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ウィティギス

ウィティギス(Vitiges ? - 540年)は、東ゴート王国の第5代国王。東ローマ帝国から認められた者としては、東ゴート王国最後のイタリア王である。イタリア語名は、ヴィティージェ (Vitige) 。ウィティギスは東ゴート王国の有力な軍人一族の出自で、大王テオドリックの下でも数々の軍功を挙げた勇猛な将軍であった。アタラリックの在位中には外交官としてコンスタンティノポリスを訪問し、530年には領内に侵入したゲピーダエ族を壊滅させたことも知られている。536年11月、テオダハドが退位を迫られたことでゴート軍の集結地から逃亡すると、ゴート軍総司令官であったウィティギスは将軍たちによって王に推挙された。ウィティギスは、東ローマ帝国の将軍ベリサリウス率いる遠征軍の北上を迎え撃つために全軍が結集したローマから一時撤退し、ラヴェンナに後退した。ここで王位を固めるために女王アマラスンタの娘にしてアマル家の生き残りでもあるマタスンタと強引に結婚し、次いでフランク王国と交渉を行い、背後の固めを万全なものとしたが、536年12月10日、ローマはベリサリウスによって占拠されてしまった。東ローマ帝国からローマ市を奪還すべく、536年末、ウィティギス率いるゴート軍はラヴェンナを出立した。ゴート軍は537年2月21日より、わずか5000の守備隊が守るローマを包囲したが、ベリサリウスは巧みな用兵とアウレリアヌス帝が構築した市壁によってローマを守り抜き、包囲戦は1年以上にもわたって行われた。包囲の最中に増援も到着し、手詰まりとなったウィティギスはベリサリウスに休戦を申し入れたが、食料の補給と軍の展開を確保したベリサリウスはあっさり休戦協定を破棄し、538年3月に将軍ヨハネス率いる騎馬部隊をラヴェンナに派遣した。この騎馬部隊によってラヴェンナ南部のゴート直轄領を急襲されたため、ウィティギスはローマの包囲を解き、ラヴェンナに退却せざるを得なかった。538年6月21日、ベリサリウスはローマを出立、増援のナルセスと合流するが、両者の仲は悪く、この隙を突いて後に東ゴート王国最後の王となるテヤがアウグスタ・メディオラヌム(現ミラノ)を奪還する。しかし、東ローマ帝国の優位は揺るがず、ベリサリウス率いる総勢約11,000の東ローマ遠征軍は、ラヴェンナの途上にあってゴート軍の精鋭4000が立て籠るアウクシムム(現オージモ)の要塞を陥落させた。ウィティギスはサーサーン朝ペルシア帝国との外交交渉を行って東ローマ帝国を東西から挟撃することを画策したが、539年末には遠征軍にラヴェンナ周辺を抑えられた。ただし、ペルシアが戦争を起こす構えを見せたため、東ローマ帝国は戦争を早期終結させるべく、東ゴート王国に和平交渉をもちかけた。540年5月、ウィティギスは首都ラヴェンナを無血開城し、マタスンタと共に身柄を拘束され、他のゴート人貴族や降伏した軍人たちとともにコンスタンティノポリスに移送された。マタスンタは、ユスティニアヌス帝の従兄弟ゲルマヌス・ユスティヌス(? - 550年)と再婚し、息子・ゲルマヌス(550年 - 605年)を儲けている。ウィティギスの先妻との息子はウィティギス自身や王妃マタスンタ、テオドリックの姪アマラベルガがテューリンゲン王ヘルマンフリートとの間に生んだ息子と娘、更に西ゴート王テウディスの甥でヴェローナの指揮官だったイルディバルド(ウィティギスの後に東ゴート王となる)の子供と同じく、他の貴族たちとともにコンスタンティノポリスに送られた。また、前述の通り、妻と離婚しアマル家の生き残りであるマタスンタと強引に再婚したが、子女はいない。

出典:wikipedia

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