもに打って出た。今回の総選挙は自由党に不利であり、ロイド・ジョージも落選を覚悟していたが、予想に反して彼は安定して再選を果たした。ただ全国的には与党の勝利に終わった。1896年6月に与党が提出した農業課税法について「地主を優遇して下層民をますます貧しくする法案」と厳しく批判した。この時のロイド・ジョージの反対闘争は与党議員の賛成多数で1週間の登院停止処分を受けるほど激しいものであり、ウェールズの自由党系新聞から喝采を送られている。しかし同年7月に自由党党首ローズベリー伯爵が主催する晩餐会に出席した際にロイド・ジョージが発表した「ウェールズ自治案」に対する反応は芳しくなく、これをきっかけにロイド・ジョージは、ウェールズ問題だけ掲げていても全イギリス国民の支持は得られないと痛感するようになり、全イギリスの自由主義のために戦う必要があると確信するようになったという。1899年5月には「老齢適格貧困者に関する庶民院特別委員会」の委員となり、無拠出の老齢年金制度を新設すべき旨の報告書を議会に提出した。ところが1899年10月より第二次ボーア戦争が開始されたことで戦費の維持のために老齢年金制度は流産した。【↑目次へ移動する】第三次ソールズベリー侯爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンの帝国主義政策をめぐって自由党は、帝国主義を支持するローズベリー伯爵やアスキスら自由帝国主義派と帝国主義に批判的なウィリアム・バーノン・ハーコートやヘンリー・キャンベル=バナマンら小英国主義派に分裂していた。この分裂は第二次ボーア戦争が始まると更に深刻化した。自由帝国主義派は政府の戦争遂行を支持したが、党首キャンベル=バナマンらは「戦争が始まった以上、政府を支持するが、早期に講和を結ぶべし」と主張した。一方ロイド・ジョージはどちらにも属さず、「親ボーア派」と呼ばれる反戦派の中心人物となった。ロイド・ジョージは1899年10月29日の庶民院における演説で「政府は無益な戦争を開始し、それによって老齢年金に使用されるべき財源も消費した。南アフリカ(トランスヴァール共和国)に在住している外国人(イギリス人)は不平不満を述べているが、これはイギリス本国における生活の敗残者の不平よりも重大な問題ではない」と訴えた。こうした反戦運動によってロイド・ジョージの名はイギリス中に広く知られるようになったが、反戦派は少数派であり、地元ウェールズでも支持されているとは言い難かった。緒戦のボーア軍の奮戦で戦争が長期化の様相を呈する中、1900年初頭に反戦運動が一時的に盛り上がったが、2月になるとイギリス軍の反転攻勢があり、加えてチェンバレン植民地相が民衆の帝国主義感情を喚起する演説を行ったことで、反戦派への批判が高まった。ロイド・ジョージも4月にバンガーで反戦演説を行っていた際に戦争支持派の民衆から棍棒で滅多打ちにされて意識不明の重体に陥っている。さらに5月にマフィケングで包囲されていたイギリス軍が救出されると英国民の戦争翼賛ムードが最高潮に達し、もはや反戦集会など開くことは一切できなくなった。6月にイギリス軍がトランスヴァール共和国首都プレトリアを占領すると戦勝ムードが広まった。保守党政権はこれを利用して9月にも解散総選挙を行った。この選挙でロイド・ジョージは「政府はチェンバレンが株主になっているに優先的に海軍の爆発物の注文を出した」と批判した。しかし結局与党(保守党と自由統一党)は野党(自由党とアイルランド国民党)に134議席という大差をつけて勝利した。この敗北で自由党の結束はますます乱れ、アスキスら自由帝国主義派とロイド・ジョージら親ボーア派の溝が深まった。戦争はゲリラ戦と化して、その後も続き、ロイド・ジョージら親ボーア派はイギリス軍による焦土作戦を批判した。いつまでも終わりが見えない戦争にイギリス国内でも厭戦気分が高まっていった。また強制収容所でボーア人に対して加えられた暴虐への批判も高まった。だがこれによってロイド・ジョージへの批判熱が収まったわけではなく、1901年12月にロイド・ジョージがチェンバレン植民地大臣の地元バーミンガムで演説会を開催した際には戦争支持派の民衆が暴動を起こすという事態に発展している(この時ロイド・ジョージは警察官に変装して難を逃れた)。結局、この戦争はボーア人側も厭戦気分が高まったことで、1902年3月に休戦協定、5月に講和条約が結ばれ、ボーア人が英国王エドワード7世の主権を受け入れてイギリスの統治に帰順するということで終結した。ソールズベリー侯爵内閣第一大蔵卿バルフォア(同年7月に首相)は、1902年3月に「バルフォア教育法」と呼ばれるの法案を議会に提出した。これは1870年にグラッドストン自由党政権下で制定された初等教育普及のためのに続くもので、中等教育普及のために州議会がすべき支援を定めた法律であるが、同時に1870年の初等教育法で定められていた非国教徒(自由党支持基盤)が強い影響力を持つ学務委員会(School Attendance Committee)を廃止して、新たな小学校監督機関としてを設置させるものでもあった。加えて国教会とカトリックの学校には地方税の一部を導入するという条文もあり、全体的に非国教徒に不利益な内容だった。非国教徒の反発は激しく、とりわけウェールズで反対闘争が激化した。庶民院ではロイド・ジョージが中心となって同法への反対運動が展開された。結局、この法案は可決されたものの、ロイド・ジョージの反対闘争によって審議は紛糾し、法案可決まで9カ月かかった。その間にボーア戦争以来、小英国主義派と自由帝国主義派に分裂していた自由党はこの法案への反対運動を共通項に一つにまとまることができた。また法案可決後にウェールズで行われた非国教徒の学生の学校ボイコット運動の先頭に立つことになった。ロイド・ジョージ自身はこのボイコット運動にあまり乗り気でなかったが、立場上、避けられなかったという。この運動はあまり盛り上がらず、寄付金もさほど集まらなかったので継続は難しくなり、ロイド・ジョージの指導力にも疑問が呈されるようになった。しかし彼にとっては幸いなことに世論の関心はまもなく関税問題に向かったので、この問題は自然収束し、彼のウェールズでの権威に決定的な傷が入ることはなかった。関税問題で保守党政権内の意見対立は深刻化し、首相バルフォアは保守党分裂を避けるため、1905年12月4日に総辞職した。これを受けて国王エドワード7世は、同日中に自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマンに組閣の大命を与えた。ロイド・ジョージは同内閣にとして入閣した。当時43歳であり、閣内大臣では最も若年だった。またウェールズ人として初入閣でもあった。2年強の通商大臣在職中にロイド・ジョージは3つの法律の制定を主導した。1906年には「生産調査法(Census of Production Act)」を制定して産業統計を正確に行うことを目指した。ついで1907年には「パテント及びデザイン法(Patents and Designs Act)」の制定を主導し、自国産業の国際競争力強化に努めた。さらに1908年にはロンドン港の荷物運搬の効率化を目指して「ロンドン港法案(Port of London Bill)」の作成にあたったが、この法案の成立はロイド・ジョージの通商大臣退任後となった。しかし公約だった「ウェールズ非国教化法案」は延期すると発表し、ウェールズで批判を集めた。【↑目次へ移動する】1908年4月、病気で退任したキャンベル=バナマンに代わって大蔵大臣アスキスが組閣の大命を受け、が成立した。空いた大蔵大臣のポストにはロイド・ジョージが就任した。またウィンストン・チャーチルがロイド・ジョージの後任の通商大臣に就任した。急進派として知られるこの二人の入閣で改革機運は高まった。ロイド・ジョージが大蔵大臣に就任した頃のイギリスの社会状況は厳しかった。1907年後半から不況が押し寄せ、1907年に3.7%だった失業率は、翌1908年には7.8%に跳ね上がっていた。こうした中で労働党の「労働権の確立」を訴える運動が盛り上がっていき、他方保守党の関税改革派も「関税が国民の仕事を守る」と主張して再攻勢をかけてきていた。自由党としては伝統的支持層である中産階級の支持を失わずに労働者階級に支持を拡大させて立て直しを図りたいところであり、それが本来自由放任主義の立場である自由党が社会政策を実施する背景となった。1908年5月にロイド・ジョージは労働党が求めていた無拠出の老齢年金制度の法案を庶民院に提出した。これまで貧しい高齢者が無償で救済を受けるためには救貧法を利用するしかなく、その適用を受けるためには監獄のような救貧院に入らなければならなかったので、これは高齢者の生活保障の大改革だった。だが野党保守党からは「国民道徳の低下を招く」という批判を受けた。これに対してロイド・ジョージは「軍の兵士たちには年金を与えるのに、産業の老兵たちは貧苦の中で死なせるというのは非道である」と反論した。またこの法案は財源の裏付けがないと批判されたが、それについてもロイド・ジョージは軍事費を削減したので問題無しと反論した。老齢年金制度はすでにドイツで運用されている制度だったが、ドイツでは拠出制だった。それを無拠出とする理由についてロイド・ジョージは拠出制だと収入がない婦人が年金を受けられなくなるし、貧しい労働者はそんなものを拠出している余裕がないことを指摘した。加えて拠出制にするとや労働組合の保険制度と利害が衝突する恐れが高いことも指摘した。この法案は、予算案の付属として出されたため、保守党が多数を握る貴族院としても否決させるのは難しかった(金銭法案は庶民院が決めるというのが英国議会の不文律だった)。またこの法案には労働党や「」が主張する救貧法廃止と「労働権」の確立の論議が労働者層の支持を集める前に「先手」を打つという保守的な意味もあったため、1908年7月にも野党保守党の支持も得て可決されている。このによって1909年より70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されるようになった。救貧法の適用を受けることで「被救済民」のレッテルを貼られるのを恐れていた低所得高齢者から非常に感謝されたといわれ、同法は長きにわたり「ロイド・ジョージ」という渾名で呼ばれて親しまれた。イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけイギリスに急追していたのがドイツ帝国だった。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった。これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した。しかし1908年2月にドイツ帝国議会で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦して1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦合わせて58艦の保有を目指すことになった。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった。こうした中で発足したアスキス内閣は、発足後ただちに自由帝国主義派と急進派に分裂し、海軍増強論争が起こった。レジナルド・マッケナや外務大臣エドワード・グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対してロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障の財源確保を優先させるべきと主張した。1908年8月にドイツの国民保険制度を視察するため訪独したロイド・ジョージは、ドイツ内務大臣テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークと会見したが、彼から「イギリスは我々を包囲しようとしている」「あらゆるプロイセン人は死ぬまで祖国を守る」と釘を刺されたうえ、市井でもドイツ国民の愛国心の高揚ぶりを目撃することになった。これを警戒したロイド・ジョージは4艦の弩級戦艦の建艦を認めるに至り、閣内対立は一時収束した。しかし1909年1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4艦以上建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した。結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で1910年にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた。大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「貧困と悲惨を根絶するための戦争の戦費」と称して「」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や老齢年金などの社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった。人民予算には所得税率の引き上げと累進課税性の強化、相続税の引き上げ、そして土地課税制度導入が盛り込まれていた。この予算はイギリス政界や世論を二分した。ロイド・ジョージの片腕であるチャーチルが「予算賛成同盟(Budget League)」を結成したのに対抗して保守党のらは「」を結成した。両組織とも激しい大衆取り込み・動員を行った。一方ロイド・ジョージはロスチャイルド卿が人民予算反対運動の黒幕と見て、彼を激しく個人攻撃した。人民予算は庶民院を通過したものの、貴族院からは「社会主義予算」「アカの予算」と徹底的な攻撃を受けた。とりわけ土地課税は地主貴族たちを刺激し、「土地の国有化を狙うもの」という批判が噴出した。自由党内のホイッグ派(土地貴族が多い)も保守党と声を合わせるようになったため、結局土地課税についてはロイド・ジョージ自身が骨抜き修正している。それにも関わらず、「人民予算」は1909年11月に庶民院の第三読会を通過した後、貴族院から激しい反発にあった。地主貴族たちはなおも土地の国有化につながる法案と信じていた。結局貴族院は11月30日に人民予算を賛成75、反対350という圧倒的大差でもって否決した。これを受けてアスキス内閣は人民予算の承認と貴族院の権限縮小を求めて12月3日に議会を解散し、総選挙に打って出た。この選挙戦は事実上ロイド・ジョージが指揮をとったが、彼は予定されていた選挙スローガンの一つ「ウェールズ国教会の廃格」を取り下げさせている。非国教徒主義はもはや票にならないという判断だったという。論点は「人民予算」と「貴族院権限縮小」に集中させた。貴族院権限縮小の訴えには国民はほとんど無関心だったが、人民予算についてはイングランド北部工業地帯やスコットランドで支持が広がった。しかし保守党の海軍増強の訴えの方がより幅広く支持を広げた。ロイド・ジョージはイギリスの海軍力はドイツのそれをはるかに凌駕しているとして海軍増強論に慎重姿勢を示したが、これは有権者からかなりの反発を招いた。そのため1910年1月に行われたは接戦となり、自由党は275議席、保守党は273議席、アイルランド国民党は82議席、労働党は40議席を獲得した。大勝した前回選挙と比べると自由党は104議席を喪失した。この選挙結果によりアスキス内閣は海軍増強路線に舵を切るようになり、またロイド・ジョージら急進派閣僚も自由帝国主義化を強めていくことになる。しかし自由党はアイルランド自治法案提出を公約に掲げていたのでアイルランド国民党から人民予算支持を取り付けることができ、また労働党も人民予算を支持する立場を表明した。そのため人民予算は1910年4月20日に再提出され、庶民院を可決後、貴族院の権限縮小を盛り込んだ議会法案も議会に提出することで貴族院を牽制しながら貴族院を無投票で通過させることに成功した。4月28日に国王エドワード7世の裁可を得て成立した。議会法案をめぐって自由党政権と保守党が緊迫する中の1910年5月6日にエドワード7世が崩御し、ジョージ5世が即位した。政界に「新王をいきなり政治危機に晒してはならない」という融和ムードが広まり、両党の会合が持たれた。この際にロイド・ジョージは保守党に連立内閣を提唱したが、保守党議員にはロイド・ジョージを急進派として疎む者が多く、またアイルランド自治法案への反発も根強かったためうまくいかなかった。結局1910年11月までには両党の交渉は決裂に終わった。この決裂で議会法制定を目指すことにしたアスキス首相は、ジョージ5世から「総選挙を行って勝利した場合には貴族院改革法案に賛成する新貴族議員を大量に任命する」という確約を得て、11月26日にもこの年二度目の解散総選挙に打って出た。ロイド・ジョージの提案により自由党はこの選挙で「貴族が統治するか、民衆が統治するか」を選挙スローガンに掲げることになった。国民は貴族院改革にはほとんど無関心だったのだが、貴族院改革はアイルランド自治法案可決につながるためアイルランド自治派の有権者を惹きつけることには成功した。12月のの結果は自由党272議席、保守党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席と前回総選挙とほとんど変わらないものだった。しかしアスキス内閣は1911年2月21日の新議会で自党と友党アイルランド国民党があわせて過半数を制したので貴族院改革の国民のコンセンサスは得たと力説し、議会法案を再度議会に提出した。法案は5月15日に庶民院を通過し、5月23日に貴族院へ送付されたが、貴族院は断固否決の姿勢を示した。7月にはこのままでは法案可決は難しい情勢となった。ロイド・ジョージは7月18日にもバルフォアや保守党貴族院院内総務ランズダウン侯爵と会談し、王から新貴族任命の承諾を得ており、貴族院が議会法案を否決した場合、国王大権で法案に賛成する新貴族を任命することになるであろう旨を通達した。これを知ったバルフォアやランズダウン侯爵はもはや抵抗不可能と判断して議会法を成立させるべきと考えたが、保守党内には政府の態度は脅迫に過ぎないとして貴族院権限縮小に反対し続ける者が多かった。貴族院保守党は分裂状態のまま8月10日の投票を迎え、一部保守党貴族院議員が賛成票を投じた結果、賛成131、反対114という僅差で議会法が可決成立した。議会法可決後、ロイド・ジョージの主導でが制定された。この法律は2部構成になっており、第1部は疾病に備えた健康保険制度を定めており、賃金労働者の多くを加入対象としていた(中産階級は民間保険の者が多い)。負担割合は被保険者が週4ペンス(女性は3ペンス)、雇用主が週3ペンス、国家が週2ペンスとなっており、それをちゃんと収めていれば、疾病の場合には男性被保険者には週10シリング、女性被保険者には週7シリング6ペンスが友愛組合や労働組合から支給されるという内容である。ロイド・ジョージは「この法律で賃金労働者は4ペンス払って9ペンスもらえる」と豪語したが、労働者にとって週4ペンスというのは決して安い額ではなかった。この健康保険制度はドイツ帝国宰相ビスマルクが制定した疾病保険制度をモデルとした物であった。ロイド・ジョージは「ドイツの後塵を拝する水準であってはならないのは海軍力だけではない」と力説し、ドイツを越える疾病保険制度の導入の必要性を訴えた。ドイツの疾病保険制度と比べるとドイツのものが国家主導なのに対して、イギリスのものは国家と民間団体の協力の上に成り立っている観があった。これは権威主義と自由主義のお国柄の違いと考えられている。第2部は建設や造船関係の業種の労働者を対象とした失業保険制度を定めていた。被保険者と雇用主が週2と2分の1ペンスを負担し、国が1と3分の1ペンスを負担した。この国民保険法は福祉国家への第一歩を踏み出した法律であるが、その内容ははなはだ不十分であった。国民保険の本格的整備は第二次世界大戦後を待つことになる。1911年の帝国会議で大英帝国各地に無線中継地を設置してを整備することが決議された。郵政大臣ハーバート・サミュエルは帝国防衛委員会の小委員会である帝国無線通信委員会の「勧告に従って」、同年12月よりとの交渉を開始した。翌1912年3月7日にマルコニ社はイギリス政府から帝国内の6か所に無線中継地を建設する工事の仮受注を受けた旨を社報で発表した。さらに7月19日に正式な契約が交わされた。この契約でサミュエルと交渉していたマルコニ社側の担当は常務取締役ゴッドフリー・アイザックス(Godfrey Isaacs)だったが、彼はロイド・ジョージの側近であるルーファス・アイザックスの弟だった。この関係のためにアイザックス兄弟とサミュエルの三人が結託してポールセン社の無線を不当に退けて、「質の悪い」マルコニ社の無線を優遇して採用したという噂が流れた(三人ともユダヤ人であったこともこの噂を助長した)。またこの間マルコニ社の株が上がり続けており、閣僚たちがインサイダー取引で儲けたという噂が広がり始めた。夏休み明けの1912年10月11日から庶民院でマルコニ問題が取り上げられた。サミュエルは契約が進められていた当時マルコニ社の無線が最も優れていたことを説得力ある主張で訴えた。一方インサイダー取引疑惑についてはルーファス・アイザックスから否定した。ロイド・ジョージ自身ははっきりとは否定せず、ルーファスに任せて引っこんでいた。1913年2月、フランスの『』紙がサミュエルとアイザックス兄弟のインサイダー取引疑惑を報じたが、これに対してルーファスは事実無根として同紙を訴えた。裁判自体は『ル・マタン』側が非を認めて争わなかったことでルーファスの勝訴に終わったが、この裁判の際にルーファスは、アメリカ・マルコニ社の株を所有していること、その一部をロイド・ジョージに売ったこと、しかしアメリカ・マルコニ社はイギリス・マルコニ社とは全く無関係であること、またこの株について儲かるどころか損をしたことを証言した。これは昨年10月11日の議会での発言と食い違っているように思われた。そのため庶民院のマルコニ契約特別委員会は、1913年3月から5月にかけてアイザックス兄弟やロイド・ジョージ、サミュエルらを証人喚問した。証人喚問でロイド・ジョージは「陛下の政府とアメリカ・マルコニ社の間にはアメリカ・マルコニ社の株価を上げるようないかなる契約も交渉もないのだから自分のアメリカ・マルコニ社への投資(彼は投機ではなく投資とした)については何の問題もない」と答弁した。自由党議員が多数を占めるマルコニ特別委員会は6月11日に委員会案を決議して庶民院へ送付したが、そのなかでロイド・ジョージについて「アメリカ・マルコニ社とイギリス・マルコニ社の二社は無関係であると信じての株購入であり、責を問う必要はない」「ただ1912年10月11日の時点でちゃんと説明していたら、余計な誤解を受けずにすんだであろう」とした。だが野党保守党の委員ロバート・セシル卿はこの委員会案を認めず、「大蔵大臣の株購入は投資ではなく投機にあたる」「アメリカ・マルコニ社は間接的にだが、陛下の政府とイギリス・マルコニ社が結んだ契約に利害関係を持っている」という内容の独自の草案を作った。これを受けて保守党は6月18日にもアメリカ・マルコニ社の株を購入した閣僚の行動を遺憾とする決議案を庶民院に提出した。事実上ロイド・ジョージとルーファス・アイザックスに対する不信任決議案であった。これに対してロイド・ジョージもルーファスもこれまでの主張を繰り返し、汚職行為ではない旨の答弁を行った。保守党と自由党の睨みあいが続く中、アスキス首相は「閣僚たちの行動は軽率だった」という言葉を盛り込んだ修正案を提出することで保守党と妥協を図ろうかとも考えたが、ロイド・ジョージが辞表を提出するほど強く反対したため、結局閣僚の非を一切認めない修正案を提出することに決めた。保守党決議案は否決され、自由党の修正案が可決成立した。こうしてロイド・ジョージは失脚を免れたが、弱者・労働者の味方としてのイメージダウンは避けられなかった。ロイド・ジョージの演説中にアスキス首相は他の閣僚に「天使の羽も少し切り取られた格好だね」と呟いたという。しかしロイド・ジョージの第一次世界大戦での国家への貢献を考える時、歴史家の多くは「ロイド・ジョージの政治生命をマルコニ事件で絶たなかったことは、イギリスにとって幸運なことであった」と論評している。第一次世界大戦の前夜、イギリス国内は内乱の危機に陥っていた。1911年6月にはイギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発し、各港は海運機能が麻痺した。一時下火になるも8月には鉄道労働者が海運労働者と連携したストライキを起こしたことで再び盛り上がった。これに対してチャーチル内務大臣は徹底弾圧をもって臨み、各地に鎮圧軍を派遣したため、ロンドン、リヴァプール、などでは多数の労働者が軍隊の発砲で死傷する事態となり、イギリスは混乱の極致に陥った。事態を危惧したロイド・ジョージは、経営者たちのところを回ってドイツとの戦争が不可避かつ間近であると説得し、経営者たちに労働者に対して融和的態度を取らせたことでストライキを収束に向かわせた。しかし1912年以降もストライキが発生し、大戦直前時のイギリスは革命前夜の空気さえ漂っていた。またもう一つの内乱の危機がアイルランド問題だった。1912年から1914年にかけてアイルランド自治法をめぐって議会が紛糾する中、アイルランド北部アルスターのプロテスタントや保守党員たちは「アルスター義勇軍」を結成し、アイルランド自治にアルスターが含まれることに抵抗した。これに対抗してカトリックが大多数を占める南アイルランドも「アイルランド義勇軍」を結成した。この両軍が睨みあう状態となり、アイルランドは内戦寸前の状態に陥った。内乱を恐れたロイド・ジョージは、アルスターを5年か6年間自治の対象から除外し、その後アイルランドに加えるという妥協案を作成し、アスキス首相がこれをアイルランド国民党と保守党に提案したが、両党とも拒否した。アイルランド自治法案は1914年5月26日に庶民院を可決した。3度目だったので議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。内乱を回避するためアスキス首相が再びロイド・ジョージの妥協案を両党に提案したが、その交渉中に第一次世界大戦が勃発し、保守党党首アンドルー・ボナー・ローとの交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになった。内乱の危機は世界大戦のおかげで回避された格好であった。1914年6月のサラエボ事件を機に7月終わりから8月初めにかけてドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国対ロシア帝国、フランス共和国の第一次世界大戦が勃発した。イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦すべきか否か意見が分かれた。ロイド・ジョージは当初参戦に反対していた。しかし8月2日にドイツ軍がベルギーの中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明し、これを機にロイド・ジョージも参戦派に転じたことで、アスキス内閣は対独参戦を決定した。転向の理由についてロイド・ジョージはベルギーを救援する必要性をあげたが、実際にはイギリスの命運はフランスと切り離せないし、このような大事な問題で内閣を分裂させるわけにはいかないという考えが大きかったという。参戦反対派のによればロイド・ジョージの転向はチャーチルの影響であったという。ロイド・ジョージは大蔵官僚の「これまでの戦争は全て戦費の半分を課税で賄ってきた」という説得を受け入れず、借入金を中心にして政府の需要増大分を賄った(むろん税率の上昇も行ったが)。主な借入先は銀行であり、イングランド銀行からも借り入れを行った結果、通貨インフレが発生した。1914年に流通券という金に支えられていない新通貨を政府が発行したこともそれを加速させた。1915年3月には労働組合指導者と交渉し、軍需産業の利潤を抑えることを条件に半熟練労働者や婦人労働者を利用することを認めさせた。一方作戦面では、西部戦線が膠着し、消耗戦の様相を呈する中の1915年1月1日に「西部戦線で犠牲の多い戦闘を続けるより派遣軍をフランスからバルカン半島へ移し、対オーストリア作戦を開始すべき」という内容の覚書を内閣に提出した。陸軍大臣キッチナー伯爵元帥や海外派遣軍司令官ジョン・フレンチ元帥ら軍部が強硬に反対したため、この時には沙汰やみとなったが、以降アスキス内閣は東部戦線を重視する東方派と西部戦線を重視する西方派に分裂していった。ロイド・ジョージと同じく東方派だった海軍大臣チャーチルの主導で1915年3月からガリポリの戦いが開始されたが、失敗に終わった。西部戦線も3月から5月にかけての攻勢が弾薬不足で失敗した。開戦以来の挙国一致ムードで議会における政党間争いは一時休戦という形になっていたが、1914年秋から1915年春にかけて自由党・保守党の関係は冷え込んでいった。とりわけ1915年3月から4月頃にロイド・ジョージが酒類製造業者の国家買い上げを計画したことに保守党は強く反発していた。そういう中で上記の作戦上の大失敗があったため、保守党党首ボナー・ローも党内の政権への不満を抑えがたくなっていった。1915年5月にアスキス首相とロイド・ジョージ蔵相と保守党党首ボナー・ローの交渉が行われ、自由党と保守党の大連立による挙国一致内閣を成立させる運びとなった。この交渉により保守党からの評判が悪いロイド・ジョージは蔵相を離れて、新設されるに転任することになった。軍需省は軍需に関する権能を陸軍大臣キッチナーから奪う形で新設された省庁だった。軍需大臣ロイド・ジョージは役人よりも民間の企業家を積極的に登用し、軍需産業への国の介入を強化して軍需品価格の統制を行った。軍需産業がかつて生産したことのない物を生産できるよう、また大量生産方式を導入できるよう逐次援助を行った。さらに国立砲弾製造工場も増やしていった。大戦二年目になると戦死者の増大で兵員が枯渇した。イギリスでは伝統的に徴兵制は避けられてきたが、ロイド・ジョージはチャーチルや保守党閣僚たちとともに徴兵制導入を盛んに訴え、反対派の自由党閣僚を辞任に追いこみ、また慎重派のアスキス首相に重い腰を上げさせて、1916年5月に実現にこぎつけた。この徴兵制論争をきっかけにロイド・ジョージと保守党の関係は親密化した。一方作戦面では軍部がロイド・ジョージやチャーチルのような議会政治家が作戦指導に口を出してくることをますます疎ましく思うようになっていた。とりわけロイド・ジョージは現役軍人閣僚である陸軍大臣キッチナー伯爵元帥と激しく対立し、彼のことを「考え方が古い」「軍事情報を閣議で隠す」と批判した。キッチナーの方も議会政治家は機密を平気で自分の妻に話し、その妻が主婦仲間に広めていくと批判していた。二人の方針をめぐる対立も激しかった。ロイド・ジョージはチャーチルが海軍大臣時代に目を付けた「戦車」に注目し、その大量生産を目指したのに対し、キッチナーは戦車を「おもちゃ」と呼んで一蹴していた。またギリシャ・サロニカに上陸していたイギリス軍をめぐる問題でも、ロイド・ジョージが親独的中立派のギリシャ王コンスタンティノス1世を恫喝してでもサロニカの兵力を増強し、バルカン半島を固めるべきと訴えたのに対し、キッチナーはギリシャを訪問してギリシャ王の引見を受けていたため、彼の意を汲んでサロニカから撤退すべきと主張した。サロニカ論争はキッチナーが譲歩することで解決したものの、軍部と議会政治家の亀裂は深まっていく一方だった。ちなみに国王ジョージ5世や保守党、マスコミも議会政治家が軍事作戦に介入することには否定的だった。1916年5月31日のユトランド海戦後、ロイド・ジョージはキッチナーを更迭しないなら辞職するとアスキス首相に申し出た。アスキスも議会政治家をないがしろにするキッチナーを快く思っていなかったが、キッチナーの国民人気は高く、簡単に切るわけにはいかなかった。そのためアスキスは折衷策としてキッチナーを使節として同盟国ロシアに派遣してロンドンを空けさせることにした。キッチナーはその道中の6月5日にオークニー諸島沖で乗船とともに沈んだ。機雷にかかったと言われるが、巷にはロイド・ジョージによる暗殺という噂が流れたという。【↑目次へ移動する】1916年6月28日、キッチナーの後任としてロイド・ジョージがに就任した。しかし軍の作戦指導に関する権限の多くは、前陸軍大臣キッチナーと帝国参謀総長中将の協定によりが握っており、陸軍大臣の権限は弱かった。ロイド・ジョージは陸軍大臣の権限を強化しようと努めたが、そういう画策は国王ジョージ5世や軍部の不興を買うだけだった。西部戦線では7月から11月にかけてソンムの戦いが発生し、イギリス軍は40万人もの死傷者を出した。この悲惨な戦いにアスキスへの不満の声は高まった。この間の10月にロイド・ジョージは戦況打開のため東部戦線に力を入れることを考え、英仏伊連合軍でソフィアに進軍してルーマニア王国を助ける作戦を提案したが、帝国参謀総長ロバートソンによって退けられた。ロイド・ジョージはあまりに犠牲者が多い戦況や軍部が議会政治家の言うことをますます聞かなくなっている状況に焦燥しており、11月になると強力な戦争指導を行える新政府が必要との認識を強めた。すでに軍事委員会という少数の閣僚による戦争指導機関が設置されていたが、ロイド・ジョージは委員長アスキスが優柔不断なためにこの委員会がうまく機能していないと考えていた。そのためアスキスを含まない3人ぐらいの極少人数の閣僚から構成される軍事委員会を作り直し、そこに独裁権を与えるべきと考えるようになった。これをアスキス首相に認めさせるためには(実質的党首)のボナー・ローの支持が必要だった。ボナー・ローの秘書であるマックス・アトキン(後のビーバーブルック卿)を仲介役にして秘密裏に話を進めていった。11月25日にボナ・ローからアスキス首相に軍事委員会創設計画の原案が提出され、12月1日にはロイド・ジョージからもその計画の覚書がアスキスに提出された。アスキスは少数の軍事委員会構想には賛成したが、その委員長は首相である自分がなるべきと主張した。ロイド・ジョージはそれを拒否し、12月5日に辞職を表明した。ロイド・ジョージなくして政権運営は困難と考えられていたので、保守党閣僚はロイド・ジョージに不信感を持っている「3C」(オースティン・チェンバレン、ロバート・セシル卿、カーゾン侯爵)さえもアスキスに妥協を求めた。保守党全閣僚が辞職を申し出た結果、アスキス内閣は総辞職した。【↑目次へ移動する】1916年12月6日午前9時半に保守党党首ボナー・ローが組閣の大命を受けたが、彼は組閣にはアスキスとロイド・ジョージの協力が不可欠である旨を上奏し、御前を退下して早速二人に相談した。ロイド・ジョージは「私は首相になりたいのではない。アスキスの優柔不断を一掃したかったのだ。軍事委員会の委員長にさえしてもらえれば私は十分だ。喜んで貴方の下で働く」と述べて協力を約束したが、アスキスの方は「誰か中立的な立場の者が首相になるのでない限り、協力しない」と返答し、ロイド・ジョージを支持する限りボナー・ローにも協力できない旨を表明した。またバルフォアに組閣させるという妥協案への協力も拒否した。午後3時から各党代表による御前会議が開催されたが、アスキスはこの席上でもロイド・ジョージへの協力もボナー・ローへの協力も明言せず、御前会議後には次期内閣への協力を拒否する旨を正式に表明した。これによりアスキスの協力を組閣の前提としていたボナー・ローは大命を拝辞したので、午

出典:wikipedia

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