野村 祐輔(のむら ゆうすけ、1989年6月24日 - )は、広島東洋カープに所属する岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(投手)。倉敷市立連島南小学校1年生の時に軟式野球を始め、6年生の時に県大会準優勝。中学時代は地元の硬式少年野球チーム・倉敷ビガーズに入り、主に2番手投手として活躍。西日本大会で優勝する。3年時には地元の強豪高校への進学が決まりかけていたが、その年の9月に広陵高校の練習見学に行き、練習風景や先輩の選手を見て広陵進学を決意した。広陵高校へ進学後、1年生の時からベンチ入り。3年の第79回選抜高等学校野球大会では1回戦で唐川侑己を擁する成田高校と対戦し延長戦を制するなどベスト8に進出した。夏の第89回全国高等学校野球選手権大会では1回戦で第86回、第87回、第88回と夏の甲子園3年連続決勝進出中の駒大苫小牧に逆転勝ち、準々決勝では熊代聖人を擁する今治西、準決勝では同年の春夏連覇を目指していた田中健二朗を擁する常葉学園菊川に勝利。この勝利で、「夏の甲子園4年連続決勝進出阻止」と「春夏連覇阻止」という2つの記録を達成した。決勝の佐賀北戦では7回まで被安打1に抑えながら、8回裏に2被安打と2四球で1点を返された後、副島浩史に逆転満塁本塁打を打たれ、準優勝に終わった。試合終了後、グラウンドでは一切涙を流さなかったが、宿舎で行われた監督の中井哲之の会見中に隣で突然泣き崩れ号泣したという。同大会では、46回を投げて被安打43三振47四死球9自責点13、打者としては主に8番で起用され21打数10安打5打点だった。高校の2学年先輩には藤川俊介、1学年先輩に吉川光夫、同級生に土生翔平、小林誠司、1学年後輩に中田廉、上本崇司がいた。明治大学商学部に進学、硬式野球部入部後は1年春から登板。1年秋では34回2/3を投げ自責点0(失点1)。1964年春の江尻亮以来44年振りとなるリーグ史上5人目の「シーズン防御率0.00」を達成し、最優秀防御率に輝いた。2年春は4勝を挙げるものの、第7週の法政大学2回戦で今井諒にサヨナラ本塁打を打たれて3位に終わった。3年秋は5勝を挙げ、防御率1.30で自身2度目の最優秀防御率に輝いた。11月22日には大学日本代表としてU-26のNPB選抜戦に出場し、1回を無失点に抑えた。4年春には史上14人目の通算300奪三振を達成。秋には東京六大学史上7人目の30勝300奪三振を達成。初のベストナインに選出された。2011年の第42回明治神宮野球大会では、決勝戦の愛知学院大学戦で被安打4ながら打者27人で抑え無四球完封するなど、3試合連続完封勝利の大会新記録で明大5回目の優勝に貢献し、野球人生で初の日本一になった。東京六大学リーグ戦通算65試合に登板し30勝12敗、358奪三振、防御率1.92。菅野智之(東海大)、藤岡貴裕(東洋大)とともに「大学ビッグ3」と呼ばれ注目される。2011年のドラフト会議では広島東洋カープから1位指名を受け、学生野球の全日程が終了した11月29日に球団と初交渉を行い、契約金1億円、年俸1500万円で入団が決定した。背番号は「19」。には、開幕から一軍の先発ローテーションの一角を担うと、4月8日の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)でプロ初勝利。4月29日の対東京ヤクルトスワローズ戦では、8回を被安打1と好投した末に、本拠地・マツダスタジアムでの初勝利を挙げた。前半戦で7勝(3敗)を挙げるほどの好調を受けて、オールスターゲームにも、新人ながらセントラル・リーグ(セ・リーグ)の監督推薦選手として初出場。第2戦(7月21日・松山坊っちゃんスタジアム)6回表から救援で登板すると、3回無失点という好投で敢闘賞に選ばれた。一軍公式戦通算では、9勝11敗と負け越したものの、防御率1.98を記録。セ・リーグの一軍公式戦で最終規定投球回に到達した末に防御率1点台を記録した新人投手は、1966年の堀内恒夫以来46年振り5人目であった。シーズンの終了後には、パ・リーグの益田直也とともに、平成生まれの選手では初めて新人王に選ばれている。には、公式戦の開幕から連敗すると、4月17日に右肩関節唇損傷でプロ入り後初めて出場選手登録を抹消。抹消後に投球フォームの修正を経て一軍へ復帰すると、5月17日の対オリックスバファローズ(呉市二河野球場)戦で、一軍公式戦自身初の完投勝利を挙げた。先発投手として登板した9月12日の対ヤクルト戦(神宮)では、3回表の打席でプロ初本塁打を記録すると、投げても6回4失点ながら自身初のシーズン10勝を達成。一軍公式戦全体では、23試合の登板で、前年に続いてセ・リーグの最終規定投球回に到達。12勝(2完投勝利)6敗、防御率3.74という成績を残した。シーズン終了後の11月には、日本代表の一員として、台湾で開かれた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」に出場した。には、4月に3勝をマーク。しかし、防御率が6点台に達するほど投球内容が不安定で、5月に出場選手登録を抹消された。再登録後の6月18日に対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(マツダ)で一軍公式戦およそ2ヶ月振りの勝利を挙げると、8月まで月間防御率2点台を記録していた。しかし、9月24日の対ヤクルト戦(神宮)で4回を投げて6失点を喫すると、再び登録を抹消。チームはレギュラーシーズン3位でクライマックスシリーズに進出したものの、野村自身はシーズンの最終規定投球回を満たせず、同シリーズでの登板機会もなかった。には、シーズン初の一軍公式戦登板から5試合目までに3勝をマーク。その後は、5月28日の対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ入り後自己ワーストの10失点(8自責点)を喫したり、防御率が5点前後を記録したりするなど不振に陥った。7月には、5日の対ヤクルト戦で約2ヶ月ぶりの勝利を挙げたものの、21日の対中日ドラゴンズ戦(いずれもマツダ)で3回表途中までに5失点(2自責点)を喫したことを機に出場選手登録を抹消。当初は無期限の二軍調整とされていたが、後に一軍へ復帰すると、レギュラーシーズン最終登板であった9月29日の対ヤクルト戦(神宮)でおよそ3ヶ月ぶりの勝利を手にした。一軍公式戦全体の成績は5勝8敗で、登板試合数(15)・投球回(87回1/3)ともプロ入り後最少。防御率(4.64)や勝率(.385)はプロ入り後最も悪かった。には、ロサンゼルス・ドジャースへ移籍した前田健太に代わる右のエースとして、公式戦の開幕から好調を維持。4月28日の対ヤクルト戦(神宮)で一軍公式戦初の完封勝利を挙げると、5月25日の対巨人戦から7月22日の対阪神戦(いずれもマツダ)まで、8試合の先発登板で8連勝を記録した。この間には、6月にセ・リーグ投手部門の月間MVPへ初めて選ばれたほか、7月5日の対中日戦(富山アルペンスタジアム)でこの年のセ・パ両リーグ最速の10勝目に到達。オールスターゲームにセ・リーグの監督推薦選手として4年振りの出場を果たすと、セ・リーグ最多勝利のタイトルをチームメイトのクリス・ジョンソンと争いながら、チームの25年振りリーグ優勝に大きく貢献した。9月2日の対ヤクルト戦(神宮)で自己最多のシーズン13勝目を挙げると、レギュラーシーズンの最終登板であった24日の同カード(マツダ)で、リーグ単独トップの16勝目と勝率.842(16勝3敗)を記録。結局、セ・リーグ最多勝利と最高勝率のタイトルを獲得した。10月18日に「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表に選出されたことが発表された。スリークォーターから平均球速約139km/h、最速149km/h(プロ入り後の最速は147km/h)のストレートとカットボールに近い高速スライダーを武器にし、他にもチェンジアップ、カーブを投げ分ける。また、2014年のシーズンに向けて、大竹寛から教わったシュート系の球種にも取り組んでいる。2015年からは、クリス・ジョンソンの「パワーカーブ」の習得も目指している。下半身主体のフォームで制球が良く、プロのスカウトからは「洞察力、観察力、なんといっても対応力が素晴らしいのでしょう。プロで10年もやってるようなうまさがある」と評される。周囲からはマイペースと言われるが、負けず嫌いで勝負では何でも負けたくないという。両親は「幼い頃からとても変わっている子どもで、自分が決めたことは貫き、人に流されない子でした」と言っている。ピッチャーとしては精神面とキレ、コントロールを大事にしているといい、澤村拓一からウエイトトレーニングを薦められたことがあるが、「自分は『しなり』で投げるタイプなので、筋肉を硬くしたら終わり」との理由でウエイトトレーニングは一切やらないという。趣味は映画鑑賞と風呂。登板日の前日は1時間近く寮の大浴場に浸かり、プライベートで温泉旅行も楽しんでいるという。もともと左利きであったが、2歳の時に祖父に初めて買って貰ったグローブが右利き用で右投げで野球を教えてくれたため、右投右打になった。箸は左手で持ち、字は右手で書く。チームメイトの安部友裕とは生年月日が同じ。俳優の吉村卓也とは、親友であって、高校の同級生でもある。
出典:wikipedia
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