1983年のF1世界選手権は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第34回大会である。1983年3月13日にブラジルで開幕し、10月15日に南アフリカ共和国で開催される最終戦まで、全15戦で争われた。この年からグラウンド・エフェクト・カーを禁止するフラットボトム規定(車体底面を平面とする規則)が導入された。マシンの開発方向は変化し、大型ウイングでダウンフォースを稼ぎ、強大なターボパワーで疾走するドラッグレーサースタイルが主流となった。全16戦中ターボ勢が13勝。自然吸気エンジンはストリートコース3戦でしか勝機がなかった。アメリカ東GPでのミケーレ・アルボレートの優勝は一時代を築いたDFVシリーズの最後の1勝となった。ターボエンジンの開発者として自動車メーカーの参入が続いた。前年のBMWに続き、ポルシェ(バッジネームはTAG)がマクラーレンへ、ホンダがスピリットとウィリアムズへ試験的供給を開始。ホンダは第一期活動から15年ぶりのF1復帰となった。また、ルノーとBMWは複数チームへのエンジン供給を行った。前年ブラバムが編み出したレース中の再給油作戦が流行したが、ピットストップ中の出火事故も発生した。特殊燃料の開発、カーボンモノコック、カーボンディスクブレーキの普及など、ターボ全盛時代に向けた技術改良が進められた。チャンピオン争いは中盤戦までルノーのアラン・プロストとブラバムのネルソン・ピケ、フェラーリのパトリック・タンベイの接戦となった。この中からプロストが抜け出し、残り4戦の時点で14点のリードを取った。しかし、オランダGPでピケと絡んでリタイアしてから歯車が狂い、2連勝のピケに接近された。また、後半戦3勝を挙げたフェラーリのルネ・アルヌーも加わり、プロスト57点、ピケ55点、アルヌー49点で最終戦にもつれ込んだ。結果はプロスト、アルヌーがリタイア、ピケが3位4ポイント獲得し2ポイント差で逆転。見事2度目のワールドチャンピオンに輝いた。敗れたルノー陣営では内紛が起こり、プロストはチームを追われマクラーレンへ移籍することになる。コンストラクターズタイトルはフェラーリが2年連続で獲得した。アメリカ西GPでは予選20番台からスタートしたマクラーレン勢が1・2フィニッシュ。予選22番のジョン・ワトソンは最も後方から優勝した記録の保持者となっている。この年デビューした有力選手はF2でチームメイトだったティエリー・ブーツェンとステファン・ヨハンソン、この年のF2でシリーズチャンピオンを獲得したジョナサン・パーマー、2輪でトップライダーとして活躍したジョニー・チェコット。コンストラクターではスピリットとRAMが参戦し、セオドールが撤退した。1983年に開催されたノンタイトル戦は以下の通り。これは最新F1車両で行われた最後のノンタイトル戦であった。
出典:wikipedia
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