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林健太郎 (歴史学者)

林 健太郎(はやし けんたろう、1913年1月2日 - 2004年8月10日)は昭和期に活動した歴史学者(近代ドイツ史専攻)、評論家。東京大学教授・文学部長・総長を務めた。参議院議員を一期務めている。東京府出身。父親は海兵32期の林季樹(旧姓・香取)で、ワシントン軍縮条約での減員対象となり、大佐昇進と同時に予備役編入となり、中学の国語漢文の教師となった。『近藤真琴先生伝』(攻玉社、1937年)を編纂している。戦時中は志願して現役復帰し、済州島の航空司令を務めた。健太郎は1944年、31歳の時に徴兵され、大日本帝国海軍の一等水兵となるも、父親のコネで、非常に優遇された軍隊生活だったとの回想が残る。父の予備役編入は、健太郎の東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)在学時代であった。旧制第一高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。旧制一高教授、東京大学文学部助教授を経て、1954年年東京大学文学部教授。旧制一高時代からマルクス主義の立場に立ち、戦時中は反ファシズム論を展開していた。1943年に『独逸近世史研究』を出版し、近代ドイツの政治・社会の特質を解明した。戦後、マルクス主義から転向し、竹山道雄、高坂正顕らと「日本文化フォーラム」を結成した。その後の評論活動は現実主義の立場から時流を批判する立場を貫き、マルクス主義や進歩的文化人を批判し、左派からはタカ派と称された。高校教科書のベストセラーとなった『高校の世界史』を共著した一人でもある。1968年の東大紛争では、文学部長として全共闘の学生に8日間にわたってカンヅメ状態にされ、学生側と団交を行ったが、学生の要求を全部拒否し、剛直な姿勢を貫き通した(林健太郎監禁事件)。当時の加藤一郎学長代行(のち学長に就任)を支え、後任として1973年から1977年まで第20代東大学長。4年間にわたり学園紛争収拾と東京大学の立て直しに尽力した。1983年6月、参院選の比例区に自民党公認(名簿2位)で出馬し、初当選した(ただし、自民党籍はなく、党友の扱いを受ける自由国民会議の所属であった。このため、当選後の自民党の参議院内会派名は「自由民主党・自由国民会議」とされた)。1989年7月の参院選には出馬せず、一期限りで政界を引退した。その後、日本育英会会長、国際交流基金理事長などを歴任した。近代ドイツ史の専門家としてドイツの外交史やドイツ革命史の研究で業績をあげたが、その他に論壇での幅広い言論活動でも知られる。1988年、「戦後の歴史教育の独立を成した」(直後、高等学校地理歴史科が成立)として菊池寛賞を受賞した。1990年春に、勲一等瑞宝章を受章。2004年8月10日午後1時50分、心不全のため、東京都の自宅で死去した。91歳。息子の一人に三井不動産元副社長で現セレスティンホテル社長の林洋太郎。作家・日本文学研究者の林望は甥。保守派の論客であると評価される一方で、以下の様な意見を表明していた。・1930年代以降の日本の行為は、国際聯盟規約やパリ不戦条約、民族自決主義など当時既に確立していた国際法、国際倫理に反し、侵略と呼ぶほかはない。 ・大東亜戦争は日本の他国支配の維持・拡大のための戦争であり、侵略行為の過程で他国との武力衝突を引き起こしたのであり、これを自衛とは言わない。先に自ら殴っておいて、殴り返されたことを以って「自衛行為」とは言えないのと同様である。 ・アジア解放を掲げながら、日本は中国・韓国を解放しなかった。

出典:wikipedia

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