南充市(なんじゅう-し)は中華人民共和国四川省北東部に位置する地級市。南充市の中心市街地・順慶区からは、西にある省都・成都市へ成南高速公路で直結し、南の広安市とは南広高速公路で結ばれている。重慶市と結ばれる渝南高速公路も建設中。南充は四川盆地の北東に位置し、東は達州市、西は綿陽市と遂寧市、北は広元市に隣接する。北は米倉山脈・大巴山脈をはさみ、陝西省と湖北省。市域の大半は丘陵地であり、森林被覆率は25%。土壌流失が深刻である。長江の大きな支流、嘉陵江が南北に貫き、その他大小30以上の河川が流れる。南充市は古代の巴国の領域で、紀元前314年に秦により征服され巴郡となった。秦は現在の閬中市にあたる場所に閬中県を置き現在の南充付近を管轄した。漢王朝が発足すると、高祖は現在の順慶区など南充市区部に安漢県を置いた。これは、楚漢戦争の際、生命の危機にあった劉邦を捨て身で救った配下の武将・紀信をたたえ、その故郷である現在の南充市区部を改名したものである。安漢県は唐代の621年に果州と改名され、その他には閬州(閬中市)、蓬州(営山県)などが置かれた。果州は742年に南充と改められた。1221年には果州は順慶府に昇格した。中華民国の時代に入り1916年、この地方の中心は閬中から南充に遷された。中華人民共和国建国以来、南充市(現在の順慶区)が置かれ南充地区の中心となったが、1993年、南充地区は廃止され、地区に属する県市は新たな地級市・南充市に含まれることとなった。著名な出身者には、歴史書『三国志』の著者・陳寿、紅軍や八路軍の司令となった朱徳(儀隴県出身)など。3市轄区・1県級市・5県を管轄下に置く。空港鉄道道路水運
出典:wikipedia
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