新バビロニア(しんバビロニア、紀元前625年 - 紀元前539年)は、カルデアの将軍ナボポラッサルによりメソポタミアに建国された。首都はバビロン。カルデア王国とも言う。バビロニアで勢力を築いたナボポラッサルが紀元前625年にアッシリアからバビロンを奪取し建国。紀元前616年、ナボポラッサルはアッシリアを破り()、までアッシリアを撤退させ、さらに。紀元前614年、アッシリアと同盟していたスキタイ人勢力をメディア王キュアクサレス2世が撃破すると、紀元前612年にメディア王国と同盟を結び、アッシリアの王都ニネヴェを攻撃して陥落させ(ニネヴェの戦い)、紀元前609年にアッシリアを滅ぼした()。エジプトから侵攻してきていたネコ2世が紀元前609年のメギドの戦いでユダ王国を攻略したため、紀元前605年にナボポラッサルは長男ネブカドネザルを差し向けた(カルケミシュの戦い)。しかし、同年にナボポラッサルは急死した。エジプトとの戦いが続く中、2代目王ネブカドネザル2世が即位。紀元前606年、ネブカドネザルはカルケミシュの戦いでネコ2世率いるエジプト軍(エジプト第26王朝)を撃退し、新バビロニアの最盛期を築くことになる。彼はイシュタル門や空中庭園などの建設で有名であり、またユダ王国の離反に対して二度の遠征を行いこれを滅ぼした。ユダヤ人の大量移送、いわゆるバビロン捕囚が行われたのも彼の時代である。以後オリエント世界は、リディア、メディア王国、サイス朝エジプト、新バビロニアの四大国時代となり、新バビロニアは主にエジプトと抗争を続ける事となる。この後4人の王が国を治めるが、内3人が暗殺などで僅かな統治しかしていない。さらに神官が力をつけ始め、政治が不安定になる。最後の王ナボニドゥスが紀元前555年に即位し、キリキアやアラビアのテイマなど各地へ遠征を行う等、勢力回復を図ったが、紀元前539年、9月にオピスの戦いで敗れ、10月にキュロス2世率いるアケメネス朝ペルシア軍にバビロンへ無血入城され滅亡した。領土内はいくつかの州に分割され、恐らく中央政府から長官が任命された。他に神殿の官僚達が州行政の上位にあり、これら有力者による集会によって各州・都市は治められていた。神殿の官僚達は地元の有力者が王によって任命される場合が多かったと考えられる。社会構造は大まかに自由民、奴隷、小作人からなった。主に神殿の高級官僚や王室の官僚、職人や商人をはじめ、都市に自由の身として生まれた人々によって構成された。奴隷は王室所有・神殿所有・個人所有の者があったが、基本的に差異は少なく西方のギリシャ世界と比べればマシな労働環境にあったと考えられている。所有者から独立して働く事は稀であった。この訳語が適当であるか定かではない。主に王室・神殿などに従属する小作人達である。彼らは収穫物を小作料の形で王室・神殿に納めており、主要な財源であった。実際には細かい制度上の差異によって更に細分化されていた。
出典:wikipedia
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